好きな子と、偶然とはいえふたりきりになれたなら、誰だって期待をしてしまうに違いない。
 ドキドキと高鳴る胸の鼓動と格闘しながら、及川は今にも緩んでしまいそうな頬を必死に引き締めていた。
 今日は、何てツイている日なのだろう。いつもなら、ふたりきりになるのをさりげなく阻止してくる彼女の過保護な双子の弟兼チームメイトである花巻も、今はいない。正真正銘のチャンスである。
 隣を並んで歩く片思いの相手を、不躾にならない程度に眺めながら、及川は決意をした。
 今日こそは、進展してみせよう、と。



 数分後。目的地であった某大手ファーストフード店のカウンター前では、ぎこちない会話がくり広げられていた。
「及川くんは、なに頼むの?」
「え!?あ、俺?どうしよ……全然決めてなかった。柚子ちゃんはなに頼むの?おんなじのにしていい?」
「へ?う、うん。いいよ」
「あ、ありがと」
 目が合った途端に吃る、初々しい空気。照れくさそうな表情。ふだん行動を共にするバレー部の面々とでは決して見られない光景である。
 近くで注文した品を待っている同年代であろう少女たちの目がこちらにいくつか向けられているのを、及川は肌で感じていた。見られるのには慣れているはずなのに、いつもと違って気になってしまうのは、横に彼女がいるからかもしれない。
 制服姿の男女が寄り道をしている姿を見て、連想できる答えは多くない。恋人同士でデート、しているように見えるだろうか。そうだといい。隣の子、彼女かなぁ。いいなぁ、あんな彼氏ほしいー。そんな囁き声が耳に届き、心音が甘く弾む。仲を誤解されてうれしいと心底思ったのは生まれてはじめてだ。
 そっかぁ、俺、柚子ちゃんの“彼氏”に見られてるんだ。やばい、どうしよう、うれしい。
 自然とニヤけてくる口元を誤魔化すように片手で覆い、悩む素振りをしてみせながら、彼女の注文を聞く。ポテトのSサイズとナゲットの五ピースをひとつずつ。本格的な夕飯は家で食べるのだとしても、それだけで小腹が満たされるのなら、随分と可愛らしい胃袋だ。女性店員との何ということはないやりとりですら、特別なもののように感じてしまうのだから、つくづく浮かれていることを実感する。
 おなじものを注文し、柚子がスクールバッグから財布を取り出す前に、自分のものから千円札を取り出し、俺が払うよと笑顔で制す。育ち盛りの男子高校生である及川に金銭的余裕はなかったが、好きな女の子の前で格好をつけたがるのは古今東西、男の性だ。
 申し訳なさそうに眉を下げた彼女が紡いだ感謝の五文字に、胸の奥がきゅんと鳴る。ひとえに下心からくる行動だったが、はにかみ笑いと礼を返してもらえるのならば、ポテトやナゲットのひとつやふたつ、安いものだ。むしろお釣りが来たと言っても過言ではない。
 奢ってもらおうと媚びた言動を取る女子もいる世の中、何て謙虚な子なのだろう。ちょっとしたことですら美点に思えてくるのだから、惚れた欲目とはすさまじいものである。もっとも、それを差し引いても彼女は魅力的な女の子なのだけれど。
 及川とは別の意味で飄々としている花巻と遺伝子を共有しているとはとても思えない。悪い意味ではなく、性格が真逆なのだ。さしずめ小動物系といったところだろうか。これも惚れた弱みなのか、控えめな笑みや仕草に、庇護欲を掻き立てられることは少なくない。
 マッキーがシスコンになるのもわかるなぁ。いつだったか花巻が、柚子は危なっかしいから目を離せないと、やけに真剣な面持ちで語っていたことを思い出し、内心で頷く。一言で言えば、放っておけない。ドジではないし頼りなくもないのだが、彼女にはどこか、そんな雰囲気があるのだ。
「俺が持っていくから、柚子ちゃんは先に席取って待ってて」
「わかった。ありがとう、及川くん」
