フンヌフーン。満天の星空の下、愉しげな鼻歌が響いている。そのうちスキップでもしだしそうな様子の及川を横目に、隣を並んで歩く岩泉は軽いため息を吐いた。
 白い吐息が冬の冷たい空気に溶けていく。一面の銀世界、サクサクと雪を踏みしめる音は、確かに今が冬であることを視覚と聴覚が伝えているのに、この幼なじみの内側では一足早く春が訪れているらしい。周囲に桃色の花が舞っている。
「……はあ、」
「なーに岩ちゃん、ため息なんか吐いて。そんな人生に疲れたみたいな顔してたら幸せが逃げちゃうよ〜?」
「テメーのせいだよこの野郎」
「アダッ!暴力反対!」
 ニヤニヤと笑う顔にイラッとし、反射的に脛に蹴りを食らわせてやるも、大した効果はない。一瞬痛がる素振りこそ見せるが、浮かれ切っている及川の頭の中はすでに来週の月曜のことでいっぱいなのだろう。まあ無理もないか、と岩泉は呆れとも苦笑ともつかない曖昧な顔で再度ため息を吐いた。
 このニヤケ面の男、及川徹に新しい彼女が出来たのはつい数時間前のことだ。
 高校に入ってから人気にますます拍車のかかった彼は、彼女がいなかった期間はほぼない。だがいずれも相手から告白され、そしてフラれるというパターンで、受動的な付き合いをしていた。そしてその中に本気で好きになった子は、おそらくひとりも存在していない。
 それもそのはず。及川には高校に入る少し前から好きな子がいるのである。想いの矢印の矛先が決まっているのに別の相手と付き合ったところで長続きするわけがない。
 しかし今回に限り、そのパターンには当てはまらなかった。なぜなら、その新しくできた“カノジョ”は、及川がずっと好きだった女の子なのだ。これまで受け身一辺倒だった男がはじめてアタックし、想いを成就させたとあらば、浮かれるのも無理はない。
 しかも片想いをはじめた当初、その子には彼氏がいた。つまり及川は、横恋慕をしていたことになる。彼氏の愚行で破局したのち、落ち込んでいた彼女を慰めたのも立ち直らせたのも自分であるのだから、念願叶って喜びもひとしおであろう。いつもの鬱陶しいくらいの賑やかさを潜め、ひたすら彼女のために尽くしていた及川の姿を脳裏に描けば、多少の惚気は我慢できる。たとえ今、そのデレデレとした顔に無性に腹立たしさを覚え、殴りたい気持ちになっていたとしてもだ。
「あ〜!早く月曜にならないかなぁ〜」
 はしゃぐ及川に適当な相槌を打ちつつ、通い慣れた家路を辿る。
 毎週月曜日は青葉城西バレーボール部のオフ日だ。どうやらその日にデートの約束をしたらしい。彼女とはじめての放課後デート。実に甘酸っぱい響きである。これまでの“カノジョたち”とも遊びに行っていたはずなのだが、相手が彼女であるというだけでこうまでテンションが変わるものなのか。
 とはいえ、彼女ともふたりきりで遊んだことがないわけではないので、今さらなんじゃないのかと指摘すれば。ただの“男友達”と“彼氏”では放課後デートの重みが違うと、興奮した表情で逆に力説される始末。
 彼氏持ちの女の子を好きになってしまったと、切なげに呟いていたときとは雲泥の差である。しかも、彼女に己の下心を悟らせないためだけにカノジョを作っては別れを定期的にくり返していたのだから、強かと言おうか策略家と言おうか。及川の都合で良いように振り回された少女たちも不憫でならない。
「浮かれすぎてバカやってフラれねーといーな」
「んなっ!?なんでそーいう意地悪言うかなあ!僻みですか!?」
 柚子ちゃんはそんな子じゃないもんだの何だのと騒ぐ及川をあしらいながら、岩泉は夜空を見上げる。
 濃紺のベルベットの絨毯に散らばる星々が、ふたりの恋を祝福するようにきらきらと煌めいていた。



 もう恋なんてしたくないと思っていた。
 誰かを好きになることで傷つくのが怖かった。
 高校一年の秋。柚子は中学三年の終わりから付き合っていた彼氏に裏切られた。二股をかけられていたのだ。ある日の放課後。職員室に日誌を出しに行った帰り、人気のない廊下の陰で他クラスの少女とキスしていたのを目撃してしまったのだ。その瞬間の衝撃は今も忘れられない。
