肌に散る鬱血と鳥肌を追いやると、ほんのり精液の臭いがした。それはさっきまで繋いでいた俺っちの手。妖怪はねぐらに帰る薄暗い時間で、王サマが起き出すにはまだまだ早い。要するに、朝陽のキラキラが橙と紫にまみれて、気持ちいい一日の始まりの時間ってことかね。
表へ出て頭から被る井戸水がいくらか冷たくって、俺っちは秋を知る。煙草は落として踏んづけて、唇にも王サマの痕。風邪?なにさそれ、ひくわけねぇっしょ──んなことを考えながら、くん──鼻が動く。
「──……王サマさ……」
ぞくっと震えた身体は、なんでか知んない。ただ胸ぐらの中の方が、ぎゅっと握られて伐りつけられたみたいさ。豆だらけで水濡れの指の股は、まだ少しだけ王サマのそれの臭いがして、俺っちは堪らなくなる。
胸がいてぇさ──違う、苦しいんだったっけ。あちゃ……やっぱ寒いんか?そんな簡単な五感がごっちゃごちゃのない交ぜになって、俺っちの胸に迫る。

「王サマ……」

王サマの匂いは、いつもそうだった。俺っちを掻き乱して撹乱させて、ぐずる天祥みてぇにぐずぐずになっちまう俺っちらしからぬ俺っちを引き出す天才で、突っ込まれっぱなしのあんなとこが悔しくて、引っくり返そうと思えば、漣みたいな胸の音に躊躇しちまう。桂花が咲くと追い上げられて、やっぱり胸が苦しくなって、ああ、王サマに抱かれたんさ、抱かれてんだな俺っち──そう、実感しちまう匂い。香り。薫り。あっちぃ熱を以て。

雨上がりの朝は少しだけ霧が降りて、朝焼けに照らされた緑は露を蓄えて、水濡れの両手は王サマの匂い。固く乾いちったその証を擦り落として、苦しい胸を広げて息を吸う。息を吐く。また息を吸って、止めて、吐く。こんな簡単なことが難しくなっちまうくらい、俺っちはすっかり王サマに占領されてる。きっと女と王サマの常套句、切ないとか、恋しいとか、そんな気持ちに。
だから俺っちは、朝陽の影に隠れてそっと指先を確かめる。まだ確かに、微かに、そこに感じる王サマの証を。
もう一度被った水に流されて、冷てぇ指先から痕跡を消し去って。親父や南宮克が起きる前に部屋に戻らなきゃなんねぇべ。歩き出したブーツの足が少し覚束ねぇのは、何度も何度もねだったからさ。俺っちが、優しくて堪らない王サマに、堪らなくなって。だから。

あーあまったく……参るさ。参っちまうさ。朝靄に消えちまいやしないかって、外套にくるまる俺っちを笑って宥める王サマに、堪らなくあったけぇ安心をする俺っちなんてさ。
らしくねぇっしょ、おかしいさ。おかしいのに。驚くことに嫌えなかった。

俺っちじゃない俺っちを、引き出すのが王サマで。そんな俺っちらしからぬ俺っちは、王サマの隣を願って止まない。

「……まだはえーぞ、……どこ行ってた?眠れねぇのか」
「んー、なんでもねぇ。中気持ちわりぃから水浴びさ」
そんなやり取りは毎日続く。
嘘八百。気持ち悪くなんかねぇべ。王サマがいるみたいで、俺っちの胸は切なくなんのに。それを流して取り去っちまうことの方が、よっぽど我慢なんねぇのに。

肌寒い日は外套の中へ。一生、冬が続きゃいいだなんて、蝉の合唱と冷たい杏仁豆腐が好きな俺っちが願っちまうのは、どうしてなんだか王サマは知らない。

そんな"らしからぬ"に包まれた俺っちは、あと一刻だけ、外套と腕に包まれることにした。
「起きたら茶ぁ淹れるべ。なんにするさ?」
「ああー、あれ、新しく仕入れた桂花烏龍かね。どうよ?」
「うん、いいさ」
今朝から急に薫りだした桂花──お気に入りの橙色の小さな花のそれに、すっかり心許ない涙袋は、あーたなんかに教えてやんねぇ。こっそり一筋、胸騒ぎと安堵と、言い知れぬ至福の涙が外套に落ちた朝だった。


end.

桂花は金木犀のこと。
二人でいて初めて孤独を知るんだ、天化は。

2012/09/27
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