無抵抗ヒーロー




そんなあやふやな感情に任せているから、あなたは必ずそうなんですよ、"おじさん"?──浅はかな背中に言いかけた言葉は、言った所で何になる?
この人になにかを伝えて伝わったことなどあっただろうか?

僕の腕の中で無抵抗なまま向けられた背中に、嘲る気力も沸かなくなった。前髪の分量に比べて少なく短い黒い襟足が、荒れた褐色の肌に浮かべたボーダーライン。
「いい加減、古いと思いますよ」
「……んー?なにがだよ?」
「髪の切り方です。言っても変わりませんか、おじさんの価値観は」
いつ暴れ出してもおかしくない。その為に万全を期した僕の両腕は、もう一時間の定刻以上この中年の背を締めたまま。鼻先でボーダーラインを掻き分けて、少し白い、混濁した欲の臭いがした。浮かび上がるのは如何ともしがたいため息ひとつだ。──……この人に関わるすべてのことは、いつだって微弱な苦痛を伴って、僕の自嘲を乱暴に引き出す。もう充分知ってるじゃないか──

「バニー」
「バーナビーです」
「んなため息つくなら離してくれていいんじゃねぇのかよ」
「聴力だけはいいんですね、年のわりに」
「あーあー可愛くねぇ…」

そう言ったきり抵抗らしい抵抗も見せない背は、また沈黙を奏で出す。今までだってそうだ。過去2度に渡る僕の一連の暴挙も言動も、心情も都合も感情も、この諦めた背に曖昧に流されたまま、あやふやな日々は続いていた。夏の初めの暑い日だった。
「自分の状況わかってます?」
ただ今日は、顔を上げる気も、それ以上に伝える気も、既に僕の中から削ぎ落とされてしまっていたけど。
「眠くて仕方ない大人をからかう子供の夜泣きに付き合わされてる、てとこだろ?」
「……真面目に考える気はないんですか」
顔は見えない。相も変わらず、あの調子の声が笑いの振動を作るから、僕はまた顔を埋めて黙るしかない。

「なぁ、バニーってば」

この人はいつだってそうだ。他人と他人の関わる一連のいざこざには、諦めるの一言も、一歩引く一言も知らない癖に、
「わかってるし考えてるっての!だぁーあもう!明日立って寝てたらどうすんだよ!バニーちゃんは時計の針読めないのかなーぁ、ボクー3時でちゅよ!オヤツからまた一回りでちゅよ!朝でちゅよバニーちゃん!大人気ヒーローさんがそれじゃぁ子供に人気ってぇのが」
「ええ読めませんよ?デジタル世代ですから」
「嘘つけ!ん〜っとにコノヤロ可愛くねぇなっ!!」
自分のことは百も一もゼロすらもわからないままに、諦めることしかしない。それは過去二回で痛い程見知っていたし、もう言って無駄な境地だとも知っている。
「……抵抗しないんですか」
「してやめるんでちゅか、バニーちゃん」
「わかってるなら、逃げるなり叫ぶなりあるでしょう」
「またんな勝手な」
「なんで抵抗しないんですか」
「だからよー、バニーちゃ」
「バーナビーです」
しばらく訪れる無音の時間に、ようやく見せた抵抗の右手は派手に頭をかいた後、そのまま元の位置に戻った。人質の要求もその理由も、僕にだけ一切伝えられない。嘲る気も失せたら、
「バーナビー」
その声の振動にだけで堪らなく込み上げる僕がいて、無音は破られる。
「眠れそうか」
「──……は?」
「この前のカプセルもよくなかったろ?それからずっとだ。それにまた痩せたんじゃねぇか、ちょっとは」
「なんでそんなっ…」
「ええ?」
浅はかな背中に言いかけた言葉は、言った所で何になる?この人になにかを伝えて伝わったことなどあっただろうか?
「……お節介なんですか」
「そりゃお前…長年のカンだな。どっかのハンサムな誰かが懇切丁寧に3ヶ月ブンブン振り回してくれたからよ」
今日2回目の抵抗で脱け出すことを許された褐色の手のひらが、締める僕の手を叩いていた。──それは酷く優しく、懐かしい音を伴いながら、だから僕は顔を上げられない。
「寝てろ、ほら。犯人前に倒れるぞ」
「……寝てません、寝ませんし倒れません」
「いつ要請来るかわかんねぇだろ。ちょっとでも寝とけ」
「……から寝ません」
「……あーっと…それとも今日もそーゆーことになるのカナ?」
「当たり前です」
「それ即答かよお前……なぁ、バーナ」
「好きです」

それきり訪れた無音は、休みないおじさんが諦めたのか、僕が眠ったのか、それすら遠退いてわからかった。
なにかを伝えて伝わったことなど1度もないけど、
「当たり前だろ……じゃなきゃいくらなんでもぶっ飛ばすぞ。……気もねぇってのならあんなこと許すかよ…」
言わなくて伝わったことは百もあるかも知れない。前例なくあやふやな感情に満ちた僕は、ごねるボーダーラインを感じながらあたたかな眠りを手に入れた。

いつか言える日が来るのだろうか。僕の鮮やかで、白濁にまみれた、臆病な慕情を。
乱暴してなお無抵抗なヒーロー、その人に。もしそうならば──嗚呼、それはとても、心地好いのかも知れなかった。


end.


2011/12/01に書いたもの。お蔵入りにしておくのも可哀想なので、バニーちゃん安眠記念に。
2013/04/07
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