「くそっ!ちっくしょぉお゙ぉぉぉぁぉぉお!!」
幾多の岩石が小石となり砂となり、
「うおらぁぁぁああ!」
断崖絶壁に響き渡る咆哮の主。素肌に黒い革を身に纏った彼の前に、突如現れた青い風。
「くぉらー!そこの破壊衝動の青少年!」
「だあぁああああああああ」
「ええい!止めぬか天化!」
「…スースには関係ねぇさ!!」
宝貝なき今、悲鳴を上げるのは拳とその血潮。良いではないか、他を巻き込まぬなら。やり場のない気持ちなど、消えろ、消えろ、消えろ!
「大有りじゃ!」
振り上げた右の拳を受け止め返す小さな左の掌に、逆立って光る天化の瞳。緑にも似た黒髪が、ゆっくり頭を垂れた。
「…その岩の上にあるわしの家が揺れておる。」
「そんな理由かい」
もう一度垂れる頭と脱力の右手。
「それに。……神界が落ちたら姫発の残した周にぶつかるのう〜!まぁわしは知らぬがー」
「スース!」
「さて。…どうする?天化」
ニヤリと笑う改革者の顔の下、差し出された左手を取らぬ他なかった。
一面に咲く桃色の小さな名もなき花。手の行き届いた正円状の庭の中央に、ぽっかり現れた白い家。そこだけ違う空気が流れるような気がするのは、果たして気のせいか。
「お茶、淹れるね。」
待ってて。そう呟く華奢な後ろ姿は、天使を思わせる普賢真人。甘い花の匂いが満ち満ちている部屋の中、小さな四人がけの食卓を挟み、天化は膝を抱えて縮こまった。
「スース…悪かったさ」
「ふむ…まぁ良い。して天化、おぬしなにを急いておる?」
「…別になんもないさ!」
頑なな声に、改革者――太公望の溜息が漂う。
「闇雲に力を振るうのはおぬしらしからぬ行動じゃ。気付かぬか?」
「…わーってるさ!でもっ」
「でも?」
「……わかんねぇ、さ…。」
再び力なく垂れる頭に、反するように力強く抱き締める膝。
「なにがわからぬ?」
「それがわかんねぇさ!」
ガシャン!叩き付けた右手の下で食卓が揺れる。
「姫発、か。確か今日…」
「スース!」
今度こそ立ち上がった天化を尻目に、望の口元が満足気に形を変えた。
「やはりそうか!おぬし、力は強いが近視眼的で直情的じゃ。蝉玉を笑っておれぬのう〜!」
ふはははははは!ひゃははははは!にょほほほほ!響く笑いはときに残酷で、
「スース!俺っち真剣さ!」
「相当深く病んでおるな」
「なっ…」
その指は、天化の腹を差し、上昇し――胸を射す。
「深い恋の病に犯されておる。いかに仙道でも治せぬよ」
「スース…」
「天化、そろそろ素直になったらどうじゃ?」
「スース、……なにが恋さ?」
きょとんと転がった少年の目に、今度は望の手が止まる番だった。
「おぬし、…気付いておらぬのか?」
「なんさ?」
「おぬしが!姫発に!」
「に?」
「惚れておる!」
どうじゃ!
