下弦の月




チリチリ走る痛みと焦燥。なにに?なにを焦る、なぜ焦る?そんな必要はない。そもそもこの類の感情が焦燥と呼べるものなのかどうかすら、判別がつかない月の夜。上がり通しの息も、焼け付く匂いに埃の舞い散る爆音の地で、血を浴びて戻ればあの優しいひとが顔をしかめて立っていた。
飛んだ不意打ちだ。胃の裏を殴られる。哀しい顔を、どうしてさせる?他ならぬ護る自分が。この圧倒的に生き辛い世で、新しく名乗りを挙げる幼き人が。真っ直ぐに前を射る眼が、遠慮なく笑う眼が、なにより誰より、そのひととして笑うその眼が、全身を打った。

強くなればいいのだと、追い求めるそれに矛盾はない。そこに生きることで愉しむことを、生きる意味を見出した者は、嬉しさと手柄と共に駆け寄ったひとを酷く困惑させていた。

母が逝き、叔母が逝き、時代は流れも歩みも止めない。
「ふぃー」
吐き出した煙の行方を追えば、青白く赤く仄暗い半月が顔を覗かせていた。高鳴る胸に走る痛みに焦燥に、なにを?一体なにを求めて?そもそも求めているのだろうか、本当に。これ以上なにを?愉しさも日々厚くなる手のひらの皮も日々増える傷跡も、流れる血潮の足跡で、それ以上一体なにを?求めて彷徨う右手の甲に、燃え尽きた煙草の亡骸が舞い落ちた。

あのひとは今日もいなかった。
いなくなったのは知っている。
月の夜はいつもそう。不思議と雲がかかる日は、この屋根の下で、書簡と竹簡に追いやられながらもはっきり不満でもないほどの不満と不安を大きく口にする。だから、どうして……どうしても、こんな日は探してやらなきゃならない。護ると決めた自分のケジメは、チリチリ燻って胸に痛い。増え続ける煙草の亡骸に、反比例する呼吸の数。いつの間にやら味はわかっていなかった。
不気味なほどに迫りくる大きな明るい月の夜。いつもは釣った目尻を少しだけ下げて、口角を上げて八重歯を覗かせる優しいただひとりの人。護ると決めたそのひとは、独り遠くの世界へ繋がろうとする。
現世に嫌気がさすからか、その世へ興味があるからか、違う。遠くを今を、恐れるほどに深みに脚を引きずられる。

「なーにやってるさ?王サマ」
平静を装う以上に見失いそうなその声で、小さな背中を捕まえる。
「あん?ああ、息抜き。お前も飲む?」
振り返るその顔がその声が、痛いほどに、まだしかとここにいた。
「んじゃ」
それに覚える安堵と共に腰を下ろした屋根の上、隣には座れない。背中を向ければ護れない。隣にいれば、きっと離れない煙に紛れた血の匂い。本当はきっと、近付いてしまったら離れられなくなる磁場や魔術のようなものがそこにあって、
「汲めってか」
「ん?」
楽しげにときに疎ましげに、近付いては離れるそのひとに。眼を合わせて斜めに座る月の夜。吐き出した煙草の分身は、数刻前より幾分薫り高かった。
「王サマ、なんか悩んでるんかい?」
「はぁ?なんで?」
そうとしか問えなかった。婉曲表現なんて上等な真似は出来っこない身で、隣には座れない。ほら、間違いない。本当になにか考えがあるときは、そんなときこそ離れていく人だから。現に今だって。
「王サマって、月が欠けてるって思うんさ?」
「……なんの話?お説教?」
ほら、その言い方はそうだ。焦燥に掴まれる背中に胸に、吐き出す煙草の分身に亡骸に、この人にだけは嘘をつきたくない。そう焦れる胸の内の……なんだろう。なにを?なにが、迷いはない筈。矛盾もない筈。その正体のわからない焦燥が、痛いのに手放せない矛盾がここにある。
「三日月見たとき、残りが見えないから月がないって、月がつまんねぇって思うさ?」
「…いや、別に考えたことねぇや。そーゆー難しいの。だって俺仙人じゃねぇし」
嘘ばっか!軽く笑って、心中に降り注ぐ雨。重ならない焦燥の解がここにあるような気がしては月を見た。
「満月の日はお祭りじゃん」
「ああ、だろうな」
「でもさ、朝んなったらお月サンは眠りに行ってお天道サンが起きてきてさ」
護る為に殺めては、近付くように離れはしないか。斜向かいの唇が杯に吸い寄せられた。
「その沈んでる間も、三日月の見えないトコも半月の見えないトコも、全部同じお月サマっしょ?姫発サン」
「だーかーら!もうなんの説教?酒不味いじゃねぇかよー」
「ひひっ、いいじゃん不味くても」
「アホか!なんかツマミねぇのー?つまみつまみ!!」
大げさに声を上げて両手の酒瓶と杯を振り上げるその声は、ようやく色を取り戻した本来のそれだった。別世界へ連れ去るのが己なら、せめてものケジメだ。絶対に、連れては逝かない。
「桃でも持ってくるかよ」
「盗みの盗みかい、酷い王サマもいたもんさ」
そう想うだけの正体のない気持ちにケジメと名を与えた。きっとチグハグなその名は、もっと情欲や劣情や、哀しみにも満ちていて、月の如くすべて丸く丸く、ひとつに回る。その正体を捕まえられるなら。

「バカ、うそだっつーの!」

眩しい逆光のその笑みを捕まえたい。それだけで隣り合えたなら、もっと素直な名を与えることが出来るのだろうか。

「ほら、いい月見酒さ」

眉間にくしゃりと皺を寄せて、昇り始めた鮮やかな肌の眉間を突いて、撫でて、一寸の下降で離れて舞った。仄かに感じるあたたかい情欲と、目の奥に走る幼い神経が軋む夜。

「俺っち、王サマの眼見んの好きさ。上弦の三日月」

だから笑ってなよ、姫発サンは。俺っちが護っからさ。

煙草を咥えた唇が、不自然に動かないように力を込めて思いを込めて。
目の前の頬が綻ぶ瞬間に、解きほぐされる開放される刹那の安堵と明日への決意。そのひとの口角が上がっていて、歳より幾分無邪気な八重歯が覗くように。少しの贖罪と焦燥と高揚も血の匂いも、その笑顔の前でなら温かく迎えることが出来るのだと、そう知ったから。伏せた睫が下弦を描く。
「ナマイキ言っちゃってー、天化ちゃん」
尖らせた軽口の唇と、尖らせた不満の唇は、きっと重なることはない。

護るさ。重なる影を抱き寄せて心中に告げた。
いつか、囁く言葉を愛と呼べたら、蠢く正体に出逢うことが出来たなら、その躯のように清らかにいることも平和に生きることも出来ないけれど。抱き寄せて伝えたい気持ちがある。それだけが、今、胸にある確かな月の淡い夜。

end.

2011/03/07
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