タイトル

いわかんO

「朝だぜ!!起きろー!!!」

起床を促すその声に、研磨はパチリと目を開いた。目の前に広がるのは見慣れない天井と、カーテン。その隙間から洩れる淡い朝の光だった。

「…………」

 研磨はゆっくりと起き上がり、辺りを見回す。締めていたカーテンを開くと、外は青い空がっていた。
 今度は布団から這い出し、部屋の中を見回す。昨日と同じ、布団と鞄のみがある部屋で、枕元に昨日着ていた服が無造作に置かれているのが見えた。先程の大声を出した本人であろう山本が研磨が起き上がったのを見るとバシッと背中を叩いて顔を洗うためか出ていった。いつも通りの騒々しさをを確認して、研磨は重く長い溜息を吐く。
 昨日のあれは夢だったのだろうか。だって昨日の廊下からこの布団に入った記憶がない。おそらく疲れ切って記憶が飛んでしまったのだ。くだらない質問も最後のあんな訳の分からない現象も、全て夢の中の出来事だったのだ。次はそう安堵の混じった息を吐く。たかが夢の出来事にしては、随分と変わった趣向を凝らしたものではあったが。
 そう結論に至った研磨はベッドから抜け出し、朝からシャワーを浴びることにした。朝食に少し遅れることになるかもしれないが、許容範囲の時間には間に合うだろうと部屋の扉を開ける。
 とにかく気持ち悪かった。寝汗を多少かいていたのもあるが、それよりも頭の中にもやもやとはびこるものが気持ち悪さを助長していた。それを振り払うためにも、綺麗に洗い流すためにも熱いシャワーを頭から浴びたかった。
 服を脱ぎ、シャワーのコックを捻る。最初は冷たい水の粒だったものが次第に温もり白い蒸気を発していく。ちょうど良い温度になったのを手で確認して、研磨は頭からいつもより熱めにした温度の水滴を降り注がせた。少しだけ皮膚に痛みを感じさせるほどの熱く強い水圧が、今は心地良く感じられた。

「夢のクロが言いたかった事はなんだったんだろう」

 額から湯が流れ落ち、研磨の身体を沿って下へ下へと向かっていく。最終的には排水溝へと流れていく水の流れをぼんやりと見ながら、そんな事をぽつりと零した。
 夢は、寝ている間に行われる記憶の整理の最中に見るものだと言われている。また、無意識の願望と過去の記憶が結び付いた時に見るものだとも。
 それなら、夢のクロが告げた内容は何だったのだろう。
 たった一人以外の全ての人から愛される人生と、たった一人からしか愛されない人生。
 研磨は迷うことなく前者を選んだが、もしどちらかを選べと言われたなら大半の人は自分と同じ答えを選ぶのではないかと思う。なぜなら人は一人では生きていけない、大勢の人と関わりながら生きていくものだからだ。無人島で一人生活するわけでもない限り、他人と関わることは避けられない。
 長い人生を、会う人会う人全ての人に疎まれながら生きるなんて考えたくもない。自分の顔を見られる度に顔を顰められ、罵倒されるような人生なんて送りたくない。そんな人生は生き地獄のようだ。
 だから、絶対に研磨が選んだ人生の方が楽しいはずだ。自分を愛してくれない人が一人いるだけで、それ以外の人全てから愛されるのなら寂しさを感じはしないだろう。自分を愛してくれない人など、気にしなければいいだけの話だ。自分を嫌う唯一の人物も、嫌っている相手から邪険にされても特に困りはしないだろう。
 こうして考えると、前者の人生が後者に比べてあまりにも得が多すぎる気がした。選ばせる意味があったのかとすら思える。後者を選ぶやつなんていないと思えた。
 だが、それを選んだのは他でもない研磨自身だ。自分はあの夢にいったいどんな願望を抱いていたのだろう。あの夢に、いったいどんな意味があったというのだろう。皆から愛される人生を送りたいと、そう自分が望んでいたということだろうか。
 答えは、出ない。

