不毛な恋をしている。とても、とても不毛な恋を。 好きな人がいて、すでに失恋が確定しているのにも関わらず、この想いを諦めることも捨てることもできない。挙げ句その人の親友に、友人のひとりとしてしか見ていない男に足を開き、何度も身体を重ねているのだから、これを不毛と言わずして何と言おう。 行為の痕跡が色濃く残っている事後の褥(しとね)。暗がりを、勉強机の上に置かれた電気スタンドの白い光が照らしていた。 体温で生ぬるくなった皺くちゃのシーツに力なく横たわっていると、真横で枕に頬杖をつき、艶っぽく微笑みながらこちらを覗きこんでくる男に髪を撫でられる。しかし、愛おしむような、労るようなその手付きに深い意味などない。もしあれば、それは「今日も俺の性欲処理に付き合ってくれてありがとう」くらいのものだ。 下半身に残る倦怠感に瞼を下ろし、柚子は考える。いつになれば、この底無し沼から出られるのだろうかと。 ついさっきまで、自分を抱いていたこの優男、及川徹とはじめて肌を重ねたのは高校二年の初夏。あの日からもうすぐ、丸一年になる。 こんなことをしていたって、誰も報われない。間違っていると知っている。いくら快感で誤魔化そうとも、罪悪感は絶えず付き纏う。やがては彼を想う純粋な気持ちまでもが穢れていくだけだ。 それでも、弱い柚子は縋り付けるものを求めてしまった。誰かを代わりにしたところで傷ついた心が癒されることなどないとわかっていても。まだ、ひとりでは立ち上がることができそうにないから。 いつから自分はこんなにも弱くなってしまったのだろう。不健全極まりない、身体だけの付き合いをして、満たされない心をどうにかしようだなんて。潔癖だったあの頃の自分が見れば、きっと軽蔑するに違いない。 すべてのはじまりは一年前。部活後の自主練習の合間の休憩中。想い人である岩泉一が眉間にしわを寄せ、ため息をつきながら零した一言からだ。 当時クラスメイトだった岩泉と柚子の仲の良さについて、及川がからかったのが発端だった。互いに生真面目で責任感の強い者同士、何かと相談し合ったり、自由奔放すぎる及川の愚痴を言い合ったりしていたことも勘ぐられる要因となっていたのだろう。 「岩ちゃんと柚子ちゃんてホント仲いいよね」 それに花巻と松川が便乗し、囃し立て。ニヤニヤする三人に向かって、岩泉は呆れながら言ったのだ。勘違いすんな、と前置きをしてから。 「佐原は友達で、クラスメイトで、部活のマネージャーだ。それ以上でも以下でもねーよ」 それを聞いた瞬間。ガン、と。鈍器で頭を殴られた気がした。衝撃で、一瞬呼吸が停止する。 女として意識されていないことはわかっていた。持ち前のサバサバとした性格ゆえに、柚子は岩泉に表立ってアプローチをしたことはない。及川の周囲にいる可愛くて綺麗でふわふわとしている女の子たちのように着飾ったり、甘い声や仕草で誘惑することなんて到底出来やしなかった。 岩泉にとって気軽に話せる女子であればいい、有能ではないかもしれないが働き者なマネージャーとして認識してもらえたらいい、彼を近くで支えられるポジションであればいい。 はじめて岩泉を異性として強く意識したのは中学二年の春。そうしてひっそりと続けていた片想いは、中学時代を合わせて四年目に突入していた。けれど打ち明ける勇気もないまま、ずるずるとここまできてしまって。けじめをつけるためにも、一歩踏み出してみようかな。告白を、してみようかと、ようやく一大決心をしたその矢先。先手を打たれてしまったのだ。おまえを恋愛対象として見てはいないのだと。 そのとき、うまく笑えていたかどうかは定かでない。 「もー、アンタたち何言ってんの!確かに岩泉はいい奴だけど、そんなんじゃないから!」 ケラケラと笑い飛ばす裏側で、柚子は泣いていた。ああ、わたしの恋は見込みのない恋だったのだ。じくじくと胸を抉る痛みに、握りしめたこぶしが震え、涙が出そうになりながらも柚子は必死に耐えていた。 練習が終わるまでは耐えろ。泣くな。絶対に。