 悲しくて、苦しくて、息が詰まるような心地だった。どうして。声にならない吐息が震える。目を見開いたまま立ち尽くす柚子に気付いた彼はあわててこちらに駆け寄ってくると、ちょっと魔が差しただけなんだ、好きなのはおまえだから信じてくれと白々しい言い訳をつらつらと並べ立てた。抱き合ってキスまでしておきながら、そんな弁明、到底信じられるはずもない。
 突然のことに頭の中が真っ白になって何も言えずにいると、そのうち少女と彼の間で口論がはじまった。
 わたしのこと好きって言ってくれたじゃない。あ、いや、だから、それは。あの子のこと、キスもセックスもさせてくれないつまんない女だって言ってたくせに!ちょ、落ち着けって。
 少女が苛立たしげに叫んだ言葉に、愕然とする。そんなふうに思われていたなんて。瞬時に目頭が熱くなり、ぼろりと、涙が零れた。
 確かに、恋人らしいスキンシップをふたりはあまりしてこなかった。柚子にとって彼ははじめての彼氏であったから、ふたりきりになったときも何をすればいいかわからなくて、いつだって緊張していた。
 手を繋ぐだけでも幸せで、そばにいると満たされた。だから、キスや、その先にあるものを特別強く意識したことがなくて。いい雰囲気になってキスされそうになったときも、近づく顔に驚いて、反射的に手で防いだりしたこともあった。
 正直なところ、そこまで頭が回らなかったのだ。性的な事情などなおさら。そういうことはまだ早いと思っていたし、余裕なんて欠片もなくて、いつだって精一杯だった。それがいけなかったのだろうか。
 “つまんない子”。彼からくだされた評価が柚子の胸を深々と抉る。恋心を養分にして育った満開の花が、みるみるうちに萎れて枯れていくのがわかった。
 これ以上、この場に留まるのはつらくて、彼と少女に背を向ける。一刻も早く教室に戻りたかった。修羅場の当事者になるだなんて夢にも思っていなかったから、どうすればよいのかわからない。鉛のように重たい頭は考えることを放棄していて、言葉をいくら探しても見つからない。帰りを待ってくれている友人に相談したかった。
 腕を掴む彼の手を振り払い、震える足で駆け出す。呼び止める声が後ろから飛んできたが、耳を塞いで聞かなかったことにした。瞼の裏にこびりついた光景が涙腺を刺激する。付き合いはじめてもうすぐ半年になろうかという矢先の事件。彼と別れたのは、それから間もなくだった。
 このことは、今もかさぶたになって柚子の胸に残っている。
 それでも乗り越えることができたのは、ひとえに『彼』がいてくれたおかげだ。
 別れ話が拗れて悩んでいたときも同性の友人以上に親身になって話を聞いてくれて、その上助言までしてくれたのだ。人の別れ話を、しかも彼氏の二股の話なんて聞いて楽しいものではないというのに。感謝してもし足りない。
 『彼』、及川徹とはじめて出会ったのは中学三年の冬。受験の日、英単語の暗記用に携帯していた単語帳を無くした彼の手助けをしたのがきっかけだった。
「ホントにありがとう!あーこれで岩ちゃんに殴られずに済む〜〜」
「見つかってよかったね」
「うん!はあ、俺もなんでこんな日にドジ踏んじゃうかなぁ……」
「ふふっ」
「っ、あ、あのさ、よかったら名前教えて?俺、及川徹」
 記憶の中の彼は、今よりほんのすこしだけあどけない。はにかむように笑う顔を可愛いと思った。
 次の春。入学式で彼を見つけたときはびっくりしたものだ。また会えたらいいねと言って別れたが、まさかそれが本当になるだなんて。蕾が綻びかけた桜の木の下で、真新しい制服に身を包んだ及川が「これって運命みたいだね」とくちびるの端をゆるく持ち上げてクスクスと笑う。綺麗な微笑みに、甘いセリフ。少女漫画の世界から抜け出てきた王子様のような言動に、思わず赤面してしまったほどだ。
 すべてのはじまりはこの瞬間から。
 一年時、おなじクラスになったことも相まって、ふたりが仲良くなるのにそう時間はかからなかった。
 及川は話し上手で聞き上手である。おまけに人の機微に敏感で、柚子の外見内面含め、ちょっとした変化にもすぐに気付いてくれる。話をしていてとても楽しいし、いっしょにいると落ち着く反面、さりげない女の子扱いにくすぐったくなることもしばしばあった。