 淡く微笑み、膝丈のスカートを翻すと、運良く空いていた近くの二人席へと歩いていく柚子のちいさな姿を、及川は細めた目で愛おしげに見送った。無意識に、ほうと恍惚の息を吐く。幸せすぎてどうにかなってしまいそうだ。
 カウンターから離れ、注文した品を待つ間も、考えるのは柚子のこと。
 何だか、すごくデートっぽい会話をした気がする。気分が昂揚しているせいか、依然として頬の熱が冷めない。動悸が治まる気配もない。この場に岩泉がいたなら、デレデレするな気持ち悪いと背中を一発叩かれていたかもしれない。それぐらい、締まりのない顔をしている自覚があった。
 けれども、仕方がないのだ。花巻を通じてバレー部のレギュラーと親交があるとはいえ、それ以上でも以下でもない。現時点での及川と柚子の関係は、良くも悪くも“オトモダチ”でしかないのである。
 好きなものに関しては積極的なところから、手が早いと噂されることもある及川が、数年越しの恋心を持て余しているなど、うわべしか知らない周囲の人間はきっとびっくりするだろう。
 近づこうとしたきっかけは、マッキーに顔のパーツはそっくりなのに性格が逆なんて面白い子だ、という純粋な興味だった。男慣れしていないのが丸分かりで、いちいちうぶな反応を返してくるのが楽しくて、退屈しのぎの玩具を見つけた感覚に近かったかもしれない。
 そうしてちょっかいをかけているうちに、困惑していることが多い彼女の本物の笑顔を見てみたくなった。岩泉や松川、片割れである花巻とはふつうに話し、ふんわりとした笑みを浮かべているのに、なぜだか及川の前でだけ、彼女は笑ってくれない。そのことが、ほんのすこしだけ悔しくて、妙に腹立たしくもあって、余計躍起になっていた。及川のようにぐいぐい来るタイプの男が苦手なのだと渋い顔をした花巻に聞かされてからは、なるべく緊張させないよう、怯えさせないよう、努めてきたつもりだ。
 おどおどする姿が可愛くて、出来心からつい意地悪をしてしまうときもあったが、照れる彼女に追い打ちをかけたり、悪戯に顔を近付けたり、感謝を隠れ蓑にして手をぎゅっと握ってみたり、及川の性格からしてみれば実に可愛らしいものであった。
 彼女の前では紳士でいたい、好印象を持ってもらいたい、そんなくすぐったいことを考えはじめていたとき。偶然、弟と戯れ合い、無邪気に笑う姿を間近で見て、及川は胸を射抜かれたのだ。いつもの遠慮がちなものではない、気を許した者の前でだけ見せるのであろうその笑みを、ただただ純粋にかわいい、俺にも向けてほしいと思った。
 唯一の誤算は、自分が意外に奥手であったということだろうか。
 花巻をはじめ、仲の良い面々にはひとしきり爆笑されたが、恋心を自覚して以来、触れることはおろか、話をするだけで精一杯になってしまったのである。女子に要らぬ噂を立てさせないため、特別を匂わせるようなアピールが堂々とできずにいることも、進展を阻む一因となっていた。
 すこしでも彼女といっしょにいたいという不純な動機とは別に、細やかな気配りのできる真面目な性格を見込んで、これまでに何度もマネージャーにならないかと誘ったが、花巻のガードが異様に固く、結局許可が下りないまま現在に至っている。大事な姉のことになると途端に目の色が変わるチームメイトに、及川は連戦連敗中だった。
 はあ〜。せめて、クラスがおなじだったらなぁ。
 進級するたびに願えども、ついぞ叶わず。クラス編成をした誰かを呪いたくなったのは一度や二度ではない。
 互いの教室間はわずか十数メートルだが、クラスがおなじであるのか否かで、過ごす時間の密度と濃度は随分と変わってくるはずだ。近いように見えて、遠い距離に、何度ため息をついたか知れない。
 彼女は今年、松川といっしょのクラスにいる。羨ましいったらない。自分の知らない彼女の姿を知っている、それだけで嫉妬してしまいそうだ。好きな子のことは何でも知っておきたい。ふとした瞬間に湧きあがってくる独占欲。彼女に恋をして、及川ははじめてその感情を知った。
