言わずと知れた不吉な日、13日の金曜日。カァ、カァ、朝からうるさい烏を尻目に
「行ってくるさー!」
誰ともなく呟く筈だったその挨拶は、思ったよりも胸に響く。木造の、住み慣れた家族みんなのこの家に響く。
「行ってらっしゃい兄さま」
「天化兄ちゃん待ってー!僕も通学班まで行くーっ!」
「おっし、んじゃあいっちょ久し振りに競争すっか!」
「やった!僕速いからね!」
「そりゃ楽しみさ〜」
父の声はしなかった。恐らく始発で会社へ発ったのだろうその理由に、ムズムズ自惚れてしまいそうだった。そして心配のソワソワ半分。へへ、鼻の下を指で擦れば照れ笑いと緊張が走る。
いつの間にか、甘えったれと手を焼いた末弟が自分を"兄ちゃん"と呼ぶようになったらしいこと。嬉しくて少しだけ寂しくて、誇らしい塊が、こんなに大切なモノがこの家にあること。春から抱いていたはずのモヤモヤはいつの間にか脱皮していた。いや、羽化かも知れないけれど、走り続けた結果は未来を照らしてくれる気がして、
「行ってらっしゃい、天化」
聴こえた、気がした。
慈愛に満ちてあたたかで、アイロンの匂いがする、そんな声が。
「見ていますからね。胸を張りなさい、」
──愛しい我が子、黄家の子。
「──……かあちゃん」
秋晴れの青空の真下で首を傾げた天祥の横、
「行ってくるさ!」
振り向き様にもう一声を張り上げた。
呪いの13日じゃない、決戦は金曜日。昔流行ったそんな曲を、若き日の父と母は大変気に入っていたらしい。もしかしたらたゆたう羊水の記憶は、自分にもあるのだろうか。二人の間で、聴いていたような決戦は金曜日。
「うっしゃ!」
ガッツポーズと共にくしゃくしゃに潰したA4用紙は、半人前へと背伸びする彼を大人へ導く、まだ見ぬ宝の地図へと姿を変えた。