「まあ、クロがふざけるなんていつもだもんね」

 コックを捻り、熱いシャワーを止めた。身体は皮膚が赤くなる程温まり、頭もさっぱりとしていた。頭を軽く振ると長い髪から水滴が飛び散る。額から頭頂部にかけて右手で髪を掻きあげて、それから湯気の充満している浴場を出ることにした。
 身体にまとわりついた水気をバスタオルで拭う。最後に髪をわしゃわしゃとハンドタオルでこすれば後は自然乾燥で乾くだろう。。
 設置された時計を見る。七時二十分を過ぎた所だった。あまり遅れるわけにはいかないので髪は生乾きのままにするしかない。換えの服に着替え、研磨は皆が集まる食堂へと風呂場から足を踏み出した。

「よっ研磨。今から朝食に向かうところ?」

 脱衣所から数歩歩みを進めた所で背後から声がかかった。振り返ると少し視線を下げた所で夜久が片手を上げて立っている。

「おはよう。夜久もそうなの?」
「いや、山本が研磨が起きたはずなのになかなか来ないって言うから様子を見に来たんだ」
「……今日、んーん、昨日 中々寝れなくて。朝からシャワーを浴びてたんだよ」

 そう言うと夜久はチラリと視線を上に向ける。研磨の髪が少しだけ湿っているのが見て取れたのだろう。なるほどといった様子で視線を下げ、夜久は納得したようだった。

「合宿キツイからな。倒れそうなら猫又監督に言って今日は休ませてもらっとけ」
「そこまでの事じゃないよ。いつも通り練習は出来る」
「そうか? 体調管理はしっかりやっとけよ」

 研磨の意志を尊重し、その上でねぎらいの言葉をかけてくる夜久に研磨は心の中で感謝した。
 夜久だけではない。他のメンバーだって基本的には研磨に友好的な態度を示し研磨の力を頼ってくれる者ばかりだった。
 順風満帆とはまさに今のような状態を指すのだろう。何の問題もなく日々を過ごせている。だからこそ、今日見た夢が妙に気にかかっていた。
 あのクロの言葉が、笑い声が、どうしても頭から離れない。
 あの夢が何か不吉なことが起こる前触れのような気がしてならない。たかが夢だと割り切ることが出来ないでいた。
 そうこう考え込んでいるうちに研磨達は食堂に到着していた。朝食の並ぶ机が見えてきた所で、入口近くのテーブルに座っていたリエーフが二人に気付き声をかけてきた。

「あっれー? そこにいたんですか?夜久さん研磨さん。ちっちゃくて見えませんでした」
「……誰がちっちゃいだって?」
「え?夜久さんと研磨さんですけど…?」
「リエーフ、食事中はよそ見すんな。 それと研磨、次からはもう少し早く来いよ」

 火花を散らし始めた夜久を遮るように黒尾が口を挟む。夜久は上げた足を下ろしチッと舌打ちをするにとどまり、リエーフはまた 無意識に人を怒らせてしまった事に気付いたのか大人しくなった。とばっちりを受ける前にと研磨もそそくさと席に着く事にする。
 どうやら食堂に来たのは研磨が最後だったらしく、テーブルを見渡せば全員が集まっていた。テーブルの上には朝だというのに山盛りに盛りつけられた皿が鎮座していて、待てをされた状態の犬岡がよだれを滴らせながら料理を凝視していた。しかしその我慢も限界のように見える。それを汲んだのかはたまた自分も早く食事にありつきたかったのか、黒尾が手短に朝食の音頭を取った。
 賑やかな朝食が始まる。そこには和気藹々と朝食を摂る風景が広がっていた。食欲をそそられる匂いに研磨も空腹を覚え、目の前に盛られた皿に手をつける。
 提供される食事は絶品だった。朝に弱い人にも配慮した胃に優しい料理も、朝からガッツリ食べたい人向けの料理もどちらも用意してある。朝は低血圧で、だけど栄養はしっかり摂りたい研磨にはありがたい品ぞろえの多さだった。

「……ご馳走さま」

 そんな中、朝食が始まってまだ数分しかたっていないというのにもう食事を終えた人物が居た。
 名前だ。
宿を提供してくれた名前の両親は娘も同級生と一緒に食事させようと昨日の晩も共にしていた。
 少し大きめの赤色のジャージで隠されているが、名前はどう見ても平均より細い体付きをしている。その上この食の細さならますますそれに拍車がかかるだろう。少しは犬岡の食欲を見習って欲しいくらいだった。
 案の定、名前が座っていた席に目を遣ればトーストが一枚減っていただけだった。。すたすたと朝食の場から立ち去ろうとする名前を呼び止めるため、研磨は背後を通り過ぎようとした名前の腕を掴んだ。
 長袖の服越しに名前の腕に触れる。その腕は簡単に研磨の手が回ってしまうほど細く、頼りないものだった。