みんなに、岩泉に余計な心配をかけたくなければ。笑え。笑え、笑え。 その懸命な強がりを、岩泉への恋心を押し殺そうとする姿を、ただひとり、及川だけが静かな目で見つめていたことを知らずに。 そうして虚勢を張り続けていたせいか、家に帰っても涙は出なかった。思う存分泣いてやろう、そう思っていたのに。ただ、胸にぽっかりと大きな穴が開いた気分になっただけだった。何かが、欠けてしまっていた。 それから暫く経ったある日のこと。その日も、及川と岩泉は遅くまで残って自主練習をしていたため、柚子もそれに付き合っていた。ふたりのサポートと、あと半分は常日頃からオーバーワークしがちな及川の監視をするためである。 今日はここまでにするぞ。若干息の上がった岩泉の声に、及川が額の汗を拭いながら物足りないとくちびるを尖らせる。いつもの、見慣れた光景。 ボールとネットを片付け、床をモップで綺麗に掃除して体育館を出る。これもいつものこと。しかし。 「あ、ゴメン岩ちゃん。鍵、戻してきてくんない?俺、柚子ちゃんに話があるんだ」 「あァ?まあ、別にいいけどよ」 いつもなら、そのまま体育館の鍵を職員室に返しにいくはずの及川の行動だけが、この日にかぎり違っていた。 すっかり陽が落ち、夜闇が辺りを支配する中。体育館の入り口で、飄々とした、それでいて胡散臭いくらいの爽やかさを湛えて及川が笑う。岩泉は仕事を押しつけられたことに眉を潜めながらも特に文句を言うことはなく、目的の場所へ向かってさっさと歩いていく。校舎内に消えゆくその背を柚子が何とはなしに追っていた、そのとき。 完全にふたりきりになったのを見計らった及川が柚子の横に並び、ゆっくりと口を開いた。 「柚子ちゃんさぁ、まだ岩ちゃんのこと、好きなの?」 「えっ……」 疑問系ではあるが確信を持っているような口振りに、思わず及川の顔を凝視すると、試合と練習のとき以外には滅多に見せない真剣な表情とぶつかる。その言葉に、どこか思い詰めたような、焦りのようなものを感じたのは気のせいだろうか。 咄嗟に反応はできなかった。代わりに視線を大きく逸らす。なんで。どうして見抜かれたの。そんな素振り、見せたことなんかなかったのに。その驚きが先立っていた。 動揺と沈黙は肯定の証。それがわからない柚子ではない。だが、よりにもよって一番知られたくない人物に看破されてしまったことが、柚子の思考を鈍くさせてしまっていた。 「ふぅん、やっぱ図星か。昔からだけど、柚子ちゃんてときどきすっごいわかりやすいよね。特に、岩ちゃんのことだと」 「っ!」 先ほどとは打って変わったひどく愉しげなその声に、びくりと肩が跳ねる。反射的に目を合わせると、濃紺の星空を背景にして立つ彼は歪んだ口元に三日月を刻んでいた。 やはり、及川はすべてを知った上で尋ねてきていたのだ。昔からだけど、そう断言するということは、柚子が岩泉に想いを寄せていることを随分前から知っていたに違いない。当然、先日失恋してしまったことも承知しているはずだ。カアッと、頬が熱くなる。まわりに隠し通せていると自信を持っていただけに、羞恥で泣きそうになった。 結局何も言えずにくちびるを噛みしめ、俯く。頭上から降ってくる視線が痛い。それはまるで槍のように全身に突き刺さった。 話がある、といったのはこのことだったのだろうか。わからない、質問の意図が読めない。重苦しい空気に息苦しくなる。ぎゅう、ジャージの上から胸部分を強く掴んだ。 嫌な予感がする。及川の纏う空気が冷たい。こういうときの及川は、決まって人の痛いところを突いてくるのだ。叶うなら耳を塞いでしまいたい。 けれど、及川がそれを許してくれるわけもない。予想どおり、すぐさま追い打ちをかけてきた。 「すごいね、こないだ友達宣言されちゃったのに、それでも好きなんだ。健気だね〜」 友達宣言。瞬時にあの日の光景がフラッシュバックする。 健気だね、なんて、ちっとも思っていないくせに。この嘘つきめ。どこまでも加虐心に満ちた声に怒りが込み上げてくるも、ぐっと堪える。