雨雲(3/3)




――まずい。根本的にまずい。恐らく今まで迎えた危機のどれよりも。膨らむ怒気に取り付く島なし。予定より早く訪れた水分補給の休憩は、渦巻いて排水溝へ。後半は君たちも中で稽古を、だなんて甘い一声が今はなにより恨めしかった。本当に恨むべき軽口は結ばれたまま、隣同士の膝は触れない。天化。発。韋護。こっそり腹を抱えて笑いを堪える隣にも、恨めしさは募るけど。
すっかり口は聞けそうにない。貧乏揺すりも煙草もないのは道場だからとわかっていて、なら突き刺さりそうなこの怒気は?十中八九発を見ない目。つまりはそう言うこと。
韋護だって同罪じゃねぇかよ。呟いてみたくて止めた事実。追い付きたいのに離れていくのは天化の特性なのだろうか。隣から聞こえる腹の鳴く音に、恋しくなったのはやっぱり当のソイツの手料理だった。

部員全員の掛かり稽古の最中に、道場の隅で初歩の初歩。今までと違うのは、そこに韋護がいると言うこと。ひとりじゃない。
「早打ちしなくていいぜ、ゆっくりやんな」
「けどよー」
「慣れりゃあ速さはあとからついてくるモンよ。せっかく筋いいんだから焦って崩しちゃいけねぇよ」
「……筋いいって」
「お前。試合向きじゃなさそうだけどなかなかな」
「うっそだマジで」
それ以上続かないのは、むず痒い唇を結んだからだ。
「そんじゃもいっちょいきますか!」
笑顔で構える目の前のOBが大きく見えた夏の空。筋いい、筋いい、筋いい、筋いい?筋いいだって?どこの誰が?初めてのリフレインは、少しだけ靄を遠ざけた。近付く日がくればいい、手に入れる日がきたらいいのに。
打ち込む一本が心地よかった。気付けば上がる通り雨、――そうだ。いつだって虹を見るのは二人だと決めたんだっけ。乾いた竹刀が一層強く真っ直ぐ伸びた。

思った筈の決意の矢先で、またもとんでもない音を聴く。
「右手!」
響く凜とした楊ゼンの声に打ち込み続ける天化の身体。竹刀、右足、左足。踏みつけた白線の一歩手前で、見るも無惨に吹き飛ばされる紺の胴着に赤い胴。
「何度も言った筈だよ、右手の力を抜かないと一生小手を捨てなきゃならない。直すなら今だ」
それで平然と立ち上がるあの恋人もどうなんだ?どのタイプの怪物なんだ。前より穏やかな面差しで鎮座する発を、横目でちらり不機嫌な顔。ありゃりゃまだ怒ってら…呟いた韋護の声に袴を握った。視線の先で黙礼する天化の足が、頼りなく床を這う。
「なぁ、思ったんだけど」
動いた発の唇を忌々しく眺める目は不機嫌な恋人のそれで、
「天化ってよ、右手の力っつうより近間過ぎるんじゃねぇの?」
唇を、見る唇が息を飲んでいた。
「前もさ、楊ゼンとやってるときだけじゃねぇ?すげー近間になるの。身長差っつか…だからすり上げ面の途中でつばぜり合いばっ…か、あ、あ?」
静まり返った打ち水の道場で、固まりきった面々を見た。
「あ、違う?よな、違う違うないない!嘘!わっりじょーだん!」
大袈裟に打ち消した手のひらの向こうで、
「……明日から、二チームに別れて見取り稽古を入れようか。みんな気を引き締めて」
微笑んだ長髪が柔和に告げた。



見渡せばもうその背はない。はやる気持ちもしゅんと垂れた頭も少しの意地も、ぶつける前に天化は消えた。
「なんだよもう…」
膨らせた頬はまだまだ子供の色見を帯びて、脚はその背を探す旅に出る。散り散りに帰った部員の中に天化の姿はなかったから。

「天化っつったか?よ、どうだい?楊ゼンのスパルタは」
タイルに跳ねる水の音に天化の顔はシンクを見る。煤けた上履きは春より少しだけきつかった。
「ひっでーだろ」
「別にスパルタとは思っちゃねぇさ。楊ゼンさんより強くなりてぇし」
高らかに響く口笛ひとつ、上向きの蛇口から溢れる水で乾いた喉を潤した。並ぶ背中は大人と子供。
「悪いんじゃねぇのかー?水道水」
「俺っちそんなヤワじゃねぇ!」
「……強情だな、いつからだよ」
問う声に顔を洗って口を結んだ。少しの覚悟と観念と言う名の諦めと、どうやら隠し通せないプライドは、鏡の前に顔を上げる。
「……昨日のよ…朝。起きてからさ」
「それをよー、なんでアイツに言ってやんねぇかね」
沈黙の数秒にまた一口水を飲む。
「…んなかっこ悪いこと言える訳ねぇさ!」
「くだんねぇ意地張ってっとマジもんの恋人になんてなれねぇぞ?」
睨む目は子供の目。
「言われなくたっ…っだ…ったた」
抱えた急降下の腹は形だけ大人の成長過程で、
「あーほら、水道水はよくねぇっつったろーが。薬とかねぇのか」
「っんでもねぇさ…!!」
差し出された手は大人の手、払いのけかけて捕まる手は強がりの手。痛みにうずくまる背中も成長途中の少年背。
「……天化!天化!!」
「げ」
どうしてこんなに格好つかないんだろう。駆け寄っておろおろ抱き締める目の前の人と会ってから、何度も何度も考えたこと。
「ごめん、天化」
「だから大丈夫って言っ…」
どこから何処まで聞かれていたか、今となればそれも無駄な強がりだ。ごめん。素直な声が俯いて、あの減らず口の唇は数日前の倒れた日より青かった。腕の中で徐々に解れる強がりをなんて呼んだらいいんだろう?
「…なんでそこで王サマが青くなるさ」
「当たり前だろ!だって」
強い声に飛び跳ねた防具の名残の前髪も、
「……ごめんな。」
真っ直ぐな目に下を向く。ああ、肩に甘えたんだっけ。重くなる発の肩と預けた天化の額の汗。
「もう無理させねぇから。毎日とかしねぇから、な」
「……うん」
「ごめん。」
やんわり包む腕の力を少しだけ引っ張った。登下校の名目のシワだらけのワイシャツの襟が、発の首を締めていた。
「でもお前もちゃんと言ってくんなきゃわかんねぇよ」
「けど」
「けどじゃねぇの!」
強がりも意地っ張りも大人のフリも、繋いだ指は半人前の恋人繋ぎの始まりの日。
「…うん」
盛大に音を立てた天化の腹にうろたえる発も今日で見納め、なるだろうか。
「コンドームで今度生むってな!気ぃつけなー初心者マークさんよ」
忘れた頃に降りかかる笑い声と揶揄の拍手に硬直したのはまた別の日の1ページ。温まりなおした胸の内、明日も低気圧の予感がした。

end.


韋護くん好きなのです。ちとでしゃばります(笑)
2011/09/07

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