酔っぱらいというものは、古今東西、厄介で面倒くさいものである。
 笑い上戸、泣き上戸、絡み上戸と、酔い方もさまざまで、深酒をすればするほど、その質も悪くなる。突拍子もないことを言ったり、無理難題を突き付けてきたり、やたらネガティブな思考に陥ったり、ときには介抱する側が対処法に困ることもしばしばだ。しかもこういう場合、酔った側はたいてい記憶が飛んでしまって、当時のことを覚えていないというのだから、何とも割りに合わない話である。
 さて、少々前置きが長くなったが、ここで現在の状況について説明させていただくとしよう。
 夜の十一時すぎ。自宅マンションのリビング、ソファの上にて。
 柚子は、飲み会から泥酔して帰ってきた恋人に、正面からがっちりとホールドされている。
 否、のしかかられている、といった方が正しいだろうか。
 玄関先で出迎えた柚子を抱きつぶす勢いで抱擁したのち、痛いくらいの力で引っ張られ、連れてこられたリビング。そうして無言でソファに押し倒されたのち、腰に抱きつかれたのが、かれこれ二十分ほど前。以来、この場から身動きひとつ取れずにいるのである。
 正直なところ、この体勢はかなり窮屈だ。首筋に擦り寄られ、甘えた態度を取られてうれしくないわけではないのだが、酒の匂いのぷんぷんする吐息が首筋を掠めるたび、眉を顰めたくなる。こちらまで酔ってしまいそうだ。一体どれだけ飲めば、ここまで酒臭くなるのだろうか。
「徹、ちょっと力ゆるめて?身動き取れないんだけど」
「んー」
 相変わらず、生返事しか返ってこない。そして離れてもくれない。このやりとりも、これで何十回目になるだろう。
 柚子ー。間延びした声に名前を呼ばれ、ハイハイと困ったふうに眉を下げる。すこしでも意識を余所へやるとこれだ。真っ赤な顔で不満げに睨まれる。しかし、柔らかな茶髪を指で梳いてやると機嫌は一転。すぐさまふにゃりと相好を崩し、もっとしてとばかりにぐりぐりと額を擦り付けてくるのである。
「柚子、すきぃ」
「ハイハイ、ありがと」
「むぅ〜、ちゃんと聞いれないれしょ〜」
「聞いてる、聞いてる」
 まるで猫みたいだ。ふだんはこんな甘え方してこないくせに。
 好き、なんて。素面のときには滅多に言ってくれないくせに。
 何となく悔しくなって、眉間にしわを寄せながら口を噤む。酔っぱらいの言葉だからと適当に相鎚を打ってあしらってはいるものの、甘ったるい声で囁かれて、とろりとした潤んだ目に見上げられて、ドキドキしないわけがない。何といっても彼は、及川徹は、見た目だけならば少女マンガの王子様のように麗しいのだから。
 互いにおなじ大学に入ってからも、人気は一切衰えることがなかった。彼女がいると公言しているにも関わらずだ。おかげで通う学科は違えども、柚子の耳には毎日のように噂が入ってくる。
 どこそこの科の可愛い女の子が猛烈なアタックをしているだの、はたまた一学年上の美人で有名な先輩があっさりフラれただの何だのと。二十歳になり、酒が解禁されてからは、飲み会や合コンの誘いが引っきりなしだ。
 とはいえ、今日飲みに行ったのは岩泉たち──自身もよく知る高校時代の友人たちなので、心配は無用の長物でしかないのだが。
 異性相手ならまだしも、同性の友人に妬くほど節操なしではないつもりだ。
「おまえはぁ、俺がぁどんらけおまえのころ好きなのかぁ、ぜんっぜんわかっれないらろ」
「うんうん、ごめん」
 何がごめんなのか自分でもまったくわからないが、不意打ちもいいところな殺し文句を連発されて、だんだん顔が熱くなっていくのがわかる。
 こんなの、反則だ。いつもは、こちらにばかり言わせて、自分は言わないで、無駄に不安を煽るようなことばかりするくせに。