「――何?」

 突然腕を掴まれたことに驚いたのか、名前はわずかに目を見張り研磨を見つめた。それからすっと感情を失くしたように目を細め、すこし不機嫌そうな低い声で短く研磨に用件を促す。
 その声に研磨は少々戸惑っていた。名前がそんな声を出した所はあまり見たことが無いし、基本的に物腰の柔らかな人物だと記憶していたからだ。
 朝が苦手で、テンションが下がっているだけだろうか。研磨の勝手なイメージだが名前は低血圧のイメージがある。そう思い直して研磨は意識して明るめに声をかけることにした。

「もうご飯食べ終わったの?」
「そうだけど」
「いくらなんでも少ない……。もう少し食べないと倒れるよ?」
「……朝はあんまり食べる気しないんだよね。無理に食べる方が私には辛いよ」

 ふいっと気のない態度で名前が研磨の質問に答える。淡々とした口調で別段嘘をついているようには見えない。だが、研磨は確かにこの時何か違和感を感じ取っていた。
 名前の態度が妙に素っ気ない。普段は優しく微笑み、さり気ない気遣いをするから(実際、昨日臨時マネージャーとして押し付けられた仕事を卒なくこなしていた)尚更そう感じられた。
 何だか話しかけづらい。というより、わざと名前がそういう雰囲気を醸し出しているように思えた。いつものへらりとした笑顔が引っ込んだ無表情がそうさせているのかもしれない。何の感情も浮かべない顔は、名前の整った顔立ちを際立たせていた。
 全体的に色素の薄い色合いと切れ長の目は、まるで氷のように冷たい印象を研磨に抱かせる。

「用件はそれだけ? だったらこの手を離してくれるかな?」

 冬の寒空のような色で名前は研磨が掴んでいる手に目を向ける。その目に気圧されて研磨は掴んでいた手を離した。研磨の手から逃れた名前は、何の未練もなくさっさと研磨の傍から立ち去り食堂を出ていった。そのことに、一抹の寂しさを覚える。

「研磨、どうかしたのか?」

 名前が去っていった方向を呆けた顔で見ていた研磨に海が声をかける。食事をしていた手を止め、微動だにしない研磨に不思議そうに首を傾けていた。

「何だかぼーっとしていたように見えたけど……もしかして疲れてるのか?」
「あ、いや、そういうわけじゃない」
「なら眠いのか。 昨日夜更かしをしたとか」
「夜更かしはしてないよ……今日は夢見が悪かったから」
「どんな夢を見たのか聞いてもいいか?」

 海が前のめりになる。相変わらず気配りができる。心配気味の海を安心させるように両手を前に出し、研磨は昨晩の夢のクロの質問の内容を掻い摘んで話した。
 人に説明するために自分なりに内容をまとめてみると、改めて変な質問だと思えた。クロと極端な二択の選択肢。それに律儀に答えてしまった自分。話しながら、あまり人に話すような内容ではなかったのではないかと後悔していた。
 研磨が話し終えると、海は腕を組んで少し考え込む素振りを見せた。

「……つまり研磨は、未来を告げられる夢を見た、ということか?」
「そ、そんな大袈裟なこと?」
「身近な人物に未来を示唆される内容の夢を見たんだろ? 実はそれが予知夢で、夢の内容が現実になるというのが定番じゃないか? そういった事を告げるのは誘惑の象徴として罠であるパターンもあるが……」
「罠!?」

 思わず後ろに身を引き、ガタリと椅子を鳴らす。それからごくりと生唾を飲み込んだ。研磨が選んだ選択肢はあまりにも研磨に都合が良すぎるものだったため、罠と言われればつい納得してしまいそうになる。

「あ、いや、日本では昔から謙虚が美徳とされているせいか、明らかに差のある選択肢を迫られれば一見損に思える方を選ぶことが正解とされる話が多いだろ?おむすびが転がっていく昔話とか」
「ああ、あのネズミに葛篭を選ばされるやつ……」

