さとごころ(1/4)




「だっせーな、なんだよ!ムシキング持ってねぇのかよぉ!!」


小学生の"当たり前"を突きつけて、対戦できねぇ雷電の如し末弟は、荷物片手に立ち去った。ここに住む。契約は28時間の破談と相成る事態。

腹を抱えた笑い声、ため息がふわふわ、クーラーになびくレースのカーテン、半端に開いた遮光カーテン。昼に近付く日を受けて、発より低い背が服を拾った。冷たいフローリングの上に、もともと少ないタンクトップとTシャツと。ジーンズは今履いているから、残るは洗面所の数枚の下着だ。

「……帰んの?」

背に降るクエスチョンマークは穏やかだった。

「……うん」
「そっか」
みるみる集まる白紙の宿題の紙袋、防具に竹刀、薄っぺらい学生鞄とリュックサック。その真ん中のいかつい肩を、3歩のステップが抱き締めた。腕が汗ばんで、くっついて、
「天爵に任せっぱなしだとマズイさ」
「おう。ああ、天祥も遊んでやんなきゃな」
「うん」
離れがたいと叫ぶけど。頷く二人はまた少しだけ背が伸びた。襟足の匂いは恋人の、背中の広さは、"二番目の兄貴の"、
「……んじゃーね、王サマ。また二学期」
「バカ、お前も明後日部活あんだろ」
「ありゃ」
「ったく」
振り返って重ねた唇は、少し大人な寂しがりの。
「お前が忘れてどうすんだよ」
「……ん」
3秒5秒、7秒、10よりはちょっと速く、胸を合わせるよりはもっと速く、渇いた感触が閉まるドアに遠退いた。はふぅ、と一個、あの似合わない一服後のような感嘆のため息と大輪の笑顔を置いて。ちゃんと食えとお小言ひとつ。

胸に広がる家族の香りは、1日前よりあたたかだった。発の指が頬を数回引っ掻いて、緩む口元もふにゃふにゃ数回。──だってアイツが笑ってる。頷いてるんだ。"また"の約束も確約も、触れた唇も腕の中。
「……あーあ、いーかげんがんばんなきゃなー俺も」

また。約束の魔法の言葉に、細めた視線の先のカップの中で氷が踊った。



右と左、たった一ヶ月の放蕩で、家の近所の看板がひとつ変わっていた。緑の番地に代わって、夏の始めに世話になった小児科医員のオレンジが見える。歩くスニーカーは穏やかだ。電車に揺られてホームを伝う人の群れも閑散として、夏の最後に蝉は鳴く。
「……天祥どうしてっかな」
笑いながら拾い上げた蝉の脱け殻が少しだけ恥ずかしかった。

母のいたカウンター、父の歴史、自分と兄が育ったテーブル。通り過ぎる改装真っ只中の白塗りの壁を横目に、前髪を拐う熱風に、微かに混じった秋の色。甘んじて目を閉じて、記憶の中のエプロンが踊る。水色の天禄、黄色の天化。

「俺っちがはこぶさっ!」

持たせて貰えないラーメンどんぶりに業を煮やして、頬を膨らせて、よたよた運ぶお冷やをこぼしたっけ。困って駆け寄る天禄兄貴に、自分よりずっとよちよち歩きの天爵がいて、その記憶の中に天祥の姿はない。今になってもくもく巨大に沸いてくるだいすきな入道雲みたいな力は、きっとあの家がだいすきな、がんばる力なんだろう。昔親父は言っていたっけ。煙草をやめたにわか不良は、くすぐったい身振りをひとつ。

「天化は大人になったらなんになるんだ?オレ様はやっぱ正義のヒーローだからさぁー」
そうはえかけた八重歯で笑う雷神さまのお通りに、押された背中で足は進む。
「邑兄と、発兄と、旦兄とオヤジとオレ様と。もっとでっかくなってバカ卒業したら仕事手伝ってみよっかなーって」
記憶の中の日焼け肌が振り向いた。あの、驚くぐらい惜しみ無く人を好く子。どうやらあの兄弟は、人の背を押すのが得意らしい。
なにさ、それってお節介っってことっしょ?なんて皮肉は、だいすきなあまのじゃくのお土産にしよう。どきどき高鳴る1歩2歩、そしてついに、3歩と半で戸は開く。