だが、その反応が及川は気に入らなかったらしい。 すいと伸びてきた手に頤(おとがい)を掬われ、強引に顔をあげさせられる。視線が交わると、及川の笑みがますます深まった。人を食ったような、嘲るようなそれは、もはや悪魔の笑みにしか見えない。 叩くなら、折れるまで。及川がよく口にしている座右の銘を、このとき、これ以上なく憎いと思った。叩くのはバレーだけにしてくれと悲鳴をあげたくなる。 この男はいつもそうだ。他の女の子たちには別け隔てなく優しくし、甘い言葉を振りまいて、砂糖菓子のような笑みで応対するくせ、柚子の前では本性を顕にする。彼も中学からの付き合いになるのだし多少なりと気心も知れているのだから素も出るか、とこれまではまったく気にしてこなかったし、いまさら周囲とおなじ接し方をされても気持ち悪いだけなので改めてもらいたいとは微塵も思っていないが、わざと人を追い詰めて楽しむその悪癖だけは何とかしろと心から思う。 「……っ、なにが、言いたいの」 顎を掴まれたまま、なけなしの意地で睨みつけてやると、及川は嫌な笑みを崩すことなく、さらに言葉を続ける。 「いやー、別にー?柚子ちゃんにも恋する乙女みたいな一面があったんだなぁ、って思っただけだよ。ま、もっともその岩ちゃんには“女の子”として見られてないわけだケド。アハハハッ」 「……っ、」 一瞬、息をするのを忘れて目を瞠る。血が止まったばかりの傷口を、鋭利な刃物で再び深々と抉られた心地になった。 慰めろなんて言わない。同情もいらない。けれど、その言い草はひどすぎる。こっちはこれでも真剣に恋をしていたのに、笑うなんてあんまりだ。 バシンと音を立て、顎にかかる指を渾身の力で払いのけた。 「……っ、ふ、うぅぅ〜〜っ」 視界が大きく揺らぐ。鼻の奥がツンとし、目頭が熱くなると同時に、柚子の瞳からは大粒の涙が零れ落ちていた。 「………!」 口元を両手で覆い、泣きだした柚子を見て、かすかに及川が狼狽する気配を感じる。けれど、涙腺が決壊した今の柚子に、そんなことを気にしている余裕などなかった。 「な、で、そんなこと、言うの!人の、傷口、えぐって、アンタッ、なにがたのし、の……!」 悔しい。悔しい。悔しい。こんなやつの前で泣きたくなんかないのに。自身の意志に反して勝手に引き攣る喉と、ぼろぼろと目尻から溢れて頬を伝い落ちる涙が疎ましい。 パタ、パタ。足元に、ひとつ、ふたつ、鈍色の染みができていく。 「……、………だろ」 頭上で及川が何かを呟いたが、構ってなどいられない。 とにかくこの場を離れたかった。逃げだと思われてもいい。これ以上、及川といっしょにいると心臓が押し潰されてしまいそうだった。それなのに。 「ねえ、柚子ちゃん」 人の傷口にありったけの塩を塗りこんでくれたこの男はことごとく退路を断とうとするのだ。 名前を呼ばれ、腕を引かれると、きつく抱きしめられる。 すこしの間、何が起きたのかわからなかった。ジャージ越しに伝わってくる体温と、仄かに香る汗の匂い、背中に回された力強い腕、押しつけられた胸から伝わってくる、わずかに早い心臓の音。それらを認識するまでにおよそ数十秒の時間を要した。 意味がわからない。どうして及川がわたしを抱きしめたりするの。ひどいことを言ったり、優しくしたり。一貫性のない行動のすべてが理解不能で。余計に涙が止まらなくなって、柚子はひたすらしゃくりあげた。 「俺にしとけば?」 「………は?」 抵抗すら忘れて、ただ呆然としながら耳元で囁かれた言葉の真意を図りかねていると、及川の整った顔が徐々に近づいてくる。 え。なに。こいつは、わたしに、何を、しようとしてるの。戸惑っている間に長い睫毛に縁取られた目を伏せる眼前の男に吐息が混ざり合うくらいの距離まで迫られ、ハッと我に返る。冗談じゃない。 しかし次の瞬間、胸板を押し返すより早く。柚子のくちびるは及川のそれによって食まれていた。 「───……」 しかも、その口付けが計画的なものであったことをすぐさま思い知る。 「お、まえ、ら。