 大きい葛篭と小さい葛篭。クロが提示したものは確かにそれくらいの差があった選択肢だったように思えた。あの時は安易に選んでしまっていたが、研磨が選んでしまった方が間違いだった可能性は高い。
 夢だったとはいえ、妙に印象に残る内容だったせいか胸に不安が満ちる。自分が何かとんでもない間違いを起こしてしまったような気がして来て、研磨は顔を青褪めさせた。

「おれ、もしかして選択肢を間違えた……?」
「もし研磨が見た夢が正夢になってしまうのならすごいよな!」
「……他人事だと思って楽しんでない?」
「まさか!……だけどその選択の内容が本当になると困るということは、研磨には好きな人が既にいる、とか?」
「え?」
「研磨はよかれと思って皆から好かれる方を選んだろ? それが今になって間違っていたと思うのは、それでは帳消しにならないくらい大事な人がいるからじゃないのか?」

 問われ、頭の中が一瞬空っぽになったように呆けてしまう。好きな人。そう言われて研磨の頭に思い浮かんだのはとある人物だった。
 揺れる柔らかな髪と透けるような肌、冷たい瞳。どこかとらえどころのない雰囲気。先ほど掴んだ腕の感触を思い出すように右手が無意識に開閉を繰り返していて、そのイメージを振り払うように研磨は頭をぶんぶんと振った。
 なんで、どうして、最初に思い浮かぶのが名前なんだ。

「え、当たりか!?」
「ち、違うよ!」
「はは、研磨。慌ててるところが怪しいぞ?」

 動揺する研磨に海がしたり顔で反論する。落ち着いた雰囲気のある海といえどやはり男子高校生、俗っぽい話しにノリノリで食いついてきた。

「照れてるのか? 別に恥ずかしい事じゃないと思うが?」
「そういうわけじゃないけど……」

 しどろもどろになる研磨に海は楽しそうに笑いを漏らす。
 本当にそういう訳じゃない。危なっかしくてつい目が離せないし世話を焼きたくなる人…ではあるが 。
 あんなお人好しで、頼まれたら断れない人のことなんか、いつも柔らかな笑みをたたえる研磨と正反対な人なんかに恋心を抱くわけがない。押し付けられた仕事の多さに心配で『大丈夫?』と声を掛けただけでいちいち感動し、あの笑みを研磨に向けてくれた名前が可愛いと思ったことなんてないはずだ。
 ……ない、はずなのだ。

「そうか。それならあまり野暮なことは言わないようにするよ」
「……本当に違うよ。そういう相手はいない」
「研磨がそう言うなら、きっとそうなんだろうな。ただ、ちょっと気になる人がいるだけ、なんだろ?」
「まあ……ね」

 語尾を弱めながら同意を返し、研磨は視線を下に逸らした。
 そう。気になるだけなのだ。体力が無いくせに押し付けられた仕事以上の事を自らやろうとした名前をわざわざ猫又監督に苦言したのも、慣れないマネージャー業務を研磨自身がこなしたのも、気になるからそうしているだけなのだ。研磨の目の届かない所で怪我をしていないか、オーバーワークで倒れてないか気になって仕方ないから、そうしているに過ぎない。
 さっきだってそうだ。名前の食事に口を出したのも、臨時マネージャーの作業をするのに必要なエネルギーをちゃんと摂取出来ているのかどうか、それが気になってつい呼び止めてしまったのだ。ふらふらした体で手伝われても効率が悪いし、飛んできたボールにぶつかって怪我にもつながりやすい。そういった理由が研磨にはちゃんとあるのだ。
 そこまで考え、研磨は満足気に頷いた。自分の行動をちゃんと理由づけして説明することが出来る。名前だからといって何も特別な感情は抱いていない。
 正面に居る海に視線を戻すと、海は中断していた食事に戻っていた。好物の海ぶどうに顔を綻ばせながら口元に運んでいる。残り少ない醤油にわさびを足し、味に変化をつけ食事を楽しんでいた。
 名前も、せっかくの食事なんだからこんな風に楽しみながら食べればいいのに。食事を楽しむことが出来れば自然と食事の手が進む。ゆっくりと時間をかけて消化させれば、胃だってそう文句は言わないだろう。
 海の食事風景を見ながら研磨は内心そう思った。早々に席を外した名前に想いを馳せ、研磨も目の前の食事に集中することにする。
 あらゆることに関連付けて名前のことを考えてしまっている自分の思考には気づかないまま、研磨は少し冷めてしまった味噌汁をすすった。

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