ネタバレ・本編程度の流血表現有り
夢を見る。
毎日の様に、毎晩の様に、私は決まった夢を見る。
夢の中で、彼は――狛枝凪斗は、私を愛し、私に愛され、互いに慈しみ合う様な希望溢れる時間を過ごした後、絶望的な、死を迎える。
細部がいくらか異なっても、その結末は、彼の死と言う結末だけは、毎回少しも違わず同じだった。
ジャバウォック島は今日も楽園だ。
いつもの様に南国の陽気が降り注ぐ砂浜で、私は地面に立てたツルハシに体重を預け、ぐったりと項垂れていた。
ぬるま湯の様なゆるゆるサバイバル生活にも慣れて来た所。それなりの日数を過ごしているにも関わらず、不思議と空は晴天続きで、天気が崩れる事は一度もなかった。
ここは、私が生まれ育った日本ではない。そう言う気候の島だと言われれば、まあ納得は出来なくもない。
別に雨など降らなくとも、水や食料は常にいつの間にか補充されるし、むしろ屋外作業中に突然のスコールに見舞われ……と言う展開に遭遇せずに済むのは、ありがたい事と言えるだろう。
――しかし、この暑さだけは。
はぁ、と大きく息を吐き出して、額の汗をぐいっと拭う。
「……あっつ……」
じりじりと身を焼く南国の太陽。広い島内のどの場所も、屋外であれば暑いのは同じ、ではあるのだが――この砂浜は格別だ。
日差しを遮るものは殆どないし、真っ白な砂浜ときらきら輝く海面は、うつくしいだけでなく、鋭い光で容赦なく目を焼こうとする。
暑い。
何度思い浮かべても飽きたらない単語を脳内で反芻しながら、渋々と顔を上げる。
未だ日は高い。休憩くらいは入れてもいいかもしれないが、作業を切り上げて帰るには早すぎる時間だ。
もう暫くは、この暑さに耐えながら、採取作業を続けなければならないだろう。
「……はぁ……」
何度目になるかわからない溜息と共に、汗でのせいで首筋にはりついた髪をまとめようと腕を回した。
「……苗字さん、その仕草、凄く色っぽいね」
そして、耳に入った楽しげな声音に、動きをぴたりと止める。
ねっとりと絡みつく様な視線を体に感じ、ぎこちない動きで首を巡らせると、そこにはあの胡散臭い笑顔が――狛枝凪斗が、南国には不釣り合いすぎるロングパーカーを風に靡かせ、悠然と佇んでいた。
「……色っぽいも何も無いよ」
「そう? そんな事ないと思うけどな」
「何でもいいから、そうやって私の事じろじろ見るのやめてよ。気が散るでしよ」
「……ふぅん? ボクに気づくより前から、全然集中出来てない様な気がしたけどなぁ」
意味有り気な笑みを浮かべて、狛枝は囁く様にそう告げた。あの、低く掠れる様な声音で。
ぎくり、と。体を強張らせたのに、狛枝は気づいただろうか。
「……アンタの思い違いよ」
「ふぅん。そっか」
あまりにもあっさりと、狛枝はそう言って会話を打ち切った。
全身に絡みつく様な視線は相変わらずだったが、敢えてそれを無視する。狛枝を視界に入れない様に顔を逸らし、意識しない様に努めながら、髪を束ねるのを諦めて手を下ろす。
ざり、と足元の砂が鳴る。無意識に、足が勝手に、狛枝から距離を取ろうと後退りしたがっていたらしい。
くそ、と内心で悪態を吐く。狛枝に、よりによってあいつに――気圧され、逃げ出したいなどと思わされていた事に。
採取道具のツルハシを引き摺り、いかにも『そろそろ採取ポイントを変えようか』とたった今思いついた様な素振りで、狛枝から離れる方向へと歩き出そうとする。
どうして、よりによってこんな日に、狛枝と一緒に行動させられるなんて。
己の不運を呪った私は、しかしそれが今日に限った事ではないのを思い出して、熱に浮かされた様な頭をがしがしと掻き毟った。
それ、を夢に見るのは殆ど毎日の事だったし、狛枝と行動させられるのも同じだ。
言動の端々にさり気なく滲み出る狂気に気づかない者は、今や一人として存在しなかったし、それを知る者が彼との同行を避けたがるのは当然の事。いつの間にか、採取で狛枝とペアを組まされるのは、私に殆ど固定される様になっていた。
だから、あの夢を見た後に狛枝に会って気まずい思いをするのもいつもの事だからよりによって今日なんて感想を抱くのはおかしい筈でなのに何で私はたまたま今日だけがそうだったみたいに狛枝の顔を直視出来なくてそれで狛枝に、
