桃と桜と沈丁花




たった一人の特別でありたい。その願いは、自他共に認めるプライドの塊である天化の最初の欲求だった。

父の特別な存在であること。母の特別な存在であること。それは同時に自らが彼等の子供であることを、天化自身が誇りに思う証の裏返しでもある。
「とうちゃのいちばんスキはだれさ?おれっち?てんろくあにき?」
舌足らずに訊ねれば、嘘の苦手な父は記憶の中の些か若い頬をかきながら、声を潜めて"内緒だ"と言った。きっとそれは、兄弟に優劣を付けない為の配慮だったろうけれど、幼い天化にとっては自分の名を呼ばれたも同然だった。
「へへっ」
まんまるなほっぺたを桃色に染めて鼻をすすって胸を張り、幼い子供は青空をすり抜けて自信満々駆けていく。
「かーちゃ、かーちゃ!」
なあに、と微笑む黒髪に抱き上げられてご満悦のバンダナは、父へ問うた言葉を繰り返した。
「かーちゃのいちばんは、だれさ?おれっち?てんろくあにき?」
零れて落ちそうな満面の笑みを乗せたふわふわほっぺを紅に染め、天化は答えを待っている。そうねぇ、と目を伏せた母の御前(みまえ)で、期待に満ちる首を落ち着きなく揺らしながら、足もバタバタ前後にさせて、
「かーちゃのいちばん、だーれさ?」
いたずらっ子は答えを急いた。

ふわ、ふわり。
桃と桜と沈丁花。
春の香りが溢れる黄家の庭先で、碧の黒髪は風にたゆたい目を伏せ笑う。

「私はね、天化も天禄も大切よ。もちろん、お腹の中のこの子もね。」
「ん!」

──でもね。

「私は一生、あの人と生きると決めたの。」
「あのひと?あのひと、だぁれさ?」
「あなたのお父様、黄飛虎よ。天化。あなたも大好きでしょう?その父様が、母様の一番の大好きなのよ。母様が父様を誰より一番大好きだから、あなたたちが生まれたの。」

そう紡がれた春麗らかな昼下がり。少しばかり難しい答えに首を捻って、また少しばかり駄々を捏ねた記憶の片隅。


そっと目蓋を押し上げればそこに広がる白銀の式布と布団。肌触り好いサテンとシルクに包まれて、上布団には深紅と金糸の織物が掛けられて、窓辺から射し込む朝日を幾重にも乱反射させている。その所為だろうか、時刻よりも幾分明るいその部屋の真ん中。寝台の主は未だ夢の中だ。

穴が空くほど、とはこのことを言うのだろう。すっかり青年へと四肢を伸ばした年頃の天化の気だるい脚は爪先に丸まった下履きを手繰り寄せながら、隣で規則正しく上下する貧弱な胸板を追っていた。
あの桜を見たのはいつの日だったか。桜のような見事な大の字に地響きのような鼾をひとつ。思わず咥内に留めた筈の笑い声が漏れてしまった。

貧弱な胸板で無精髭を蓄えた情けない主は、昨夜もその前の晩も、またその二つ前の朝も晩も、
「お前が一番、天化が一番」
そう繰り返し耳に睦言を流し込んでは、飽きもせず十も二十も天化の身体へ口付けていた──。思い出すだけで天化の全身の毛穴がさわりさわりと期待する。蕩ける脳がそう告げる。

"俺っちも"

──すきさ、と。

あの日若き母の告げた気持ちが、今ならわかるのかもしれない。溢れて乱して乱されて、流れ出してはまた満たされて、そしてまた一番になる。名状出来ないままの幸せな香りの正体は。母の微笑みに似ている気がする。

そして気が付くもう一つ。あの日不器用な父が告げた"内緒"の相手は、恐らく天化でないだろうこと。
天化も兄弟たちもみな大切で、それでも"あのひと"と生きたいの──そう告げた母と同じ想いを、幼い天化に謎かけしていたのだろうこと。
それはただの照れかもしれない。逃げでもあれば、はったりでもあり、子供を宥める常套句かもしれない。それでも今想う、桃と桜と沈丁花の香り漂う異国の君主の御前(おんまえ)で、

「俺っちも、ナーーイショさ、王サマ」

父も自分と、同じ気持ちであったろうこと。これだけは紛れもない真実だ。不器用な男は不器用な男に似て育ち、慈愛に満ちた母のように、人を惜しみ無く愛するひとを選んだこの事実。

ふわふわとおぼつかない感情ながら、大切なモノはまだ手の届く場所にある。顔を包んで腕を掴んで丸く染まった頬を寄せたら、この優しいひとはなんと言って驚くだろう。なんと言って喜ぶだろう。もしかすればもう一度抱き潰されるかもしれない。愛の言葉を百でも千でも引き連れて、若干天化を辟易とさせながら。

想い至ればなんだか酷くあやふやなしあわせが胸の中に充ちみちて、なにも知らずに眠る鼻を摘まんでやった。

「姫発さんのバーカ」

季節は廻り、あたたかな桃と桜と沈丁花の部屋で。


end.


やはり素直で不器用な天化の礎は黄家であって欲しいなと。

2014/04/21
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