 脳裏によぎる彼の表情はどれも愉しげで、常に余裕に満ちている。柚子と及川の交際期間は高校時代を含めてそろそろ五年になるが、及川の照れた顔やあわてふためく顔を見たことなど、それこそ片手で数えられるほどしかない。基本的にこの男は格好つけなのだ。
 あと、性格がすこぶる悪い。どのくらい悪いのかはこの数年で身に染みてわかっているが、そのせいで泣かされたことは何度もある。付き合いはじめてもうすぐ一年になろうかという頃、高校三年のときに一度本気で別れることも考えたくらいだ。
 天井に視線を移し、過去の記憶の糸を辿っていく。
 ああ、そういえばこのときだっただろうか。彼が激しく動揺し、狼狽える様をはじめて見たのは。
 眼前に浮かび上がる光景。陽の落ちた夜の公園で、今よりもほんのすこしだけ幼い容貌をした彼が、ひんやりとした夜風に髪を靡かせながら、笑顔を作ろうとして失敗したような表情で、相対する柚子を縋るように見つめてくる。
 なに、言ってんの。薄いくちびるから吐き出された声はかすかに震えていて。見たのはこれ一度きりだが、今でも印象深く残っている。
 それはともかくとして、まあ、珍しい酔い方をしたものだと、視線を再度及川へ戻した柚子は内心でひそかに驚いていた。
 ふだんの彼は、自分の限界を弁えている。羽目を外すことがあるとすれば、先ほど名を挙げた友人たちの前ぐらいのものだろう。
 ひたすらに頂点を目指し邁進(まいしん)していたあの頃。長年追い続けたライバルを自分たちの手で倒すことはついぞ叶わなかったけれど、きらきらと眩しく輝き、一分一秒が充実していた時間を共に過ごしたメンバーとの絆は今も深く、堅い。
 とりわけ気心の知れた幼なじみの前でだけ、彼は異様に子供っぽくなる。ぶっきらぼうな相棒いわく「ただの腐れ縁」だそうだが、そうでないことは誰の目にも明らかだ。
 そんなふたりの仲を羨ましく思わないかと言えば嘘になるけれども、彼にしか話せないことだってあるだろう。柚子にだって、恋人だからこそ及川に言えないことがいくつもある。
 それに、及川は常日頃から本音を隠しがちで弱音を吐かない男なのだ。ガス抜きができるなら、それに越したことはない。このところ互いに忙しくて暫く会う機会もなかったため、積もる話もあるだろう。そう納得して笑顔で送り出したのが、夕方前。
 出かける間際。「日付が変わる前には帰ってくるから、夕飯はいっしょに食べよう」と言っていたので、嗜む程度に留めておくのだろうと勝手に思っていたのだが。果たして、飲み会で何があったのだろう。
 何もなければ、泥酔するまで飲んだりはしないはずだ。
「……岩泉ってば、何にも教えてくんないんだから」
 戯れついてくる大きな猫の頭をゆるゆると緩慢な仕草で撫でながら、はあ、とため息を零す。
 小一時間ほど前。ぐでんぐでんの及川を肩に担いで家まで送ってくれた彼と玄関先で交わした会話が脳裏に蘇る。
“あんときの話、おまえにも聞かせてやりたかったぜ”
 残念ながらその言葉の意味はわからなかったが、そう言って、にやりと笑んだ岩泉は、及川に負けず劣らずの悪い顔をしていた。
「っ、なんれ、俺といるのに岩ちゃんの名前呼ぶの」
 つぶやいた名に鋭く反応した及川がわずかに上体を起こし、駄々っ子のような表情で睨んでくる。
 ゆらめく珈琲色の双眸に滲む色は不満だろうか。聞き方によっては独占欲を主張しているようにも受け取れる言葉に、歓喜より先に驚きが先立った。
 本当に、珍しいこともあるものだ。
「はぁ」
 ぽかりと口を開け、間抜けな声を漏らすと。その反応が気に入らなかったらしく、及川はきりきりと眉尻を釣り上げて叫ぶ。
「柚子は俺の!俺のなの!俺の名前しか呼んじゃらめ!」
 無茶言うな。胸中で盛大に突っ込みながら、柚子は途方に暮れた。
 どうしてくれよう、この酔っぱらい。
