柚子にとって、花巻貴大はとてもよく出来た、出来すぎた彼氏であった。
 優しくて、細々とした気遣いができて、ノリもいい。飄々としていて一見掴み所のないようにも思えるが、決して淡泊ではない。ちょっとした体調の変化にも気付いてくれるし、髪型を変えればさりげなく褒めてくれる。部活が忙しくてなかなかデート出来ずにいるお詫びだと、夜にはマメにメールをしてくれる。学校からの帰り道、手を繋ぐときも、必ず柚子に了承を取ってからだ。付き合って三ヶ月。一般的な恋人たちに比べて遥かに歩みが遅いというのに、文句ひとつ言うことなく、柚子のペースに合わせてくれていて、そのたび大切にされているのだと深く実感させてくれる。何をするにもスマートで、実に紳士的。
 これらのことから鑑みても、およそ不満点など見当たらない。そのはず、なのである。
 しかし、ここ数日、柚子は彼に対してもやもやしていた。
 きっかけはおそらく、先日見た光景と、その後彼と交わしたやりとりであろう。いつものように花巻に手を繋いでいいかと聞かれ、ドキドキしながら頷きを返し、見慣れた通学路をふたり並んで歩いていたときのことだった。
 大学生だろうか。年上と思しき、前を歩いていた信号待ちのカップルが、一瞬、掠めるようなキスをしたのだ。突然のラブシーンに動揺し、思わず繋いだ手に力を篭める。いわゆる路チューを生で、しかもそう離れていない場所から見てしまったのも原因のひとつではあったが、彼と未だキスをしたことのない柚子にとってそれは刺激的な光景以外の何物でもない。
 ああ、どうしよう。顔が熱くなっていないだろうか。偶然とはいえ人様のラブシーンを目撃してしまった居たたまれなさと気恥ずかしさで訳も分からず焦ってしまう。チラリと花巻の顔を見上げるも、おなじものを見たはずの彼に動揺した様子は欠片もない。これが、経験の差というものなのだろうか。
 少女マンガや恋愛ドラマのキスシーンでさえ照れてまともに見れやしない柚子には、ハードルがまだ高すぎる。彼氏彼女である限り、花巻とも近くキスをする日が訪れるのであろう。そのとき自分はどうなってしまうのだろう。真っ赤になってあわてふためく未来以外、想像がつかないのが現状である。
 信号が青になり、件のふたりが人波に呑まれて消えたあとも、柚子の脳裏には先ほどのワンシーンがこびりついていた。騒めく人々の声がどこか遠くに聞こえる。ドッドッドッ、早鐘を打つ心臓の音が煩い。きっとこの緊張は、手のひらを通して花巻にも伝わっているに違いない。
「佐原?」
「えっ、あっ、うあい!?」
「何どもってんの。……心配しなくても、取って食いはしないって……今すぐには」
 明らかに挙動不審な柚子を見て何か感付いたのか、花巻はくつくつと喉を鳴らして笑う。にんまりと弧を描くくちびるに自然と目をやってしまい、柚子はさらに顔を赤くした。そんな柚子を見て、花巻はすべて見透かしたように目を細める。
「佐原にはまだ早いでショ、キス」
「う……そ、そんなこと、は」
「へえ?なら、する?さっきのふたりみたいに」
「!?」
「冗談。いちいち赤くなんないでヨ。本気でしたくなるから。まあでも、……するならふたりっきりがいいかな」
 わずかに低められた甘いテノールが耳をくすぐる。不意討ちは反則だ。反射的に立ち止まり、熟れた林檎のようになった柚子に、腰を屈めた花巻はしたり顔でますます愉しそうに笑った。
 こんなふうにからかったり意地悪をしてくることは多々ある。からかい甲斐があると、以前言われたこともある。毎度おなじ手にしてやられる自分を単純だなとも思う。けれどもやっぱり、好きな人に言われることだから、何にでも反応してしまうし、たとえ深い意味がなくとも気にしてしまうものなのだ。今の一言も然り。
 花巻くんも、やっぱり、その。キス、したいって、思ってくれてるのかな。
 おずおずと花巻を見上げる。すると即座にかち合う視線に、またひとつ、鼓動が跳ね上がった。この感覚に慣れる日が、果たしてくるのだろうか。止めていた歩を再び進めながら、柚子は思う。