何、してんだよ」 背後から聞こえてくる唖然とした声に、背筋が凍った。寒気からでも恐怖からでもない、絶望でだ。一瞬のうちに涙は引っ込んでいく。 見られたくなかった。こんな、及川にキスされている場面なんて。岩泉がこちらに向かって歩いてくるのが足音でわかる。見せつけるように殊更緩慢な動きでくちびるを離した及川の顔は笑っていた。まるで、そう、計画どおりと言わんばかりの清々しさで。 「やだなぁ岩ちゃん、野暮なこと聞かないでよ」 「つーか、んなとこで堂々としてんじゃねーよクソ川」 「えー、なんで俺だけ怒るわけ!」 「コイツ泣いてんじゃねーか。それに、佐原が人前でそんなんするわけねーだろーが」 ふたりの声がなぜか遠くに聞こえる。なぜだろう。こんなにも近くにいるというのに。何か見えない壁で仕切られているかのように感じる。 心臓の音がやけにうるさい。息が詰まる。知らぬ間に及川に肩を抱かれたようだったが、柚子は意識が半ば飛んでしまっていて、身動ぎすることさえできずにいた。 「オイ、佐原放心状態だぞ。大丈夫なのか?」 「うーん、やっぱり不意打ちでキスしたのはマズかったかなー」 「つーかおまえら付き合ってたのかよ」 「うん。ついさっき」 「ああ、それで俺を職員室に行かせたのか」 「そゆこと。ゴメンネー」 ふたりの間で弾む会話の内容が理解できない。及川は何を言っている?ふざけるのも大概にしろ。だいたい、わたしが好きなのは及川じゃなく、岩泉だ。岩泉もお願い、誤解しないで。そう声を大にして言いたいのに。どうしてわたしの口は貝のように閉ざしたまま、真実を語ろうとしないのだろう。 絡まって縺れて解けなくなった毛糸玉みたいに思考回路がぐちゃぐちゃになっていく。足元もふわふわとしていて現実味がない。本当にショックなことが起きると口も聞けなくなるというのは真実であったらしい。 「にやついてんじゃねーよクソ川!」 「痛っ!も〜カノジョがいないからって僻まないでよ岩ちゃ〜ん」 「死ね」 「ヤだよ!」 「……まあ、何だ。とりあえず、コイツのこと、大事にしてやれよ」 「エ?なに?岩ちゃんは柚子ちゃんのお父ちゃんですか?」 「死ね」 頼むから、どうか、夢なら早く醒めてくれ。好きな人に間接的にフラれたばかりか、勝手に恋人を作られて、あまつさえ、応援されるだなんて。 考えられる失恋のパターンとしては、こっぴどくフラれることの次くらいに位置付けされるのではないだろうか。 心が死んでいく。じわじわと、黒い靄に侵食されていくようだった。岩泉にただの友人以上に思われていない事実が、哀しくて、苦しくて。胸に咲いた淡い花の花弁が容赦なく毟り取られ、無惨に散らされていく。さらさら、砂と化していく恋心。もうどうでもいいや。そんな投げ遣りな気持ちさえ抱いた。 だから、なのだろう。悪魔の誘惑に負けてしまったのは。 学年学校問わず女の子を誑し込む蠱惑的な表情で及川が微笑む。怪しく、美しく。 耳朶に触れたくちびるが熱を帯びている。それを見た呆れ顔の岩泉が「先に部室行ってるからな」と言って通り過ぎるのを尻目に、悪魔はひっそりと囁いた。 これから先、幾度となく耳にすることになる呪文を。 「……ね、柚子ちゃん、このあと俺の家おいでよ」 考えることを放棄した脳は正常に機能することなく。ただただ命令に従うかのように、素直に頷いていた。 手放しかけていた意識がようやく戻ったのは、制服を中途半端に脱がされ、胸や下着、必要最低限の場所だけを露出させられた状態で、及川の自室に敷かれた布団に押し倒されたときだ。 カッターシャツの前を開き、スラックスの前も寛げた及川が柚子の膝裏を抱え、粘液で光る秘所にゴムをつけた雄を宛てがい、舌なめずりをするのを、柚子は虚ろな目で見ていた。 はじめてのキスを奪われ、さらに処女までをも奪われようとしている。及川はいくつ、わたしの大切なものを奪えば気が済むのだろう。 わざわざわたしなんかとシなくたって、喜んで付き合ってくれる女の子はごまんといるだろうに。 