 自分とふたりで宅飲みしていても、せいぜいほろ酔いになるくらいのものであったため、ある意味新鮮といえば新鮮な反応だが、こいつは一番厄介な絡み上戸だ。
 このタイプは早く寝かせてしまうに限るが、興奮状態にある今、それは些か難しい。さらに生憎とここは狭いソファの上。全身でのしかかられているため、動こうにも動けない。手詰まりである。
「徹、」
 とりあえず、落ち着こう。
 続けようとした言葉は、不意に途切れた。
「柚子……」
 熱っぽい囁きが落ちてくるのと同時。くちびるが柔らかなもので塞がれる。視界に映る、長い睫毛。馴染んだ感触に、キスをされたのだと脳が判断したころには、開けた歯の隙間から熱い舌をねじ込まれていて。ぴりりと背筋が粟立った。
「……ふっ、……ぅ」
「柚子、柚子……」
 このままではマズい。流される。
 そう思うのに。咥内で蠢く舌に翻弄されて、思考が掻き乱されていく。
 顔をずらせば、追いかけられて、くちびるを食まれる。逃げて、追われて、捕まえられて、また逃げて。それをくり返しているうちに、片方の手が部屋着の裾から入り込んできて、肌をそろりと撫で回す。明らかな意図を秘めた手つきに、身体が火照っていくのがわかった。
 求められることは素直にうれしい。必要とされていると感じられる。このまま愛されたいと思う気持ちも少なからず存在する。
 それでも、流されて応じるのは良くない。相手が泥酔しきっているなら、なおのこと。
 酒に呑まれたせいで、肌を重ねたことを忘れられたくなかった。何より、自分ひとりだけが覚えているだなんて、そんなの恥ずかしすぎる。
 やっとの思いで首を捻り、拒絶の意を示すと。及川は軽く目を瞠り、傷ついたと言わんばかりの表情で、なんで、とつぶやいた。
「徹?」
「なんで、嫌がるの?俺のこと、キライになった……?」
「は、あ?」
「俺は……俺は、柚子のこと、こんなにも、すきなのに」
「へ?」
 まるで片想いでもしているかのような切ない口ぶりに、思わず素っ頓狂な声が出る。
 確かに拒絶はしたけれど。流されるようなカタチが嫌だっただけで。及川のことがキライだなどと、いつ言ったのだ。
 そもそも、嫌いな相手と付き合っていられるほど柚子は酔狂な人間ではない。これまでに、散々好きと言わせておいて、いまさら何を言うのか。
 だいたい、こんなにも好きなのに、なんて。むしろその台詞を言うべきなのはこちらである。
 なけなしの勇気を振り絞って好きだと伝えても「うん」としか返らない。「俺も」と微笑まれても、その先に続く言葉が「好き」である確証なんて、片時も持てなかった。及川の周囲には魅力的な少女がたくさんいる。いつ捨てられるか知れない。不安で仕方がなかったときも、それを知っていて平気で笑っていたくせに、どうして。
 顔を出しかけた負の感情に、柚子はあわてて蓋をする。素面ならともかく、酔っぱらい相手に告げたところで詮ないことだ。
 ややこしい状況に陥りかけていることを悟り、さてどうしたものかと思案していると。及川は熱に浮かされた目で、訥々と胸の内を吐き出した。
「俺、おまえのこと好きだよ、ちゃんと。……素直になれないけろ、いつだって、可愛いって、思ってるし、誰にも渡したくないって、思ってる。言わないらけ」
 酔っぱらいの言葉なんだから、真に受けるなと思うのに。酔いが冷めればきっと忘れてしまうとわかっているのに。単純な心は歓喜に震え、呂律の回らない口調と、照れの混じった表情に、愛おしさが募っていく。
 酔っているがゆえの気紛れであったとしても、こんなふうにまっすぐな想いをぶつけられたのははじめてで。くちびるを噛みしめなければ、泣いてしまいそうだった。目頭がじんと熱くなる。
 そんな柚子を見て、及川は眉を八の字に下げて自嘲気味に目を伏せた。