 付き合って三ヶ月。日にちにして約九十日。バレー部のオフ日である毎週月曜、可能なかぎり共に過ごしていることを思えば、とっくに行き着くところまで行っていてもおかしくない。むしろ、三ヶ月も付き合っていてキスすらしたことがない恋人同士のほうが昨今では珍しいだろう。せっかく良い雰囲気になっても、先へ進めないのは間違いなく自分のせいだ。
 今もそう。じっと見つめてくる視線に耐えられないでいる。感情を読み取りにくい花巻の目に熱が宿る瞬間、なぜか逃げたくなってしまうのだ。近づきたいのに、近付けない。好意を顕にされればされるほどどうしてよいかわからなくなって混乱してしまう自分が嫌になる。
 頬の火照りの冷めやらぬまま俯いたそのときだった。ふと、友人の言葉を思い出したのは。
 ──花巻って、意外に紳士だね。
 あれは、付き合いはじめてひと月が経った頃の話だったか。友人に花巻とどこまでいったのかと聞かれ、ありのままを話したところ、目を丸くして驚かれたのだ。あの花巻が、と。友人曰く、彼には及川と並んで手が早いイメージがあるらしい。
 そんなことないよ、とあわてて否定し、如何に花巻が優しいか、自分を気遣ってくれているか、キスはおろかハグすら躊躇う恋愛初心者に根気強く付き合ってくれているかを力説したところ、前述の言葉を言われたのだ。
 そのことを思い出したせいだろうか、妙に意識してしまう。だが、同時にひとつひっかかる点があった。
 花巻はそれとなくいい雰囲気に持っていくのが上手いが、それ以上のことはしないのだ。
 はっきり言ってしまえば、迫る素振りをしてみせるのに、手を出さない。
 なぜなのだろう。ふと会話が途切れ、どちらからともなく無言になる。前を見つめる花巻は何か考え込んでいるのか、柚子の視線に気付かない。
 今までは疑問に思わなかった。恋愛初心者である自分への気遣いであり、優しさだと信じていたから。ままごとのようだと笑われそうだが、こうして手を繋ぎ、他愛ない話をしているだけで柚子は満たされていたのだ。だが、それはあくまでも柚子視点での考え方である。花巻の考えは、きっと違う。
 手を出してこないのは、わたしに魅力がないからかもしれない。
 さあっと顔中から血の気が引いていく心地がした。さっき彼は、柚子にキスはまだ早いと言った。もしかしたら、それが答えなのではないだろうか。
 湧き上がった小さな疑問が波紋を呼び、胸に漣を立てる。杞憂であればよいが、周囲に比べて晩熟で、柚子自身、“オコサマ”である自覚があるだけにどうしても不安が残ってしまう。
 花巻にとって、自分はキスしたい、触れたいと思う対象になっているのだろうか。恋人同士であるからにはそうだと信じたい、が、わからない。自信が持てないから、怖い。
 赤くなったかと思えば今度は青くなり。突如落ち込みだした柚子を見て、花巻は不思議そうに首を傾げる。何でもないよと笑って誤魔化したが、勘のいい彼のことだ、嘘だと見抜いているだろう。それでも下手に追及されないのは正直、ありがたかった。
 だって、言えるワケがないではないか。どうして手を出してくれないの、だなんて。常にそんなことを考えていると思われたら恥ずかしいし、かといってまったく望んでいないかと言われれば、それも嘘になる。
 どうすればいい?こんなとき、他のみんなはどうやって気持ちを伝えているのだろう。
 この日。結局、花巻に問うことはできなかった。翌日も悩みが晴れることはなく悶々としてしまい、廊下で顔を合わせた彼にぎこちない態度を取ってしまった。いつものように接することができない。じわじわと頬に集まってくる熱。まともに話をすることすらままならなくなり、その翌日はあからさまに避けるようになってしまった。
 キス、してほしい。ぎゅって、抱きしめてほしい。欲だけが日増しに募っていく。行動と裏腹の感情。
 けれど、羞恥心が邪魔をして面と向かって言えるはずもなく。柚子は花巻から逃げ回る日々が続いていた。今日でもう三日目になる。
「……で。さっきも思わず目逸らしちゃった、と。何やってんのアンタ」
「うぐ……」
 ぐさり。呆れたと言わんばかりの友人の眼差しが胸に突き刺さる。談笑で賑わう昼休みの教室。眉を八の字に下げた柚子は机に突っ伏し、重たいため息を吐いた。