「…………あれ?」
ぐらぐらする視界の中で真っ青な空が歪に崩れ、苗字さんと焦った様な声を耳の奥に聞いた。
何でこうなるんだろう、生白い肌に暑苦しいパーカーを羽織った狛枝の方が、私なんかよりずっと暑さには弱そうなのに。
相変わらずぐるぐるに渦巻く脳内をどうにか整理し、正常と言えそうな程度に思考回路を取り戻すと、ゆっくりと重い瞼を持ち上げた。
薄く開いた隙間から最初に入って来たのは、不思議な淡い色合いの瞳。きゅっと眉を寄せてこちらを見下ろす、いや覗き込む、そんな狛枝の白い顔。
「あ……苗字さん!」
「……こまえだ」
喉を無理矢理震わせて絞り出した名前は、引き攣った様な、掠れた音にしかならなかった。それでも狛枝は、安堵した様に頬を緩めて破顔する。
「良かった」
それだけ言って、狛枝は項垂れる様に首を落とした。
視界に映る白い顔が角度を変え、――そこでようやく状況を把握する事になる。
先程までいた筈の場所とは違う。そこから少し歩いた所にある、群生する椰子の木が作る小さな木陰の中に、私達はいた。
背中を木の幹に預け、足を投げ出して座る狛枝と。
その膝に頭を乗せて、仰向けに横たわる自分。
「……ここまで、アンタが運んでくれたの」
「うん。……覚えてない?」
「……ごめん。全然」
膝の上でゆるゆると頭を揺らすと、狛枝は、そっかと小さく頷いた。
「罪木さんが近くにいてくれたら良かったんだけどね。今日はたまたま遠出してるみたいだったから。呼びに行ってる間に何かあったら困るし、ボクの腕力じゃ、苗字さんを遠くまで運ぶのは難しいし」
「いや……十分だよ。ありがとう、助かった」
椰子の葉が風に揺れ、顔に掛かった木漏れ日に、少しだけ目を細める。
つられた様に、狛枝も目を細めた。あの、奇妙で不思議な色合いの瞳を、すっと細く尖らせる。
「大したことじゃないよ。ボクみたいなゴミ以下の存在が、希望であるキミの役に立てるなんて――」
それはいつもの自虐口上と大差ない、聞き慣れたフレーズだった。
しかしそれを放つ唇は、こちらを見下ろす瞳が宿す感情は何かが違う、と直感的に察知する。
「……狛枝?」
囁く様に名前を呼んで、重い腕に力を入れて、それを無理矢理に持ち上げた。真っ直ぐに、上に向かって。
ぎくり、と言う風に動きを止めた狛枝の、その不健康な程白い頬に、ゆっくりと両手を伸ばす。
そっと指を這わせて、その頬の冷たさに少しだけ眉を動かす間も、狛枝は凍りついた様に、身動き一つしなかった。
「……狛枝……」
「……何か、気になる事でもありそうだね?」
びくん。狛枝の頬に這わせる指が、僅かに跳ねた。
表情の抜け落ちた顔で、狛枝は静かに告げた。そして、静かに笑みを浮かべる。やわらかく、穏やかで、儚げな笑みを。
「大丈夫。ボクは全部わかってるからね。苗字さんの事は、全部……キミ自身よりも、ずっと、よく……わかってるんだ」
白く細い、節の目立つ指が、慈しむ様に私の頬を包んだ。
そして落とされる、ひんやりと湿った唇。
「……ん」
無言の狛枝に誘導されるように、自然と瞼を下ろした。声にもならない様な音を小さく漏らしただけで、驚く事も抗う事もなく、その唇を受け入れる。
無意識に開いた僅かな隙間に、舌が入り込んで来る事はなかった。
湿った感触が離れ、それを追う様に、ゆるりと目を開く。
霞が掛かったように茫洋とした意識の中、揺れる視界に、狛枝の微笑が滲んで見えた。
「……抵抗、しないんだね」
からかう様な口調だったが、その奥には何か、押し隠された感情が見え隠れしていて、察知する。
しかし、何も口にする事はなかった。出来なかった。他の思考が、疑問が、それを許さないまでに荒々しく脳内を駆け巡っていたせいで。
抵抗、しなかった。しようとすら思わなかった。
何故? 今の自分と狛枝は、恋人同士でも何でもないのに?
……『今の』?
「……こまえだ……?」
「うん。ボクは狛枝凪斗だよ」
初対面の自己紹介と同じ台詞を、狛枝はゆっくりと口にした。どうして、今更?