 甘くて、酸っぱくて、ときどき苦い、その味。
 もし彼女とおなじクラスだったなら、授業中、黒板を真剣に見つめる横顔を見ることもできるのだろう。隣の席になれたら、筆記用具の貸し借りや、落とした消しゴムを拾った際に指先が軽く触れ合う、なんておいしいイベントのひとつも発生していたかもしれない。休み時間、松川をダシにして、しばしば彼のクラスを訪ねたりもしているが、友達と楽しそうに話をしている彼女を盗み見するのがやっとで、会話ができたことはほとんどない。
 先にテーブル席で待っている彼女をちらりと一瞥すると。柔らかなミルクティー色の髪を耳にかけた彼女は、手元のスマートフォンと睨めっこしているのがわかった。最近変えたばかりでまだ操作に慣れないらしく、誤字の多いメールやLINEを飛ばしてくるのだと、ついこの前、花巻がニヤニヤしながら自慢してきたのを受けて、マッキーズルいとぼやいたのは記憶に新しい。
 及川が姉に恋をしていると気付いて以来、こうしてしょっちゅうからかってくるのである。おそらく、半分は牽制の意図も含まれているのであろうが。彼女に異性への免疫がないのは間違いなく彼のせいだ。
 今日だって、用事さえなければ当たり前のように柚子と帰っていたと断言できる。モテるのだから、早く彼女でも何でも作って、姉離れしてほしい。カウンター上部のメニューを眺めながら取り留めのないことをつらつらと考えていると、店員に呼ばれ、及川はふたり分のポテトとナゲットが乗ったトレイを受け取った。
 女子高生たちの秋波を掻い潜り、彼女の元へと足早に向かう。
「柚子ちゃんごめんね〜。お待たせ!」
「おかえり」
「……っ、」
 ようやくゆっくりできると、トレイをテーブルに置き、椅子を引いて座れば、楚々とした微笑みとねぎらいの言葉に迎えられ。ドスッと、放たれた矢が心臓に一直線に突き刺さる。
 ただおかえりと言われただけでテンションが急上昇する自分はどこまでも安上がりで単純な男だ。頼んだものが同一であるのがまた、くすぐったい気持ちにさせられる。惚けた脳みそで幸せに浸っていると、彼女は小さな手を合わせ、いただきますと口にしてから手元のポテトに手を伸ばした。
「みんなもいっしょに来れたらよかったのにね」
「えっ、うん。……そうだね」
 俺としては、ひとりたりとも来てほしくないけど!
 胸中で叫び、表面上はへらりとした笑みを繕う。それでは何のために圧力をかけて来させないようにしたのかわからない。ふたりきりだからこそ、及川はうれしいのだ。笑顔の下で、そんなことを考える。
 勿論彼女は、及川とふたりきりでいるのが嫌だという意味で言ったのではない。バレー部レギュラーの仲の良さは彼女も知るところであるのだし、純粋にみんなで食べたほうがおいしいし和気藹々として楽しいと思っているのだろう。だからこそ、すこし凹んでしまう。デートだと意識しているのは自分だけなのだと改めて思い知らされているかのようで。
 だが、この程度で落ち込んではいられない。そもそも今日は朝から本当に運が良すぎるのだ。チャンスの大盤振る舞い、幸運のスロットはスリーセブン。天使も妖精も女神様も、ありとあらゆるものが自分に味方している、そんな夢のような状態が現在進行中で続いているのである。ちなみに本日は星座占いも一位だった。
 ポテトをちまちまとかじる彼女の姿を目に焼き付けつつ、話に相鎚を打ちながら、朝からのことを振り返る。
「おはよう、及川くん」
「お、おはよう柚子ちゃんっ!」
 最初にやってきた幸運は朝。授業開始十五分前ごろ。朝練を終えて制服に着替え、教室に向かう途中、登校中の彼女にばったり出くわし。何と、彼女から挨拶をしてもらえたのだ。