 自分でもわかってはいるのだ。避けたところで悩みが解決するわけでもない。事態が進展することもない。むしろ花巻に要らぬ心配をかけてしまっている。連日、休み時間や昼休みに教室まで会いに来てくれているのが何よりの証拠だ。そのたび用事を思い出しただのトイレだのと理由を付けては彼から逃げ、後で申し訳ないことをしたと落ち込む。悪循環にもほどがある。
「いくら不安に思ってたって、言わなきゃわかんないデショ。アンタの彼氏はエスパーじゃないんだから」
「わかってる……わかってるんだけど」
「ん?」
「か、顔合わせたらテンパって変なこと言っちゃいそうなんだもん……っ!」
 そう。一番恐れているのはここだった。緊張のあまり、何か余計なことを口走ってしまうのではないか、急に積極的になったことを変だと思われたらどうしよう、花巻に呆れられやしないか、はしたないと思われやしないか。
 ゆるく組んだ腕に顔を埋め、今の気持ちを素直に吐露すれば、友人はブリックパックのジュースを啜り、からからと笑った。
「いやー、はしたないって思うこたないんじゃない?」
「そう、かな」
「うん、アンタの目から見れば“紳士的で優しい花巻くん”かもしれないけど、アイツだってふつうの男子高校生なんだから、彼女からキスしてもらいたいって思われればうれしいモンなんじゃないの?アンタ、ただでさえ恥ずかしがり屋なんだから」
「そう、かなぁ」
「そうなの、」
 ね、花巻?
 ひどく愉しげな友人の声に、柚子はがばりと勢いよく上体を起こす。
 ちょっと待ってほしい。今、彼女は何と言った?花巻くん。自分の耳がおかしくなったのでなければ、彼の名前を──……。
 油の切れた機械のように、ぎぎぎ、と首を動かし、恐る恐る友人の視線の先を見ると、やはりそこには彼がいて。柚子は内心で悲鳴を上げた。何というタイミングで現れるのだろう。ニヤニヤしている友人と花巻に、顔から火が出そうな心地になった。
 バレている。おそらく、全部。柚子がなぜ花巻を避けていたのか、その理由も。
「ちょっとコイツ借りてくね」
「どうぞどうぞー」
「えっ、あ、ああああ、あの、」
「ダメ、今日は逃がさない」
 どうしようとひとりあわてている柚子に、トドメの一言が刺さり。さらには友人からも。
「ここらが潮時っしょ。覚悟決めて話しといで」
 と、にっこり素敵な笑顔で手を振られ。とうとう逃げ場を失った柚子は、花巻に手を引かれながら教室を後にするのだった。



 花巻貴大にとって佐原柚子は、はじめて付き合うタイプの人間だった。
 素直すぎて考えていることがすべて顔に出る、喜怒哀楽の豊かな少女。花巻の周囲には、親しい面子を筆頭に個性溢れる人間が多く存在しているが、これほどいい意味で単純でからかい甲斐のある子もいないだろう。岩泉や後輩の金田一も直情型でからかいやすい一面はあるが、彼女の反応はさらにその上をゆく。そんな彼女だからこそ、好意を抱かれていることに気付いたとき、悪い気はしなかった。
 じっと見つめればびくりと肩を震わせ、たちまち顔を赤くして俯く。本人なりに隠してはいるのだろうが、それにしたってわかりやすすぎる。
「なあ、岩泉。あの子の名前、何ていうの?」
「は?あの子?誰だよ」
「ほら、あそこのポニテの子と話してる黒髪の子」
「ああ、佐原か」
「ふうん」
「アイツがどうかしたのか?」
「いや、別に」
 名前を尋ねたのはただの気紛れに過ぎない。気になったから、それだけ。
 ふたりはこれまで一度もおなじクラスになったことがない。話したこともない。彼女が岩泉のいるクラスに在籍していなければ唯一の接点すら生まれなかった。縁と呼ぶにはあまりにもか細い、糸。
 だから、自分でもとても驚いている。まさか、興味が恋に進化するとは思ってもみなかった。目が合う回数が増えたことを、うれしく思うようになったのはいつからだっただろう。一方的に視線を送るだけでは目は合わない。自分も意識して見ているから起こり得る現象なのだと気付いたときにはもう、彼女を好きになっていたのかもしれない。