「今帰ったさ!」

張り上げた声はおかしくないか、いやちょっとおかしかったさ。まるで父の真似みたいな言い方だった。きっとそのぐらいドキドキして恥ずかしくて、思わず飛ばした咳払いが、きっともっと顔を赤くしたはず。前よりずっと父に似た。ずっと――離れてた、のに。

ひんやり頬を撫でるのは、縁側のすだれと風鈴、扇風機。数年前の温泉旅行の想い出は、今日も黄家の軒下で涼やかに揺れている。甘い草の匂いは畳。"王サマ"がいない証拠が、少しだけむず痒かった。

「ふぇ?にいさま……?」
「おう、天祥!久しぶりさ、元気にしてっか?」
きょときょと転がるまん丸の目は蒸し暑い居間に正座して、まだ何度か首を傾けた。ん?ん?重なる2番目4番目。
「……だれだ、その男」
突如上がった声に硬直したのは兄だった。
「だっ、だれさそっちこそ!」
ツンツン跳ねる赤い毛が緑の畳に散らばって、
「"ナタク兄ちゃん"だよっ!ガクドーの兄ちゃん」
答えたのは末弟だった。それきり寝転んで背を向ける当の"兄ちゃんは"欠伸をひとつ我関せず。散らばるわら半紙の匂い。
「天祥、家に知らねぇ人上げちゃだめって言ったさー。なに麦茶まで出してやっちまってんだか」
「知ってるもん!すごいんだよ、ナタク兄ちゃんさんすうがすっごく早いの!すげぇの!」
「天祥!きったねぇ言葉使うなって母ちゃんも言ってたっしょ!」
「にいさまきったねぇ〜」

──そんなまさかだ。頭ぐりぐりの刑に処すべき愛すべき末っ子が、

「お帰り、天化兄様。ほら天祥、にいさまにお帰り言ったの?」
「あっ、そーいえばー"おかえりー"」
棒読みだなんて反抗期だなんて。次男離れだなんて。天化の足が畳に伸びる。我関せずの赤毛の横に。
「あー天爵ー。悪かったさ、今まで任せっきりで」
「なんでもないよ。それより兄様、帰ってくるなら言ってくれなきゃ。兄様の食事用意してないよ」
「……別に、いらねぇさ。人のこと大食らいみたいに」
「食らうでしょ、父様と兄様は。最近天祥もそうだけどね」
黒髪母似の弟は、すっかり母に似たらしい。何度も感じた母の面影が、母のそれより顕著になった。ドキドキと退屈がごちゃごちゃで、ため息の次男はついに畳に大の字だ。伸ばした指先が掠めたポテチの空袋は、どうやら涼しい顔で入り浸る赤毛のお気に入り。鉛筆の走る音がする。
「すっごいんだよー、ナタク兄ちゃん!"わりざん"と"わりあり"がすげぇの!早いんだぁ」
「わり算と、割合さ。貸してみ天祥」
「う?」
「ム」
「……ほいできた!」
天化の指先でノートに踊る二次関数。xyと縦軸横軸、シャーペンを転がして口の端を上げた天化の首が傾いた。
「ん。これが高校数学さ!どーさ天祥、そっちのチビっこいのも」
「……読めん」
「へへーっ、本物の兄貴舐めんじゃねぇさ!」
「……きったねぇー。にいさま、すうちょくせん知らないの?ぐっちゃぐちゃ!天爵にいさまに言ったら定規買ってくれるよ?」


"それまで僕のかしてあげる。"


兄思いか、その逆か。高校生の証のシャーペンは、新しいえんぴつに夢中で見向きもされないらしい。
"ソレ学校に持ってきちゃいけませんって先生がゆってたよ"。
一月の間に、自分は悪い兄貴になったんだろうか。第一次反抗期から差し出された竹尺と共に、摘まみ出された第二次成長反抗期。
「一月……って、長いんかなー……」
ぐしゃぐしゃ丸めた汗だくの前髪から、まだ誰かの香りがした。

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