「おいかわ、」 「相手が岩ちゃんじゃないのにしっかり濡れちゃってるし、柚子ちゃんて案外ヤラシー身体してるよね」 舐めるような目で見下ろされ、恥辱で顔が赤くなる。 外気に触れている胸をやんわりと揉まれ、敏感になった先端を摘まれ、声をあげそうになるのを必死に堪えた。けれども。 「……、早く、して」 「っ、へぇ……どういう心境の変化なの」 「もういい、から」 その通りだと思った。愛撫を施された身体は快感を拒むどころか享受していて、自分がとてつもなく穢れているもののように感じて仕方がなかった。 及川の首の裏に両腕を回す。自分が何をしようとしているのか、行為の果てに待つものが何であるのかもわかっていたが、止められなかった。 堕ちていく。心も、身体も。 「……バカだね、柚子ちゃんは」 くちゅり、と粘着質な音を立てて、先端が侵入してくる。 うん、知ってる。バカだよ、わたしは。 今自分を犯しているのは好きな人ではない。好きな人の親友だ。それでもきっと、果てるときに柚子は岩泉を想うのだろう。 及川がどういうつもりで自分を抱こうとしているのかは知らない。ふだんの軽いノリ以外で好きだと言われたこともないから、興味本位でちょっかいを出してきているだけなのかもしれない。理由を知りたいとも思わないから、聞く気はない。 これから先も、ずっと。 秘所から流れ出た血と、下半身を圧迫する痛みは、己の罪に対する罰なのだろう。 そうしてはじまった歪な関係は、一年が経った今もなお続いている。 及川の気まぐれで家に呼ばれては身体を重ねる。互いに性欲を満たすだけなので、キスは滅多にしない。及川が仕掛けてくるときだけ。好きだよ、と囁いたり身体に痕を残すこともしない。甘酸っぱい青春を夢見ていた頃からは考えられないくらいに爛れてしまっている。 岩泉だけを見つめ、岩泉に焦がれていた日々が、とてつもなく眩しく、幸せで、手の届かないものに感じた。 もう戻れない。あの頃のような純粋な気持ちには。失恋の痛手で茫然自失となった上、別の男と簡単に寝てしまうような自分はもう、まともな恋なんてできないかもしれない。 「──……いわいずみ、」 くちびるの動きだけで、想い人の名を呼ぶ。 それでもまだ彼を好きでいる自分は何と愚かなのだろう。未練がましいにも程がある。 及川に抱かれているときでさえ、触れるこの手が岩泉だったならと浅ましいことを考えてしまう。 ふいに、くちびるに温かいものが触れた。目を開けると、ぼやけた輪郭が見える。この一年ですっかり見慣れてしまった及川のものだ。 「何考えてたの」 「……別に」 質問につっけんどんな返事を返すと、及川はクスクスと笑う。どうせお見通しなのだろう。口端が釣り上がっている。 再び、啄むように口付けられた。ちゅ、ちゅ、と可愛らしい音が鳴る。ふたりの関係にそぐわないそれは滑稽だと思った。 こんなふうにくすぐったい戯れのキスをしたところで、柚子と及川は恋人でも何でもないのだから。どこまで行ったところで平行線にしかならない。 「ね、もっかい、シよ」 「……お好きにどうぞ」 許可を出すなり身体を跨ぎ、心なしか恍惚とした表情で素肌に掌を這わせてくる及川に、今夜もか、と内心で軽いため息をつく。 最近、及川はおかしい。変だというより妙だと言い換えたほうが正しいか。 一度きりでは満足できなくなったのか、二回、下手をすれば三回と求めてくるようになった。 変わったことは他にもある。さっきのような優しいキスをしたり、首筋や鎖骨、胸に痕をつけてみたり。情事のあとに柚子を労るように撫でてみたり。いまさら何のつもりなのだろう。特定の彼女は相変わらずいないようだから、『ふつう』の恋人の真似事でもしてみたくなったのか。 どちらにせよ、興味はない。 現実を遮断するように目を閉じる。煩わしいことはすべて忘れて、ひとときの快楽に身を投じるべく。 夜の静寂に、喘ぎ声と甘い吐息が染み込んで、再度淫靡な空間が構築されていく。 二度目に果てた際、及川が何かを呟いていたが、熱に翻弄される柚子の耳に届くことはなかった。 