 見られていることを迷惑だとは思わなかった。目が合えば気恥ずかしそうにする彼女のことを、もっと知りたいと願うようになった。目的はいつしか、手段へと変じてゆく。もともとは岩泉へ腕相撲勝負を挑むために彼のクラスを訪れていたはずなのに。彼女に一目でも会いたくて。
 恋をしている。親しい友人たちには揃って笑われそうな、くすぐったくなる恋を。花巻は自分がそこそこ攻めに行く気質であることを自覚している。それだけに、横顔や後ろ姿を見つめているだけで幸せな気分になれるなど、口に出せるはずもなかった。
 言葉を直接交わす機会はやってこないまま、月日だけが過ぎていく。停滞する現状をもどかしく感じはじめていた、そんなときだった。彼女から、告白されたのは。
 花巻くんが、好きです。
 裏庭に手紙で呼び出されたときから期待はあった。薄紅色に染まった頬。いっぱいいっぱいといった様子で気持ちを打ち明けてくれた彼女の姿に、胸が歓喜で震える。かわいい。過去にもこうして、初な子から告白を受けたことがあったが、あのときのように冷静さを保っていられないのは、心を揺り動かされるのは、相手が好いた少女だからなのだろう。
 俺も好きだよ。そう返した自分の声には余裕がまるでなくて、後から思い出すたびに苦笑する。
 付き合うまで碌に話したことがなかったため、いつだって手探りで、互いを知るのにも時間を要したが、新しい一面を知るたび、花巻は一層彼女に傾倒していった。常に飄々としているため、傍目には好意がだだ漏れな彼女からの矢印が強いと思われがちだが、とんだ誤解である。
 付き合って三ヶ月。ふたりはまだ、キスをするまでに至っていない。手を繋ぐのがやっと。先日、放課後デートをしていたとき、かなりいい雰囲気にはなったものの、彼女が明らかに緊張していたのでそれより先に進めなかったのである。無理強いをするのはどちらのためにもならないし、もとより本意ではない。
 ふたりがまだ清い関係であることを知った及川に「あのマッキーが」と目を丸くされようとも、ニヤニヤする松川にてこずってんなぁと笑われようとも、何一つ問題はないのだ。
 顔を近付けただけで照れて恥じらう柚子を見るのが楽しくて仕方ない。すこし強引に迫ったときの、困惑に揺れる目にはそそられるし、薄く開かれたくちびるが視界に入ればキスしたくなる。ときどき本能に身を委ねたくなることもあるけれど、今はまだお預けでいい。焦ったところで決して上手くはいかないし、柚子の心の準備ができるまでは水面下で牙を研いでおくのも悪くはない。だから──。
 花巻は口角を釣り上げ、ニヤリと怪しく微笑む。
「別にいーんだよ。蕾が自然に花開くのを待つのもまた一興デショ」
「うわ、なんかエロい。その言い方エロいよマッキー!」
「及川うるさい」
 部活後の部室で、制服に着替えながら及川とそんなやりとりをしたのが、数日前。
 転機は、唐突に訪れた。
 柚子の様子がおかしい。何かを強烈に意識しているらしく、次第に花巻を避けるようになった。特に喧嘩をしたわけではない。避けられるような行動を取ったわけでもない。では、なぜ。
 心当たりに気付いた瞬間、花巻はゆるむ口元を抑えることができなかった。我ながら性格が悪いとは思う。けれど、触れたいと望んでいるのが自分ばかりではないのだと、彼女もそう思ってくれているのだと知った喜びのほうが勝ってしまうのだからしょうがないではないか。手を握るだけでどうにかなってしまいそうになっていた頃には考えられなかったことである。ようやく、ようやくここまでこぎつけられた。その充足感たるや半端ではない。
 脳裏に蘇るのは三日前に見たある光景。信号待ちをしていた際、前方にいたカップルが人目を憚らずにキスをしていたのだ。一瞬の出来事ではあったが、内心呆れていた花巻とは違い、柚子はひどく動揺していた。驚きのあまり、繋いでいた手にぎゅっと力を篭めてきた彼女が可愛くて、ついからかってしまったのは記憶に新しい。