視界が歪む。ぐるぐると、うねうねと歪んで曲がって、ぐちゃぐちゃに混ざり合う。
何度も聞いた自己紹介の記憶、幾度と無く繰り返されたその場面。
「……あれ? 何で私……何度もって、どうして……」
「……大丈夫だよ、苗字さん。思い出す必要はないし、もし思い出してしまったとしても問題はないんだからさ。
キミは、キミの思い通りに存在してくれれば……それでいいんだ」
全部、ボクがしてあげるから。この楽園に、ぬるま湯の様な世界に、永遠に浸っていられる様に。
歌うように狛枝が囁いて、私の瞼にゆっくりと手を翳す。
それを疑問に思う事もなく、抵抗など勿論する筈もなく、静かに目を閉じた。
――全部、知ってるよ。
キミが超高校級の絶望だって事も、偽りの楽園に逃げる選択をした事も、全部、全部。
それでもボクは、キミを――希望でないキミを。
――随分、早くなって来ているみたいだ。何度も繰り返すうちに、リセットの効果が薄くなって来ているのかもしれない。
今回も、その一つ前の回も、『恋人』に辿り着く前に終わってしまった。彼女と愛しあう事が出来ないまま、名前は『終わり』の条件に辿り着いてしまった。
「……まあ、それでも別に、構わないんだけどさ」
少しばかり残念だとは思うものの、その程度の事は、『これ』をやめる理由にはならなかった。
口元に薄い笑みを浮かべて、狛枝は右手をゆっくりと持ち上げた。
しっかりと逆手に握るのは、軍事施設から失敬して来たアーミーナイフだ。
コテージの照明を反射してぎらつくその刃を、何気ない様子で見遣り、狛枝は笑った。あはっ、と声を上げて笑った。
目の前のベッドには、目を閉じて横たわる名前の姿。
「苗字さん……キミの望みは、ボクがちゃんと叶えてあげるよ」
絶望と向き合う事を、自らの記憶が消失する事を恐れ、虚構の楽園に留まり続ける事を選んだキミのために。
初めてボクを愛してくれた、ボクが初めて心から愛した、ただ一人のキミのために。
殺した者も殺された者も、全てが別け隔てなく存在出来るこの世界で、キミは全てを忘れて幸せになればいい。
余計な事は考えなくていいし、絶望的な現実を思い出す必要もない。もし思い出しそうになったときは、ボクがリセットボタンを押してあげる。
そうすればキミは、キミの身に降りかかった不幸なんて、何も知らずに過ごせるんだから。
キミが忘れてしまっても、ボクは全部覚えてる。キミとボクが愛しあった事実は、なかった事になんかならない。だから、ボクは構わない。
キミの存在だけが、希望も絶望も全て失ったボクの、唯一の指針なんだから。
左手の人差し指でナイフの刃に触れ、そのまますっと滑らせる。
指先には当然の様に赤い筋が生まれる。それはまるで現実の自分の左腕に付いているであろう女の指先と同じ色で。ぷつぷつと小さく湧きだした血の雫を、狛枝は舌先で舐めとった。
視線だけは眠る名前に据えたまま、口元の笑みは絶やすことなく、歌うように言葉を紡ぐ。
「……さあ。そろそろ『今回』も終わりにしようか。ちゃんと、戻してよね――17人、全員が揃った世界に、さ」
右手でナイフの柄を握り、広げた左の手のひらを、その端に添える。しっかりと、奥深くまで押し込める様に、力を込めてナイフを構える。
刃を水平に寝かして、肋骨に阻まれる事がない様、慎重に場所を選んで息を吸い込み。
――そして、一瞬の躊躇すらなく、自分の左胸にそれを突き立てた。
「……っ……は……」
痛みと苦しみに苛まれながらも、ぐっとナイフを捻る事は忘れなかった。
肋骨の隙間から的確に心臓を貫いた刃が、肉を抉って更なるダメージを与える。確実に、死をもたらすために。
虚構の楽園には、全ての仲間が欠ける事無く存在していなければならない。
だから、一人でも欠けた時点で、世界は強制的に巻き戻されてしまうのだ。その中にいる者達の、記憶ごと。
どういうわけか、狛枝一人だけが、その記憶を巻き戻される事無く維持する事が出来る様だった。名前達がこの世界を選択して、その最初の周で既に狛枝はそれに気づき、そして名前が思い出しそうになる度に自らを殺す事で世界を巻き戻して名前の記憶を失わせて名前が絶望的な現実を思い出さずに済む様に虚構の楽園で安穏と過ごしていられる様にそれだけを狛枝は望んで何度も自らを殺し続けてそれを永遠に繰り返すつもりで、
「あ……は、っ」
いつもいつも、楽に即死させて貰えないのは、ここがゲームの中だからなのだろうか。
口の端から赤いものを伝わせ、力を失った体が床に崩れ落ちても、狛枝はまだ暫く意識を宿したままだった。
痛い、苦しい、辛い。だが、それをやめるつもりはない。何度だって、永遠に繰り返す事になろうとも、絶対に。
力の入らない頭を無理矢理持ち上げて、限界まで眼球を上向かせ、名前の眠るベッドに視線を向ける。
名前の姿を視界に捉える事は出来なかったが、それでも満足だった。血泡の混じった笑い声を吐き出して、声にならない声で呟く。
――こうして世界はループして行くんだね。