「ごめん。不安にさせて、ごめん。でも、ちゃんと、好きらから。おまえが一番だから。これからはちゃんと、言う」
「徹……」
「だから、別れないれ。別れたく、な」
 どさり。言いたいことを言い切ったからか、糸が切れたように及川の身体が倒れこんでくる。
 あわてて受け止め、ソファから落ちなかったことにひとまず安堵のため息を吐くと。顔の横からすうすうと安らかな寝息が響いてきて、柚子は複雑な気持ちになった。
「何なのよ……いつも、言い逃げばっかして」
 及川を落とさないよう慎重に気を配りながら、何とか上体をずらす。
 幾分か呼吸が楽にはなったものの、くちびるから零れた声は、ひどく頼りない。
 これだから、酔っぱらいの相手をするのは面倒なのだ。せめてもの仕返しに、ぽかりと後頭部を叩いても、何の反応もしてくれない。
 身体にずしりとかかった重みと、規則正しい寝息が、彼の深い眠りを表していて、遣る瀬なくなる。
「ばか……ばーか」
 常日頃から甘い言葉を聞きたいわけではないけれど。好意を四六時中確かめなければ不安というわけでもないけれど。
 それでも、叶うなら。酔っていないときに聞きたかった。
 そうすれば、きっと信じられた。素直に喜べただろうし、両想いである幸せに浸ることだってできただろうに。
「ホント、ズルいんだから……」
 それでも。好きなのだから、しょうがない。好きだから、そばにいたいのだ。
 いつの世も惚れた方が負け。
 柚子の理想は今でも変わらない。岩泉のような、硬派で男前でぶっきらぼうだけど優しくて、面倒見もよくて、自分ひとりだけを大切にしてくれそうなタイプなのに。実際、好きになったのは及川で。告白したのもこちらからだった。
 はじめて「好き」だと言ってもらえたとき。キスをしたとき。肌を重ねたとき。ルームシェアを持ちかけられたとき。どれだけ幸せな気分になれたか、きっと及川は知らない。
 付き合っているのに、どこか一方通行。心の奥底に潜む不安に、たまに押しつぶされそうになるけれど。こうして触れ合えるうちは、まだ隣にいてもいいんだと思えるから。
「……わたしも好きだよ、徹」
 こうしてふたりっきりでいるときくらいは、きみを独り占めできている優越感に浸っても構わないだろうか。
 栗色の前髪を指先でそっと掻き分けて。こめかみに、触れるだけの口付けを落とす。
 自分から触れるのも、好きだと告げるのも、及川が寝ているからこそできることだ。いつもなら恥じらいが邪魔をして、きっとできない。
 躰にまとわりつく酒の匂いに酔ったのだろうか。それとも緊張から解かれ安心したからか、次第に心地よい眠気が襲ってくる。
 室内を煌々とライトが照らす中、やがて静謐な空間に溶けていく、ふたり分の寝息。
 意識が深淵へと沈みゆく刹那。柚子は、及川の寂しそうな声を聞いたような気がした。



 会社帰りのサラリーマンやOL、酒を解禁した大学生で賑わう夜の居酒屋。
 繁盛している店内は焼き物の香ばしい香りと酒の匂いで充満している。
 生ビールのジョッキ片手に、及川は岩泉、花巻、松川の三人とひさしぶりの団欒を楽しんでいた。
 互いの近況報告からはじまり、それぞれが通う大学での出来事、合コンでの失敗談など、気のおけない仲間たちと肴に舌鼓を打ちながら過ごす時間は、あっという間にすぎていく。
 話題の尽きない中、まだまだ素面の花巻と松川がちらりとアイコンタクトを交わす。そのにんまりとした企み顔は高校時代も散々目にしていたもので、酒も入り気分もよくなっていた及川は「なぁにマッキー松つん何企んでんのー?」と箸を片手にカラカラ笑う。
 三人が気にしている話題といえば、昔からひとつしかない。