 一日のはじまりは挨拶からと言うが、まさにそれである。向けられた春のひだまりのような笑みに、一瞬にして及川の頭の中にも色とりどりの花が咲く。
『今日は気になるあの子と急接近!いいことがあるカモ!?』
 脳内に反響する占いコーナー担当の女性アナウンサーの弾んだ声。お姉さん、ありがとう。及川は喜びを噛みしめながら、心の中で彼女に深く感謝をした。
 二度目の幸運が訪れたのは、三時間目がはじまる前の休み時間。
 いつものように、話しかけてくる女の子たちを適当に言い包めてあしらい、まっすぐに一組へと向かう。向けられる好意に悪い気はしないけれど、求めてやまないのはこれじゃない。それこそ余裕が根こそぎ吹き飛ぶくらい、彼女のことしか見えていないのだ。恋は盲目。納得の格言である。
 ニヤニヤする松川には毎度「今日も見てるだけなの?」と笑われるが、一目見るだけでいっぱいいっぱいなこちらの胸の内を察してほしい。らしくないのは自身が一番よくわかっている。
「つーか、忘れ物口実にしてあの子に教科書借りればいいジャン」
「んー、その手も考えたんだけどサ、一度でもやっちゃうと際限なくなっちゃうだろうし、毎日借りに来たりしたら絶対怪しまれるし、ていうか最悪俺が柚子ちゃんのこと好きってバレちゃうし、かといって他に話しかける口実があるのかって聞かれたらマッキー関連しかないわけで、でもそんなことしたら確実にマッキーにバレる!ただでさえマッキーから牽制されてるからコソコソしなきゃなんないのにこれ以上近付けなくなったら俺、」
「ああうんわかったもういい……マジで純情こじらせてんのな、及川」
「……言わないでまっつん、自分でもわりと恥ずかしいから」
「どんまい」
 気恥ずかしさから、両手で顔を覆う。こんなふうに小声でヒソヒソやりとりするのも今では日常茶飯事である。
 社交的で話し上手、女子の扱いにも長け、一生相手に苦労しなさそうなルックスをしている『及川徹』が、好きな女の子には満足に話しかけることすらできない。日頃の饒舌さ、一部のよく知る性悪ぶりはすっかり鳴りを潜め、やることなすこと後手に回っている。天が二物を与えたようなこの男もやはり完璧ではないのだな、と松川がしみじみ思っているのはここだけの話だ。
 三度(みたび)幸運が舞い降りたのは昼休み。
 自動販売機の前で、スポーツ飲料とお茶のどちらにしようか思案していたところ、柚子とばったり鉢合わせしたのだ。一組の教室以外で会うのは珍しい。全身を支配する歓喜で、じわじわと体温が上がっていくのがわかる。
 彼女は知らない。この瞬間、心臓が飛び出しそうなくらいドキドキしていることなんて。ふだんは笑顔を繕う必要のない及川が、彼女を前にしてどれだけ緊張しているのか。
 彼女は、知らない。ぎこちない笑顔の仮面を剥がさないでほしい。その下にある赤い顔を見られたくない。格好悪いし恥ずかしい。けれどそうすることで想いが届くのならば、見透かされても構わない。及川の胸の内でそんな激しい葛藤が渦巻いていることも。
「珍しいね、ここで会うなんて」
「そ、そうだね。柚子ちゃん何買いに来たの?」
「わたし?えっとね、甘いものが飲みたいなぁって。特にどれとかは決まってないんだけど。及川くんは?」
「あ、うん、俺もまだ決まってないんだぁ。せっかくだし、柚子ちゃんとおなじにしようかな〜なーんて」
「えっ……あ、及川くん、」
 努めて笑顔を保ちながらも内心で盛大に狼狽えていると、わずかに驚いたあと何かに気付いたらしい彼女にじっと上目遣いで見つめられる。そのままスッと近づかれ、縮まった互いの距離に、どきん、と一際大きく鼓動が跳ね上がった。
「っ、柚子、ちゃん?」
「ちょっとごめんね、動かないで?」
「へ?」
 ああ、柚子ちゃん可愛いなぁ。睫毛も長いし色白で、瞳なんか吸い込まれそう……っていうか近くない!?近い近い顔近いよね?え?俺、ちょっと目のやり場に困るんですけど!?