 彼氏の二股が発覚した際、柚子はよほどひどい顔をしていたのだろう。部活のオフ日や休日、気晴らしにと、買い物に付き合ってくれたりいっしょに遊びに行ってくれたりもした。バレー部の練習はかなりきついと聞くし、疲れているだろうに。
 ただ、このとき。柚子はその気遣いがどんな思いからきているものなのか、まったく気付いていなかった。純粋に心配してくれているのだと思って感謝していたのだ。
 及川には彼女がいたから、というのが一番の理由だろう。長続きこそしないが、彼女のいない期間はなかったように思う。確信を持てないのは、及川があまり自身の恋愛について話したがらなかったからだ。
 秋を迎え、木々が赤と黄に燃ゆる頃。及川が柚子のことを「柚子ちゃん」と呼ぶようになり、ふたりの仲も深まっていったが、それはあくまで友人として。だからこそ、柚子も及川のことを恋愛対象として捉えていなかったのである。
 二年になり、クラスが離れてしまっても関係は変わらず続いていた。カノジョに悪いからと、ふたりで出かけるのを遠慮していた時期もあったが、及川が寂しげに「俺は柚子ちゃんと遊びに行きたいよ」などと言うものだから、結局はこちらが折れる羽目になった。意図的にやっているのはこれまでの付き合いからわかっていたが、柚子はその表情に弱いのだ。それも見越してやっているのだから、あざといというより他にない。
 一定に保たれていたバランスが崩れたのは、いつだったのだろうか。
 彼から与えられる優しさを友愛だと信じて疑わなかった。注がれる慈愛の眼差しを、周囲にも等しく与えられているものだと錯覚していた。なぜなら、彼には“カノジョ”がいたから。彼女といっしょにいるところを見たことがあったからだ。彼女がいるのに想いが別方向を向いている、その矛先がよもや自分だなんて、誰が思うだろう。
 先入観とは恐ろしいもので。すこしのズレや歪みがあろうと、頭の中で無意識に修正してしまう。柚子が及川のカノジョだと誤解されたときも、彼は珈琲色の双眸を細めて「おもしろいし、誤解させたままでいーじゃん」と愉快そうに笑っていたから、そこに意図があっただなんて考えもしていなかった。
 彼氏と別れたあの日から、“もう恋なんてしない”と頑なになっていたのも一因かもしれない。
 冷静になって考えれば、カノジョ持ちの男が別の女とふたりきりで出かけたり、カノジョを放って別の女ばかりにかまけている図は“ふつうでない”とわかったはずなのに。言い換えれば、違和感を感じないほど、及川が柚子の近くにいたとも言えた。
「ありがと柚子ちゃん、好きだよ」
 さらにコレである。
 及川はよく好きだと口にした。それこそ、挨拶のような気軽さで。
「柚子ちゃん、大好きっ!」
 たとえば、教科書を貸してあげたとき。お腹が空いたと呻く彼に、飴や菓子パンをあげたとき。他愛ない我が儘を聞いてあげたとき。岩泉にぞんざいな扱いを受けたと泣き真似をする彼の頭を撫でてあげたとき。柚子の手作り弁当が食べたいという及川のリクエストに応えてあげたとき。これまでに何度その言葉を耳にしただろうか。
 最初こそ聞き慣れない単語に照れたものだが、慣れるにつれ日常の一部と化していった。あまりにもさらりと何の気なしに口にするものだから、女子が友人間で使うのとおなじ感覚なのだろうと、勝手に解釈していたのだ。
 瞳の奥に隠された熱には気付くことなく。
 だから。ある日の放課後。謎かけのような告白をされたときも、本気かどうかわからなかった。
 ──二年の初秋。ようやくうだるような暑さが引いてきた、半袖の夏服が心地いいと感じる、九月下旬のことだった。
「……ね、柚子ちゃん。俺はさ、なんで柚子ちゃんのそばにいると思う?」
 ざわざわと賑やかな声が飛びかうファーストフード店。二階の窓際席に座り、各々注文した品を摘みながら、及川の先日カノジョにフラれた話を聞いていたときのことだ。
 ふと真面目な表情になった彼はテーブルの上でゆるく腕を組み、おもむろに口を開くと、柚子にそう問いかけてきた。
「え?うーん……、改まって聞かれると反応に困るんだけど、と、トモダチ、だから?」
「ああ…、うん、『トモダチ』ね、トモダチ。やっぱりそうきちゃうか」
「う、うん……?」