毒気に満ちた暗い底無し沼に、光明はいまだ、射さない。 * 不毛な恋をしている。とても、とても不毛な恋を。 「柚子ちゃん……、もう寝ちゃった?」 「………」 深夜の自室。群青の静謐な空気に包まれた褥(しとね)の上、隣でちいさく寝息を立てている柚子の頬を撫でながら、及川はそのダークブラウンの双眸に切なげな光を浮かべ、寂しそうに微笑む。 今日も無理をさせてしまった。シャワーを浴びる際、痛みでつらそうにしていた彼女の顔を思い出す。事後、こうして胸に渦巻く自責の念と後悔で何度ため息を吐いただろうか。 このところ、歯止めがまったく効かなくなってしまっている。彼女を抱くときに余裕がない。触れたら最後、理性は瞬く間に弾け飛んで、貪り尽くそうとしてしまう。まるで本物の獣(けだもの)のように。 いつからだろう。高望みをするようになったのは。 間違ったはじまり方をし、現在進行形で道を大幅に逸れている自分たちが、いまさら『ふつうの恋人同士』になどなれるわけがないというのに。 まして、卑怯な手を使い、彼女を深く傷つけた自分に甘い未来を願う資格などない。 柚子と、いわゆる不純異性交遊がはじまったのは一年前の初夏。濃藍の夜空に散らばる星々が、本格的に夏の星座へと移り変わろうとしていた時期のことだ。 好きな男にフラれたと誤解し、傷心している柚子に付け込み、抱いて、無理矢理自分のものにした。 馬鹿だなぁと思う。柚子も、岩泉も、そして自分も。 ふたりは知らない。実は互いに両片想いをしていたということを。 あの日及川がからかったとき、岩泉はただ照れ隠しをしただけだったこと。しかし柚子はそれを真に受け、勝手に失恋したと思い込んでしまった。 あえてそれを指摘しなかったのは、及川も柚子のことが好きだったからだ。 恋に落ちたのは、柚子が岩泉の前でだけ種類の違う笑顔を浮かべることに気付いたとき。中学二年の秋。紅葉が山を彩り、街路に銀杏の葉が舞い散る季節だった。 いつもの快活で明るい笑顔ではなく、すこしはにかんだように笑う柚子は、及川の目にとても可愛く映った。入部当時に知り合い、一年半。これまで彼女を恋愛対象として意識したことはなかったのに。その、ほんのすこしのきっかけが、及川の心の天秤を勢いよく傾けることとなった。 好きになった女の子には、他に好きな男がいる。相手は己の幼なじみである。劣勢からのスタート。 そんな一途な彼女に振り向いてもらうことは並大抵のことではなく、及川は軽い気持ちで好きだと告げるのがやっとだった。 積極的なのが取り柄であるはずの自分が珍しく攻めあぐねていたのだ。フラれて、今のように軽口を叩きあえる間柄でなくなってしまったらどうしようと。恋をしている人間ならばどこかで一度は体験するであろうジレンマ。及川もその例に漏れなかった。 だが、その臆病さが仇となったことを翌年の春に思い知る。 天才の出現に焦った及川が身体を痛め付ける練習を重ねていた裏で、そんな及川を心配する岩泉と柚子は着々と心の距離を縮めていっていたのだ。容姿と裏腹にさっぱりとしていて、細かな気遣いもできて、いつも一生懸命。女の武器を前面に押し出すタイプをあまり好んでいない岩泉が、彼女に惹かれていくのは道理だった。 それを知らぬままひたすら練習に打ち込んでいたある日、自分ひとりが強くなっても意味がないのだと気付かされて、ようやく目が醒めた及川がその視界に捉えたのは、過去に見たことのないほど優しい顔をした幼なじみの姿。 気付いたときにはすでに遅く。岩泉も柚子を好きになっていたのである。 何で。どうして。俺のほうが先に柚子ちゃんを好きになったのに。柚子ちゃんは岩ちゃんが好きなんだよ、両想いじゃないか。岩ちゃんはあとから好きになったのに、そんなの、ズルいよ。 及川は焦った。もし、ふたりが互いの気持ちに気付き、想いを通わせることになってしまったら。脳裏で照れ笑いをしながらも幸せそうに見つめあうふたりを想像し、くちびるをきつく噛みしめる。