 思わず表情を強ばらせ、視線をうろうろと彷徨わせながら固まっていると、ふいに伸びてきた両手が自身のネクタイに触れ──……、きゅ、と軽く締め直された。
「はい、ネクタイ歪んでたよ」
「………………」
 後からこのことを振り返り、よく叫びださなかったものだなと強く思う。
 ふにゃりと相好を崩した柚子は今、自分がいかに大胆なことをしでかしたのかを認識していない。スキンシップを含め、自分から他人に積極的に触れるような子でないと知っているからこそ、思考が一時停止する。予想外の不意打ちに、ぶわりとした熱が顔中に集まった。
「っ、!」
「及川くん?」
「……柚子ちゃん、さ。誰かにもこういうのやってるの?」
「こういうの?」
 小首を傾げる彼女が、小悪魔に見える。無意識下の行動ほど怖いものはない。
「その、男に、ネクタイ結んであげたり、とか」
 かすかに震える声が恨めしい。もしイエスと答えが返ってきたなら、自分はどうするのだろう。ノーならば安堵するのか。真っ白になってしまった頭はうまく働かない。
 人気のない廊下に、沈黙の帳が下りる。耳まで赤く染めた及川が、再度口を開こうとしたとき。ようやく事態を把握した柚子の顔が、一瞬の内に紅潮していく。
「あっ!?ご、ごめんなさい!ヒロくんにやるのとおなじ感覚で、つい……!」
 動揺のあまり涙目になった柚子に、及川は何とも言えない複雑な気分になった。
 ヒロくん。ここで花巻の名前が出てくるということは、彼は日常的に“コレ”をされているのだろう。ずるいし、羨ましい。しかし、弟と同等の扱いをされたとはいえ、身近な人間に対するような気軽さを見せてもらえたことは喜ばしい事実であり、胸がいっぱいになる。
「あ、謝らないで!俺、別に困ってないし!むしろうれしかったし!」
「えっ」
「……あっ」
 口が滑り、あわてて口元を押さえる。ぱちりとかち合う視線。見つめあって数秒、どちらからともなく目を逸らし、俯く。
 期待、してもいいのだろうか。制服のスカートを握りしめ、恥じらう彼女を一瞥し、込み上げる感情に身を焦がす。自分だからこそ、勝手に指が動いたのだと自惚れてもよいのだろうか。
 冗談で「友達になりたくない」、「弱みを握られそう」と言われる観察眼の鋭さも、まったく役に立ってくれない。彼女にどう思われているのかがわからない。攻める手ならばいくらでもあるのに、柚子にはどれが有効なのか見当もつかない。以前の自分なら、からかったり意地悪をして誤魔化すことは容易だっただろうに。身動きが取れないのがもどかしい限りだ。
 惜しくもここで予鈴が鳴り、弾かれたように真っ赤な顔を上げた彼女は、教室に戻ると一言添えるなり飲み物も買わずに走り去っていってしまう。
 その場に立ち尽くす及川に残されたのは。まだうっすらと残る頬の熱と、うるさく騒ぐ心臓の音。
 そして、わずかばかりの、期待。
 そんな中、放課後に最大の幸運が飛び込んできたのである。本日、部活は休み。番犬こと花巻も歯医者への通院のため不在。これ幸いと彼女にメールを送り、遊びに誘えば了承の返事をもらえたのである。有頂天になるのも無理はなかった。
 回想を終え、目の前で家での弟の様子を語る彼女との会話に集中する。
 彼女と知り合ってから随分経つが、こんなにも長くふたりっきりでいられたのは今日がはじめてだ。緊張以上に幸福感が勝っていて、正直なところポテトもナゲットの味もまったくわからない。気がついたら手元が空っぽになっていて、ふっと苦笑を漏らす。
「及川くん、食べるの早いね」
「エ?そう?」
 見れば、彼女の分はどちらもまだ三分の一ほど残っていた。女の子って、ゆっくりなんだな。お弁当とかもちっちゃいし。こんな些細な点からも男女の差というものを感じてくすぐったくなる。
