五年に一度




異変に気付いたのはそのときだ。耳慣れない音が熱風の吹き溜まりを押し上げて、真夏の執務室は夜を迎える。部屋の一角に敷き癖のついた枕を抱えて、デニムとレザーの脚が床を滑った。
「あ?」
読む気どころか見る気もない竹簡の影で、発のもともと釣った瞼が持ち上がる。不機嫌ともとれるような言い回しになるのは、
「ん?なんか言ったかよ」
恐らく彼の本来の言葉だ。飾らずに、しかし悪気もない。だから気付く筈もない。
「なんだってーの、言えよほら」
確かに話しかけられた、と、発の目が告げていた。気に入った細長い円柱状の枕を膝に押し付けて、少年の額に影を落とす白い布。宮廷の庭に集められての日中の稽古の賜物だろう。煤を被ったように灰色の尾は汗に濡れ、力なくうなじの脇に張り付いていた。
「天化ぁ?」
別に、とだけ煙草が動き、目は床の木目をなぞる。
「別にじゃねぇだろ」
そう思うのならば、疑問符のひとつつけてやればいいだろうに。発の声が単調に告げていた。熱風に揺れる卓の花の白さは、その向こうに潜む天化の髪によく映えた。暑さで壊れた遠近感がそうさせる。この白を髪に差したら、恐らく似合うのだろう──そう言ったときだ。
「……ああーハイハイ、悪かったよ」
思わず気のない謝罪をしてしまう程に、かすかだが、地を這うような声がしたのは。
眉を潜める発の視界の隅で、天化のバンダナが左右に揺れる。
「あん?」
今一度訪ね直した言葉の真意を遮るように、今度は刃物で大木を伐るような、鈍く大きな音が這う。枕を膝と腹の間に挟み込んで、いよいよバンダナの額がそこに埋もれる。
「……さっきからよ、お前それ」
「屁じゃねぇさ!」
「言ってねぇよん誰もンなこたぁ!」
灯籠の明かりを浴びて浮かび上がる鼻柱の色は、いつもよりも冷たく青い色をしていた。ブーツの底が床を擦る匂いと音に、発は息を吐かずにいられない。
「それ、てっきり話しかけられてんだと思ったぜ。腹の」
ぐうう、とせつな気な音を重ねて、今度は天化の眉が寄る。ぐう、ともう一度、下手に壊れた二胡のような音までもが、少年のしなやかな腹筋の下を蝕んで。
「んな服で腹冷やしてっからだろ」
んーん、と微かに振られる首は、汗の粒をひとつ落として、俯く天化の唇が大きく息を紡いでいた。それは異様に苦しそうでもあり、熱すら感じる程に発の近くに忍び寄る。
「服着ろよ」
「……ちげぇさ。スイカ。さっき食ったの」
「武成王と同じだけ食うバカがいるかっての!アホかテメェ」
「……平気だったさ。昔は」
「今はフツーの道士様なんだろが」
躊躇いなく放たれるその言葉にすら口惜しそうに──はたまた痛みに堪えるためか──奥歯を引く鈍い音。熱くため息を吐く唇を結んで、小さな雷に似た音が追い打ちをかけた。とうとう肩を竦めた発の向こうで、全身の産毛を逆立てて冷や汗が落ちる。天化のブーツに重なって、発の爪先が床を引っかいた。
「…………へ」
「痛くねぇ、大丈夫」
気付いたのはそのときだ。まろやかな声と温かい手が、数歩先の枕と膝の間に滑り込んだのは。
「大丈夫だいじょうぶ、痛くない」
細く不規則に排出される息は二人の隙間で行き場を失い、蒸し暑い熱風の吹き溜まり。冷たく冷えてなお汗の滑る下腹を撫でる指先は、外気よりも熱かった。

ゆらゆら揺れる卓の花の香りが、汗の粒を弾けさせる。

「便所行くか」
まるで子供に言うようなそれに、バンダナが左右に振られていた。
「んー、……まだ出ないさ」
「ってお前な……ん、大丈夫だ、すぐ治るから」
「……だから、別に俺っちは困ってねぇさ。あーたが」
勝手に──言いかけたであろう言葉の粒を噛み砕き、白い唇が俯いて揺れる。
「俺ごときに近付かれるぐらい痛むんだろっての」
「うーー」
紡ぎかけた"うるさい"の嘆きは呻きになって、発の掌が冷たい腹を包んだまま。大丈夫、を、もう一度。
「慣れてんだ。雷震子も昔しょっちゅう腹痛起こしてさぁ」
決して多くは語らないまま、指先は少しずつ熱を手放して、止まった息に反して震える下腹を庇うように、天化は床に身を横たえた。
痛みに堪えかねるとも、発の指に押されたとも見える程に自然に、癖のついた枕を胸に抱えて。獣の子が喉を鳴らすように音がするのは、腹か天化の喉元か。ようやくぶつかる視線を蒼白な笑顔に閉じた瞼で遮って、枕は床に投げ出される。

子供のように無垢な目元と口許で満足気に笑う少年の額に、もう苦痛は浮かんでいなかった。

甘ったるい水薬のような声が、腹の上に降りかかる。

「ま、腹痛ぐらい俺に任せろよ」
「……んじゃ、王サマ頼んのは五年に一度もないぐらいかね」
「ああ、いーんじゃねーの」
不機嫌ともとれるような言い回しになるのは、
「あ゙?なんか言ったかよ」
恐らく彼の本来の言葉だ。
「へへ、笑っただけ。なんでもねぇさぁ」

陽の落ちる頃。宮廷の庭に振る舞われた膨大な西瓜の群の中。仕事を抜け出した彼がふざけて割って回った数々のそれを、追い掛けるように回って全て食べただなんて話したら、ぶっきらぼうに笑うだろうか。
いまだに答えの見つからない幼い慕情と指先の感触に体を預けて、もう一度だけ雷のような音に笑った。


「…………へ?」
「痛くねぇ、大丈夫。大丈夫だ、すぐ治まっから」
「……ああ、それは別に、」

"発ちゃんに任せろ。"
豪語して包帯の上を撫でる指先に笑みと涙が溢れたのは、確かにそれから五年も後のことだった。

「──……うん」

髭に覆われた彼が笑う。幼いままの少年も笑う。
その額に、苦痛はもう浮かんでいなかった。


end.



夏コミで(一部が)盛り上がった「ハライタの天化」。発はみんなの「おにいちゃん」ですから。
2012/08/14

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