背後から何かに追い立てられる感覚に、居ても立ってもいられなくった。 邪魔してやる。その一心で、事あるごとにふたりの会話に割り込んでは良いムードになるのを阻止していった。柚子の目をこちらに向けようと必死だった。 しかし、及川の焦りに反し、不器用なふたりはそれ以上近づくことはなく、一定の距離を保ち続けた。友達以上、恋人未満。言葉にするなら、まさにこの状態だったのだ。 三人でいる機会が増え、揃って青葉城西高校に進学してからも、不安定なようで安定しているバランスが崩れることはない。たとえるならば足場の悪い積み木の塔、もしくは薄氷の上の綱渡りであったが、及川は内心で安堵していた。ふたりの奥手さに感謝すらした。付け入る隙はまだまだある。 岩泉のことも親友として大好きだが、それでも柚子に関することは別次元だ。譲る気はさらさらない。かといって宣戦布告するつもりもない。勘の鋭い彼は、もしかしたら及川の気持ちにすでに気付いているかもしれないが、できることならギスギスした空気を作りたくなかった。 だが、あの運命の日。岩泉への想いを押し殺しながらも焦がれる眼差しで背中を見つめていた柚子の姿をその瞳に映した瞬間。及川の中で何かが弾けてしまった。 嫉妬、独占欲、我慢、焦燥、あるいはそれらすべてを引っ括めたものの種が。ぱちんと。 その矛先はまっすぐ彼女へと向かっていった。 話があるなんて真っ赤な嘘だ。ただ、ふたりきりになりたかっただけ。岩泉にわざと鍵当番を託し、その間に抜け駆けしてやろうと思っただけだったのに。込み上げる負の感情を抑えきれない。 岩泉への未練を指摘してやれば、いっそ清々しいくらいに動揺する。おそらく本人はばれていないとでも思っていたのだろう。実際、ふたりの気持ちに気付いていた人間は、少なくとも部内では及川以外にいなかったに違いない。 秘めた想いに気付いたのは、柚子をずっと目で追っていたから。まわりにいる女の子たちに愛想を振りまく傍らで、彼女にずっと恋をしてきたから。 改めて、自分の気持ちは彼女に届いていない、こちらを見てくれていないことを深く実感させられ、苛立ちがこみあげてくる。どす黒い炎に、チリッと胸裏を焼かれた心地がした。 雰囲気を豹変させ、攻撃的な態度と口調でいたぶり、確実に追い詰めていく及川に、柚子はただじっと耐えている。気に入らない。全部。 「すごいね、こないだ友達宣言されちゃったのに、それでも好きなんだ。健気だね〜」 自分が紡いだ言葉に吐き気がした。 健気だね、なんて。そんなこと、微塵も思っていないくせに。 失恋したと思ってるのならさっさと諦めろよ。いつまで岩ちゃんのこと好きでいるつもりなんだ。なあ。いつになったらおまえは俺のほうを向いてくれるの。その瞳に俺を映してくれるの。 俯く柚子の頤(おとがい)に指をかけ、強引に上向かせる。薄く張った水の膜でゆらゆらと揺れる双眸に加虐心が擽られた。 泣かせたい。傷つけたい。そうすれば、柚子は俺を見てくれる。悪い意味でもいいんだ。それで彼女の心の中に『及川徹』の存在が残るのなら。 振りかざした言葉のナイフが、愛しい少女の胸を穿つ。 部活外ではじめて見た柚子の涙は、透明で、とても美しかった。 同時に利己的な理由で泣かせてしまったことへの罪悪感から、ひどく狼狽もしたのだけれど。 「な、で、そんなこと、言うの!人の、傷口、えぐって、アンタッ、なにがたのし、の……!」 しゃくり上げる彼女は傷ついてボロボロで、あと一撃でも食らえばたちどころに崩れてしまいそうなくらい儚くて。 どうしようもなく、愛しくて。 「……、そんなわけないだろ」 溢れる想いの赴くまま、及川は柚子を抱きしめ。 「俺にしとけば?」 そして、キスをしていた。 直後に、岩泉が偶然、及川にとってはタイミング良く戻ってくることを知らずに。合意でなくとも愛しい彼女とキスができた喜びと、重ねたくちびるから伝わってくる甘い感触に夢うつつになっていた。 このときほど強く、彼女を俺のものにしたいと思った瞬間はない。