 言うまでもなく、柚子のことなのだろう。半年前から彼女と暮らしはじめたことはここにいる全員が知っているものの、簡単な報告をしたのみで。いずれ突っ込まれるであろうことは、この日を迎えたときからすでに予測していた。
 何より、三人は知っている。及川と柚子が交際に至るまでの経緯はもちろん、及川が彼女に明らかにしていないことも、何から何まですべて。
 口火を切ったのは岩泉だった。
「おまえさ、アイツと上手くいってんのか?」
 まっすぐに投げ掛けられたその言葉に、及川はへにゃりと眉を下げ、困ったように笑う。
 それだけで、勘のいい彼らは粗方の事情を察したようだった。岩泉は呆れた素振りでため息をつき、花巻は愉快そうに口角を釣り上げ、松川はおかしそうに喉を震わせ、笑う。
「相変わらず、苦戦してんのな」
「……うるさいな」
「あ、照れてる」
 花巻にからかい口調で指摘され、じわりと頬が熱くなるのがわかった。
 付き合いも長く親しい分、遠慮と容赦がまるでないため、最大の理解者であり協力者である反面、色々な意味で厄介なのだ。
 そもそも、この話題において及川が優勢に立てる確率は極めて低い。
 なぜなら、及川と柚子の橋渡しをしたのは、他ならぬ彼らだからだ。
 酒の所為ではない頬の赤みに、花巻が鶏の軟骨唐揚げを箸で摘みながら、目をチェシャ猫のようにゆるりと細めて笑う。
「言葉足らずと不器用さも、ここまでくると表彰モンだよな」
「……う」
「その様子じゃ、好きとか、甘い感じの直接的な言葉、全然かけたげてないんデショ」
「そのクセ、ヤるこたヤってる、と」
「……うぐ、」
 松川にも加勢され、劣勢に追いやられた及川が隣で黙々とサーモンのカルパッチョを食べている岩泉に泣き付けば、ざまぁと鼻で笑われ。どっと笑いが湧き起こった。
 ──柚子は知らない。
「『あの』及川が、本命だけには奥手とか空回ってるとか、マジウケるんだけど」
「でもって無駄にカッコつけだから、そういうのバレたくないからって、余裕ぶって誤魔化してるしな、『あの』及川が」
「アイツのこと無駄に振り回しまくって無駄に不安煽りまくって、あとで無駄に凹みまくって、そのたびにメールと電話寄越してくるしな、『この』クソ川は」
「みんなヒドイよ!?及川さん泣いちゃう!」
 及川が、柚子の思う以上に柚子を想っているということを。
 好きと言えないのは、臆病だから。簡単に言ってしまうと、軽く受け取られてしまいそうで、怖くなってしまうだけ。一時の気紛れやからかい目的だなんて、万が一にも思われたくない。
 そのため、これまでは出し惜しみしてこなかった口説き文句も、彼女にだけは言えなかった。
 本当に大切だから。彼女だけに贈りたい、特別な言葉をいつも探している。けれど、口にしようとするたび喉で詰まって、何も言えなくなる。自分は彼女を大事にできないのに、彼女の愛ばかり欲しがって。こんな一方的なのは恋愛じゃないとわかっていても、止められない。
 どうして優しくできないのだろう。考えれば考えるほど、思考は泥沼にはまり、抜け出せなくなる。
 高校三年のとき。己の振る舞いが原因で彼女を傷つけ。別れを持ち出されたことまであるというのに、その教訓はいまだ活かされていないのである。さらには現在進行形で不安を与え続けているというのだから、情けないにも程がある。
 もっと甘えてほしい、我が儘を言ってほしい、もっと彼女に近づきたいのに、どうにも上手くいかない。
 この現状は、及川に近しい者からすれば、歯痒くてならない。
 及川が彼女に夢中なのは明らかなのに、肝心の彼女にはそれがちっとも伝わっていない。
 だから。何かひとつでもいい、きっかけでもあれば、と願ってやまないのである。
「あーもう!こーなったらヤケだよ!飲むよ!」
 残り少なくなっていたジョッキの中身を一気に煽ると、空になったそれをテーブルの上にドンと置く。