 真意の読めない笑顔に、柚子の頭上で疑問符がぐるぐると回る。答えづらい質問だな、と率直に感じた。
 なぜ、そばにいるのか。聞きようによっては意味深長にも捉えられる言葉に、戸惑いは募るばかりだ。
「なんで急にこんなこと聞くのか気になる?」
「そりゃ、そうだよ……」
 もしかして、自分の知らないうちに何か気に障ることをしでかしてしまったのだろうか。私がそれに気付かないから、怒ってるのかもしれない。
 沸き上がる不安から、返答が尻窄みになる。
 真っ直ぐに見つめてくる目が怖い。彼に怯える理由など、どこにもないはずなのに。瞬きさえも躊躇われる緊張感に、心拍数が上がっていくのがわかった。
 目を逸らしてしまいたい、でも、逸らせない。何か強い力に惹き付けられたかのようだ。
「ふぅん、そっかぁ。なら、まだ望みはあるのかな」
 そんな柚子の沈みかけた気持ちを拾い上げた及川がふわりと笑う。花が綻ぶような、柔らかな微笑み。
 珍しい表情を向けられ、柚子は一瞬息をするのを忘れた。及川は大抵笑顔を浮かべているが、ふだん目にするものとは種類が違う。今度は別の意味でドキドキしてしまい、顔が熱くなるのがわかった。
 ──なんだろう。いつもの及川くんじゃないみたい。
 ふたりを取り巻く妙な雰囲気に居たたまれなくなり、視線を右往左往させたのち、残りわずかになっていたポテトに手を伸ばす。だが、それに指先が届くことはなかった。その前に伸ばされた大きな掌が、柚子の手をすっぽりと覆ってしまったからだ。
 重なる手と手。はじめて触れた及川の手はどこかひんやりとしていた。直接伝わってくる他人の体温に、どきり、と思わず胸が高鳴る。こんなふうに触れられたことは今までにない。反射的に肩を竦め、身を硬くすると。及川は一瞬驚いたように目を丸くし、またふにゃりと幸せそうに笑った。
「柚子ちゃん、顔真っ赤」
「!!」
「可愛い」
 だめ押しするように囁かれた言葉の甘さに、柚子はからかわれたことも忘れ、口を金魚のようにパクパクさせる。さしずめ、渇いた喉に大量のメープルシロップを流し込まれた感覚だ。照れくさいを通り越して、恥ずかしい。
「ねえ、そうやって真っ赤になるってことはさ、俺のこと、意識してくれてるって思っていいのかな」
 何より、そんな顔でそんなセリフを言われたら、勘違いしてしまう。
 及川が、自分のことを好きなのではないかと。
 戯れの延長線なんだからと戒める心と裏腹にどんどん速くなっていく心音が恨めしい。どうしてだろう。いつもなら聞き流せる言葉を聞き流せない。重なる手に力が篭もり、ぎゅっと握られる。
「勘違い、していいよ。ていうか、してよ。じゃないと俺、いつまでも動けないから」
 ああ、そんなセリフ、反則だ。及川が、掴んだ柚子の手を互いの顔の間まで持ち上げ、もう一方の手で挟んでくる。
 どこかで、恋に落ちる音が、聞こえた。



「約束、するよ」
 夢の中で、及川は誰かと向き合い、喋っている。
「絶対に………………って誓う。だから、………………ほしい」
 大切な、とても大切な誓いだ。真摯に紡ぐその声は、優しく、甘く。相手へ抱く感情が最大限に詰め込まれている。
「もし、その約束を守れたら──……」
 途切れ途切れの会話。ノイズのようなものが混じり、広がる風景はただひたすらに闇を湛えている。相手の姿も見えない。
 しかし及川には確信があった。会話の相手は“あの子”であると。その内容が何であるのかも。
「    」
 最後に告げた言葉は、及川が常日頃から口にしているもので、同時に、これまでに築いてきた関係と、わざと越えないようにしていた境界線を壊すものであった。

「……この夢、ひさしぶりに見たなぁ」
 いつものようにアラームで目が覚めた及川は自室の天井を見つめ、暫し夢の余韻に浸っていた。
 “あの子”にはじめて告白した日の記憶だ。
 ファーストフード店を出たあと、ぎこちない態度を取る彼女に微笑とも苦笑ともつかない笑みを浮かべた及川は、さりげなく彼女の空いた手を握り。彼女が乗るバスの停留所近くまで歩くと、自分が本気であることを告げ、別れた。
 はっきりと気持ちを伝えたのは、それから一週間後。なぜ日にちを空けたかというと、理由はふたつある。