今度こそ胸を射した指。
「なんでそうなるさ!?」
「きっ…きっ、気付いておらぬ!ぐわぁああ面倒くさい!一番面倒くさい!」
「スース!なんであーたいつもそうさ!俺っち…」
「望ちゃん、そんなに虐めないであげなよ」
のたうちまわる望と今にも掴みかからんとする天化の狭間で、水色の淡く柔和な笑顔が咲き誇る。
小さな音を立てて並ぶティーセット。
「僕の特製だよ。たくさんの糸が絡んでるみたいだし、…ゆっくり話さない?」
「むぅ…」
溜息の望の隣へ腰掛けた普賢に、三度天化が頭を下げた。
「君のことは出逢う前からよく道徳から聞いてたよ、天化くん。望ちゃんの力になってくれてありがとう。おかげで今こうして望ちゃんと幸せな家庭を」
「普賢!余計なことを言うでない!」
「ね。だから、今度は僕たちが君の力になる番だ。そうでしょ?」
「…かたじけない、さ…」
傾くカップにゆっくりと口を付け、漂う湯気に身を任す。
「君は確か、――随分若いうちに仙界入りしたね。そう、まだ第二次成長も始まる前だ。きっと経験していないこともたくさんある。」
とつとつと語る声。
「けどそれが幸いしたさ。躯が造り終わっちまう前に修行出来たかんね。そっからの俺っちの成長は早かった!」
嬉々として告げる声。
ふぅ。立ち込めるタバコの煙に、普賢の表情は読めない。
「それでもきっと、君の師匠は大事なことを忘れてた。――ううん、誤算、かな。仙道の恋はなかなか叶うものでもなし…」
道徳ってその辺がちょっと甘いしね。
トン。
優しく、胸をつく普賢の指。透き通るようなそれに、こくりと喉が上下する。
トン。
「天化くん。君の想う"恋"って、どんなもの?」
「それは…」
「それは?」
「それは…俺っち親父みたいに強くなるさ!そしたら守るべき人が出来る、おふくろみたいな人がいる、いつか絶対親父を越えるさ!そんで大事な家庭を持つさ?」
「おぬし、なんと青臭い…」
「望ちゃんは黙ってて!」
「ぐぬっ…」
トン。
溜息と軽口の前。自分を守るものはなにもない。宝貝もない。この身ひとつ――
目の前に寄り添うひとたちは、酷く幸せそうで、酷く――残酷だ。
「君が想う気持ちははわかる。でも、」
それは理想だね。
トン。
「違うさ!」
「違わないよ。恋って、もっと身勝手で残酷なモノだ。子供の心よりずっと、」
本当に?
「違うさ!そんなんじゃ結局また大事なひとが…先に行っ…」
「ねぇ、それ、"誰"?」
ソーサーの横で押し潰される筈のタバコの火は、震える手に持たれて叶わない。命の灯が、じりじり指に迫る。焼かれる、指が。では、他は?
「黄飛虎、じゃないみたいだね。君が欲しいモノはなに?なにに怒ってるの?誰に?」
「わかんねぇ、さ…」
「そうかな?天化くんはまっすぐだ。"強くなりたい"こと以外、自分の気持ちも性欲も抑えられる程、強い意志を持ってる。」
「当たり前さ!その為にずっと」
「じゃあ、百歩譲ってそれは黄家の血と君の努力なのかも知れない。でも――」
そんな君をここまで乱すひとがいるなら、僕は逢ってみたいけど。
そのひとに、気付かないの?
気付かないふりを、しているのかな?
「…違う、さ…」
ゆっくり、天化の唇が音を紡ぐ。切ない音?悲しい音?
「発ちゃん酒飲みすぎさ!ひとりで頑張りすぎさ!仕事しすぎさ!腹の傷も治ってないさ!そんなことで…そんなんで大事な躯壊してどーすんさ!?」
「ああもう天化、もうそれは直接姫発に言ってやれ!面倒くさい!」
「違うさッ…!」
しない。絶対に。俺っち負けねぇ、負けらんねぇさ!
そうしなきゃ親父にも聞太師にも発ちゃんにも…
「もう失うのは嫌さ!発ちゃん!」
ガタリと、椅子が鳴いた。
「え?天化…?」
混濁するように、否、真っ白く透き通るように、引き戻される意識は。背後に、背後に鳴るは靴の音…
「天化?」
「……発、ちゃん…?」
絡んだ視線は、いつから?
「オイ!なんだよコレ!太公望!」
発の声に我に返った。躯がふわり、宙に浮く。発と共に。
「…スース!」
目の前に浮かぶ亜空間、歪んで、伸びて、縮む。捻じ曲げられる!
恐怖と温かさの同居した、あの、あの覚えのある四角い空間は。
「そろそろ本音の見える頃じゃろう?もう惚気は聞き飽きたわ!普賢に隠れて陣をはっておったのじゃ〜〜!」
「きったねぇさスース!どっから宝貝出したさッ!」
「わしの手にかかればこんなものちょちょいのちょ〜〜い!」
「スース!最悪さあーた!」
捻じ切れる空間、歪む空間。知っている。かつて父がくぐった、あの――紅水陣。
「天化!飛虎を超えるのであろう?」
"餞別だ。くれてやるぜ。"
違う声が、その口から漏れる。改革者の挑戦的な目がニヤリと歪んだ。隣に寄り添う天使のような目は酷く幸せそうに微笑む。歪んでは消え、脳裏に焼きついて、訪れるは静寂だった。
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