 兆候が現れはじめたのは、その翌日。話をしていてもなぜか目が合わず、不自然に黙りこむ彼女に顔を寄せれば、みるみるうちに真っ赤になり、後退る。うっかり悪戯心に火が点いて、わざと吐息がかかるほど近くで話すようにした結果、次の日から見事に避けられてしまったというわけなのだが、花巻にしてみればこれも予想の範疇内だ。しかし、逃げ回る仔兎が可愛いとはいえ、逃げられっぱなしなのは性に合わない。微笑みの裏側で舌なめずりをする獣は、柚子が思っているような“紳士”ではないのだ。
 優しくするのは、特別だから。だがそれ以上に、下心がある。
 抱きしめたい。キスしたい。モザイクがかかるようなことだってしたい。けれど嫌われたくないから、我慢しているだけ。腹ならばとうの昔に空いている。追いかけっこはもうおしまい。
 昼休み。こっそりと彼女のクラスの扉を潜ると、彼女は机にうつ伏せになっていた。向かい合わせで座る彼女の友人にがたまたまこちらを振り返り、視線がかち合う。人差し指を口元に当て、内緒にしてよと目配せすれば、リップで潤ったくちびるがゆるりと弧を描く。あとは任せた、そんな無言のメッセージを送られた気がした。
 ふたりの方へゆっくりと近づく。柚子はまだ気付かない。本人がすでにここにいると知らず、友人に花巻のことを話し続けている。
 その内容は掻い摘むと、花巻とキスがしたい。それを言ったら変に思われないだろうか、はしたないと思われないだろうか。という、何とも微笑ましいもので。惚れた欲目も相まって、心臓をきゅっと鷲掴みにされた心地がした。
 拒むわけがないのに。むしろ、うれしくてたまらないのに。何度好きと伝えても、愛されている自信を持てないらしい彼女が愛しくて、おなじくらい悔しくて。思い知らせてやりたくなった。
 自分が、どれだけ柚子を好きなのか。わからないなら行動で示してやろう。
 ああ、もう、ダメだ。限界──……。
 花巻の切羽詰まった心の叫びが通じたのかは定かでない。
「ね、花巻?」
「──っ!?」
 ふるふると震え、必死に笑いを堪える友人がわざとらしく花巻の名を呼んだ。
 途端に弾かれたように上体を起こし、次いで今もっとも会いたくなかったであろう姿を視界に収めた柚子が目を大きく瞠り。あわあわしながら声にならない悲鳴をあげる。
「ちょっとコイツ借りてくね」
 今日は、逃がさない。逃がしてやらない。
 言うなり、手を引いて椅子から立ち上がらせる。
 このときばかりは、彼女を気遣う余裕もなかった。ぷつりと切れたのは、何の糸だったのだろう。理性か、あるいは我慢か。早く人気のないところに行きたい。ふたりっきりになりたい。頭の中を占めるのは、彼女に触れたい、その思い一色で。掴んだ彼女の手を半ばひっぱるようにして廊下を進んでいく。
 ほどなくして着いた階段の踊り場で、彼女を壁際に追いやり、逃がさないように壁に手をついた。もう一方の手で頬に触れ、腰を屈めて額を突き合わせれば、柚子は反射的に目を瞑る。
 まったくもって逆効果にしかならない反応に、くらり、眩暈がした。
「は、はな、花巻、くっ」
「……キスしていい?」
 熱で掠れた声が、互いの間で溶けていく。キスしたい。懇願するように囁くと、柚子が息を飲むのがわかった。
「俺、結構待ったほうだよ。佐原は手繋いだぐらいで幸せそうな顔するし、前にキスしようとしたらガッチガチに固まっちゃったから、ああまだおまえには早いのかな、って思ってたのに」
「そ、その節は、どうもスミマセン……」
 恐る恐る瞼を開けた柚子の蚊の鳴くような声に、ふっと吐息を漏らし。花巻は、眼前の恋人が惚れ惚れするような艶やかな笑みを浮かべてみせた。
「けど……、もう、遠慮しない」
 その言葉を最後に顔を傾け、目を伏せると。まだ何か言いたげなくちびるを、そっと塞ぐ。
 ただ、触れ合わせるだけの、拙いキス。それでもようやく触れられたくちびるは柔らかくて、甘くて。離れたあともじんとした痺れが残っていた。
 ──及川。あのとき俺は、花開くのを待つのも一興だって言ったけど、やっぱ訂正。
 自らの手で花開かせるのも悪くない。ここにはいない友人に向け、胸の内でひっそりと呟く。
「……ね、もっかいしてイイ?」
 剥がれていく仮面の裏側で、笑うのは、ケモノか紳士か。
 答えを知るのは、たったひとり。





Fin.
凵u√3」さまに提出させていただきました。