 ひとつは、突然のことに混乱する彼女への配慮。
 ふたつめは、明確に言葉にしないことで悩ませ、彼女の頭を自分でいっぱいにさせたかった。たとえ短い時間だったとしても、及川のことを考えてくれている間は、彼女を独占できているような気がしたから。つまりは、打算である。
 結果として、その思惑は成功した。昼休み、空き教室に呼び出した際、彼女は落ち着かない様子で指先をいじっていたからだ。及川のことを意識しているのはあからさまで、望んだこととはいえ、歓喜で胸がくすぐったくなる。
「呼び出してごめんね。用事とかなかった?」
「う、ううん、大丈夫」
 ちらちらとこちらに視線を寄越しては、耐えられないとばかりに逸らす彼女への恋しさを募らせつつ、及川は停滞する現状を打破するために口火を切った。
「あのね、こないだの続きなんだけど、」
 柚子ちゃん、好きだよ。
 俺と、付き合ってほしいんだ。
 声色から、いつもの軽いものではないと気付いたらしい彼女が、頬を薔薇色に染める。
 だが実はこのとき、及川は一度フラれていた。
「っ……ご、ごめんなさい、気持ちはすごく、すごくうれしいんだけど、わたしっ、」
 誰かを好きになるのがこわいの。
 ハッと我に返ったようにくしゃりと顔を歪め、震える声で胸の内を明かす柚子を前に、及川の心は凪いでいた。
 彼女の傷はいまだ癒えていない。そのことを知っていたからだ。別れ話で揉めていたとき、元彼に無理矢理キスをされたと泣いていた彼女を思い出す。いつだったか、頭ではわかっていても心がついていかないのだとも言っていた。
 ──キス、したり、セックスしないと、その人のことを“好き”だってことにならないの?
 だから、及川は待ったのだ。晩熟な彼女のことが、それでも愛おしかったから。
「俺のこと、友達としてしか見れない?今、俺といて全然ドキドキしない?」
 腰を屈め、俯く彼女の顔を下から覗き込む。ずるい聞き方なのはわかっていた。素直な彼女を見ていれば、自分が異性として意識されはじめていることは容易にわかる。そして、その感情を自ら手放そうとしていることも。
 すこしの間を置いて、ゆっくりと振られた首に心底安堵する。
「そっか……うん、よかった。男として見られてないワケじゃないんだね」
 同時に、決意をした。柚子のことが本気で好きなら、ここで諦めてはいけないと。
 あの受験の日。誰もが自分のことで必死な日であるにもかかわらず、うっかりミスで単語帳を無くしてしまった他人のために時間を割き、見つかってよかったと本心からの笑顔を見せてくれた彼女に恋をした日から、及川の心はたったひとりに占められている。
「約束、するよ」
 顔を上げた彼女の目をまっすぐに見つめた。
「及川くん……?」
「絶対に君の嫌がることはしないって誓う。だから、そばにいさせてほしい」
 もっといっしょにいたい。もっともっと近づきたい。きみが、すき。だいすきなんだ。
 一年半分の想いを、ひとつひとつ言葉にしていく。
「ずっと、好きだったんだ」
 彼氏がいると知っても諦められなかった。去年おなじクラスになって、言葉を交わして。彼女のことをますます好きになった。告白しようか迷っていたとき、“ちょうど”ふたりは別れ話をしていて、正直チャンスだと思った。けれど時機がくるまでこの気持ちは知られてはいけない。男への恐怖心を払拭できない間は、友達として接しようと努めていた。彼女が傷つくことに比べれば、恋心を押さえ込むことなど造作もない。誤解した女の子が彼女に要らぬ手出しをしないよう、予防線を張ってカノジョも作った。
 全部全部、柚子のため。
 ポロポロと頬を流れる涙を拭ってあげたい気持ちをぐっと堪え、微笑む。
「俺、待つよ。柚子ちゃんが振り向いてくれるまで。あ、もちろんアタックはするけどね?」
 あえて茶化すような口調にするのも、彼女に負担をかけさせないためだ。
 俺って思ったより好きな子に尽くすタイプだったんだなぁ。内心でそんなことを考えていると、涙を手の甲で拭った彼女がおずおずと口を開く。
「時間、かかるかもしれないよ……?」
「うん、それでもいい。一年待ったんだもん、まだまだ待てるよ」
「及川くん……」
「もし、その約束を守れたら──……」