「俺は結構遅いほうだよ。岩ちゃんとかまっつんとか、もっと早いし」
「そうなの?じゃあ、ヒロくんが遅いのかなぁ」
「そんなことないよ?マッキーも、」
 言いかけて、はたと気付く。
 及川の知る花巻と、彼女の知る花巻に違いがあることは前々からよくわかっていたが、こうまであからさまだと色んな意味で驚きだ。
 ──マッキー、徹底しすぎデショ……。
 及川たちと寄り道して買い食いをしたりファミリーレストランで食事をするとき、花巻は特別遅いようには感じない。だが彼女は、自分とおなじくらいの速度で食べているのが「ふつう」だと言う。
 そこから導き出される答えは、ひとつ。
 ゆっくり食べる姉に合わせているのだ、花巻が。
 改めて、天井知らずの姉弟愛、もとい重度のシスターコンプレックス精神を思い知らされ、及川はちいさく息を吐いた。さすがはラスボス。手強い相手である。脳裏に余裕綽々の笑みを浮かべた彼の姿が再生され、何だかものすごく負けた気分になった。
「……いいなぁ」
「及川くん?」
 柚子を見つめ、呟く。
 自分は彼女の恋人になりたいのであって、弟になりたいわけではないが、羨ましいのには変わりない。家族で、仲がいいと評判の双子なのだから距離が近くて当たり前なのだとも理解しているが、気後れするあまり進展が亀の歩みと化している自身との違いにもやもやしてしまう。
 ふたりの間にぽつりと落ちた言葉を、彼女がすかさず拾い上げる。そして、何をどう解釈したのか、瞬きをひとつしたのち、おずおずと指で摘んだポテトを差し出してきた。
「えっと、いる?」
「?」
「こっちじっと見てるし、いいなぁって言うから、もしかしてほしいのかな、って」
 これは、いわゆる、あーんというやつ、なのだろうか。本日二度目の不意打ちに、笑顔のまま固まる。
 とんでもない勘違いである、しかし。せっかくのチャンスをふいにするのは勿体ないわけで。脳内でぐらぐらと揺れる天秤は本能に従い、あっけなく傾く。
 彼女の手首をやんわりと掴み、引き寄せると。及川はぱくりとそれに齧りついた。
「あーん、」
「!」
 ふにゃふにゃになったポテトは歯応えがなく、塩気も薄れていたものの。絶好のシチュエーションと相まって、とてもおいしく感じた。
 店内の賑わう人の声はもう耳に入らない。この両目に映るのは、彼女だけ。
 かああっ、と。顔前の彼女の頬が薔薇色に染まっていく様を眺め、及川はにんまりと口角を上げる。
 ──やっぱり、俺、期待してもいいのカモしんない。
 柚子はうぶだから。弟を除けば一番仲が良い相手で他より気軽に接することができるから。次々に浮かんでくる理由を差し引いても、彼女に“男”として強く意識されているのは明らかで。調子に乗って、指先を口に含み、油と塩味のするそれを舌でぺろりと舐めれば。小さく悲鳴を上げ、肩を跳ねさせた。
 ああもう、可愛い。食べちゃいたい。ひさしぶりに顔を出した狼が、もっと攻めろと耳元で囁く。
「お、おおおおいかわくんっ!?」
「ん、おいしい!」
 にっこり。何食わぬ顔をして告げた己の顔は、きっとイキイキしていることだろう。
 咄嗟に引こうとした手に力を篭め。追撃をするべく、ことんと首を傾げ、甘えた仕草でねだる。
「ね、柚子ちゃん。もう一本、ちょうだい?」
 熱を孕んだ声はバニラシェイクのように甘ったるく響いて、身体中に心地よい痺れをもたらしていく。
 ゴメンネ、マッキー。俺、本気だから。これからそれを証明してみせるよ。
 何かが吹っ切れた今ならもう、どんなことだって出来るような気がした。
 熟れた林檎を思わせる恥じらい顔でこくりと頷いてくれた可愛い彼女との関係が変わるのは、そう遠くない未来のことなのかもしれない。





Fin.
剽F達以上恋人未満な及川の話
Happy Birthday,Dear Hina!!