「いっそ、酔った勢いで襲っちまえばいんじゃねーの?」
「それか酔ったフリして、日頃から言いたくてたまらないこと、全部ぶちまけちゃうとか」
「襲っ……たりとか、酔ったフリしてアレコレとか、そ、そんなことできるワケないジャン!それができたら苦労しないよ!……し、したいケド!」
「じゃあもうフラれるしかねーな。自分のこと好きなのかどうかわかんねぇ男にいつまでも付き合ってらんねーだろうしな」
「!、そっそれもヤだ!柚子はずっと俺のなの!」
 松川、花巻、岩泉が口々に囃し立て。過剰に反応する及川はあわてふためく。
 皿に乗った肴や小料理がなくなる頃には全員ほろ酔い状態となっており、弾む会話はますます花を咲かせていった。
 この際だから本音を吐き出せと、花巻と松川に強い酒を飲まされた及川が、真っ赤な顔でテーブルに突っ伏しながら惚気でしかない愚痴を延々と語る中、ひとり携帯をいじっていた岩泉はひっそりと苦笑する。
 午後九時六分。ディスプレイに表示された、送信完了の画面。メールの宛先は、及川が不器用すぎる愛情を一心に注いでいる彼女だ。
『悪い。調子に乗ってかなり飲ませちまったから、もうちょいしたら送る』
 傍らでは、すっかり出来上がった及川が、半眼でくちびるを尖らせながら恋人への不満を漏らし、花巻と松川に絡んでいる。
「だーかーらーさー、アイツもー、もっと素直にぃなってくれればいいのにぃ、滅多に甘えてくんないしー、不安に思ってることがあっても口にらさらいし、ワガママも言ってくんないんらろ」
「あの子、結構我慢強いトコあるもんなァ。てか、寂しいなら寂しいって言やぁいいのに」
「しかも、彼女に甘えられたいのに甘えてもらえないからって、逆に自分が甘えようとして、見事に失敗してるしな」
「むー……マッキー、松つん、うるさい」
 テーブルに頬杖をつき、聞き手に撤する岩泉はしみじみと思う。
 素直になりゃあいいのに。
 結局のところ、ふたりとも互いのことを考えすぎて、一歩が踏み出せないでいるだけなのだ。好きだから、嫌われるのが怖くて。
 ただ及川の場合、彼女を悪戯に翻弄するから質が悪いのである。後悔するくらいなら泣かせるような真似をしなければいいのに、好きな子には意地悪をしたくなってしまうらしい。何度再確認したか知れないが、実に面倒くさい男である。
 返信を待つ間も、及川は可愛い彼女の可愛いところをふにゃふにゃした幸せそうな顔で喋っていて。とろけた目は、彼女への想いを雄弁に語っている。
 本人がいないところではこんなにも素直になるくせ、本人を目の前にするとどうして無駄に格好つけようとするのだろう。いや、心底惚れた相手だからこそ、格好をつけたいのか。
 その余裕ぶった態度が、及川を軽い男に見せており。彼女には、自分は遊ばれているんじゃないかという不安を抱かせているのだから、本末転倒もいいところだ。
 小学生の頃からの付き合いで、良いところも悪いところも知り尽くした幼なじみの、本気の恋。
 それを傍から眺めている分には楽しいが、何かあるたびに彼女を傷つけたと落ち込んで、泣き付いてきては強制的に相談に乗らせるのはそろそろ勘弁してほしい。
 だから、今、アドバイスしてやれることがあるとすれば。
「とりあえず、好きって言って、素直になりゃいいんじゃねーの」
 何事も、素直が一番という話だ。
 斯くして、岩泉たちから励ましと助言を受けた及川だったが。
 この日の晩。勇気を出して迫ってはみたものの、かなり酔っ払っていたためにまったく本気だと思ってもらえず。かえって切ない思いをさせてしまい。
 翌日。岩泉に電話越しに泣き付く及川の姿があったという。
 素直になれないふたりの恋の行く末は、まだまだ波瀾万丈であるらしい。





Fin.
刪ー夜さまへ
素直になれないふたりの話