柚子は信じてくれないだろうが、好きだと告げるときはいつだって本気で、口から出る軽い愛の言葉は嘘偽りのない本心だった。 「お、まえ、ら。何、してんだよ」 呆然としたその声が若干震えていたのは気のせいではないだろう。直接くちびるが合わさっているのは見えずとも、ふたりの体勢、その角度から何をしているのかは明白だ。 好きな女の子が、自分の幼なじみとキスをしている。逆の立場を思い浮べれば、その衝撃たるや計り知れない。 この瞬間、及川は悪魔に魂を売り渡したのだ。 柚子を、手に入れるために。 彼女が絶句しているのをいいことに、岩泉に柚子と恋人同士になったと偽り、肩を抱き寄せて自慢する。ゴメンネ、岩ちゃん。口の中で呟いた謝罪の言葉は表に出されることなく掻き消える。 「……ね、柚子ちゃん、このあと俺の家おいでよ」 耳元に顔を寄せ、怪しく誘(いざな)えば、柚子はぼんやりとした様子で頷きを返した。手を伸ばしても伸ばしても届かなかった高嶺の花に手が届いた瞬間。そこに愛がないとわかっていても、及川は本当にうれしかったのだ。 やっと、やっと手に入れた! その日、柚子を連れ帰った自宅ではじめて彼女を抱いた。 性急に制服を乱し、顕になった白い素肌に触れて興奮する。最初こそ、幸せでいっぱいだった。だって、彼女のはじめての男になれたのだから。残念ながらファーストキスであったのかどうかはわからなかったが、処女を奪ったのは紛れもない自分だ。狭い秘所から流れ出る破瓜の鮮血がその証。 けれど、脱け殻になった彼女は抵抗ひとつせず、焦点の合わない瞳は硝子玉のように曇っていて、繋がっても満たされることはついぞなかった。 抱くたび、柚子は堕ちていく。艶めいた表情を浮かべ、及川を誘惑するように首に腕を回す。また別のときは背中に爪痕を残し、及川の要求にも従順に応じてくれた。柚子の、笑顔を代償にして。 肉体だけの関係を結んだ日から、彼女は笑わなくなった。否、及川の前でだけ偽りの笑顔を浮かべるようになってしまった。どれだけ願っても、それは取り戻すことが叶わない。 もう、あの日には戻れないのだと嫌でも悟った。 気軽に軽口を叩きあい、無邪気に戯れていた純粋で眩しい日常には、決して。 「──……それでも、離さないよ、絶対に」 ずっとずっと、俺だけのキミでいて。 眠る柚子にくちびるを寄せ、祈る気持ちで口付ける。熱の失せたくちびるは、わずかにひんやりとしていた。 「好きだよ……、柚子ちゃん」 これからも及川は嘘を重ね続けていく。 その胸に宿る、狂おしいほどの熱情を凶器に変え。柚子を抱くのは性欲を満たすためだと、自分の気紛れなのだと嘯(うそぶ)いて。諸刃の剣で自身の心にも深い傷を負わせることも覚悟の上で。 これから先、どれだけ真摯に愛を囁いても、柚子が及川の言葉を信じることなどないだろう。周囲に向けられたものとおなじ、口先だけの、薄っぺらな愛情でしかないのだと。 柚子が振り向いてくれることもない。どれだけ抱いても、その身を白濁で穢しても、彼女の心の中には常に岩泉がいる。 虚しい片想いの連鎖はどこまで続いていくのだろう。 関係の修復はもはや不可能だ、ならばとことん堕ちていけばいい。 ふたりいっしょなら。柚子が隣にいるのなら、いきつく先が地獄であっても後悔などしない。 どんな手を使ってでも、手に入れたいと願った、ただひとりの少女なのだから。 目の前の柔い肢体を抱き寄せ、頬をすり寄せる。彼女本来の甘い匂いが鼻腔を擽り、及川はうっとりと目を細めた。朝が来れば彼女はきっと、及川の行動に眉を寄せるに違いない。アンタはいったい何がしたいの、と。及川の本心を知らぬ柚子がその訳を理解することは永遠にない。 嘘を吐きすぎた狼少年は、最後、自分の育てていた大事な家畜を失った。 及川もいずれ、そうなるのだろうか。 ようやく訪れた睡魔に、ゆっくりと目を閉じる。 下ろした瞼の裏側では、昔日の、岩泉に恋する柚子のはにかむ笑顔が浮かんで、消えた。 純情アンチテーゼ Fin. 凾ソよこさまへ 報われない恋をする及川の話 |