 柚子ちゃんの、彼氏にしてください。
 その言葉に、いったんは泣き止んだはずの彼女がまた大粒の涙を零す。綺麗だと、及川は純粋に思った。透明で、混じり気がないからこそ、余計に強く惹かれてしまう。自身の性格の悪さを自覚しているからこそ、自分にないものがとても眩しく思えて、求めてしまうのだ。
 内側で、貪欲なケモノが、牙を剥く。
「好きだよ」
 だから、お願い、早く振り向いて。俺のものになってよ。
 耳元で囁き、びくりと肩を震わせて目を閉じた彼女の濡れた眦(まなじり)に指を這わせる。突き合わせた額がくっつきそうな距離。こんなにも間近で彼女に触れるのははじめてで、らしくもなく緊張した。柚子は拒まない。これだけ近づいても不快だと思われないくらい、彼女の心の領域に足を踏み入れているのだと思えば、気分はさらに上昇していく。
 ああ、男の前で無防備に目なんか閉じちゃダメだよ、とか。言いたいことはたくさんあって。抱き締めたいとか、キスしたいという欲望もしっかりと存在しているのに。彼女に対してはどこまでも弱い。舌なめずりをするケモノに待ったをかけ、ギリギリまで紳士でいようとしてしまう。及川は翳りを帯びた双眸をうっとりと細め、ひとりごちる。
 もうすぐだ。あとすこしで、自分の望むものが手に入る。
 脳裏を過る、ふたつの影。もし、彼女が『このこと』を知ってしまったなら、幻滅するだろうか。ひどいと詰るだろうか。自分から離れていってしまうのだろうか。その未来を思い描き、すぐさま否定する。──そんなことは、させない、絶対に。
 及川の想いが実ったのは、季節がひとつ巡った後。身を切るような寒さが銀世界を包む、真冬の最中。バレンタインデーを目前に控えた一月の下旬だった。
 昼休みにメールで呼び出され、向かった先は、先日彼女に告白した場所。そこで何を話すのかなんて決まっている。九割の期待と、一割の恐怖で心臓が騒ぐ。相対する彼女は緊張からか、表情が硬い。くちびるから言葉が零れ落ちるまでの時間は驚くほど長く感じた。
「及川くんが好き、です」
「柚子ちゃん……」
「まだ、あの約束、有効かな……?」
 不安で揺らめく目に、思わず意地悪してやりたい気持ちが芽生える。
 馬鹿だなぁ。この四ヶ月、俺が何回好きって言ったと思ってるの。
 本気だとわかってもらうために、彼女の前でスマートフォンの電話帳に登録された彼女以外の女の子のメールアドレスと電話番号はすべて消したし、勿論他の子からの告白だって断り続けた。誘惑の魔手も少なからずあったが、全部払い除けた。以前とは違うやり方で、彼女だけが特別なのだと及川なりに伝えてきたつもりだ。今さらこの想いが揺らぐことはない。
 ふっと息を吐き出し、及川は笑う。幸せだ。すごく、ものすごく。幸せすぎてどうにかなってしまいそう。押し込めてきたものが、堰を切ったように溢れていく。鎮めた炎が瞬く間に燃え盛る。
「うん、待ってた、そう言ってもらえるの」
 ゆっくりと、互いの距離を縮めた。身長差から自ずと見上げる形になった彼女の大粒の瞳に、恍惚とした表情の及川が映っている。焦がれて、欲して、ようやく手に入れた想い人。夢でないことを確かめたくて、腕を伸ばした。
「抱きしめても、イイ?」
「うん、」
 華奢な身体を閉じ込め、花の香りがするやわらかな髪に鼻先を埋める。感極まって思わずそのままキスしてしまいそうになるのを寸でのところで堪えた。最後にしたキスがトラウマとなっている彼女に、当時の記憶を思い出させたくはなかったから。
「柚子ちゃん、あったかい」
「及川くんはちょっとひんやりしてるね」
「そりゃね、緊張してますカラ」
「わたしだって緊張してます」
 重なる鼓動はどちらとも早鐘を打っている。胸のあたりから聞こえてくる、ほんのすこしだけくぐもった声を聞きながら、及川は目を閉じた。
「ね、もう一回、好きって言って」
「……すき、だよ」
「うん、俺も。だあいすき」
 帰りに岩ちゃんに盛大に自慢してやろう。惚気るなと怒られるだろうが、ぶっきらぼうでいて優しい幼なじみは、きっと祝福してくれるに違いない。今日の練習はいつも以上に集中できて、トスやサーブの精度もさらに上がりそうだ。
 及川は、これから訪れるであろう幸福の日々に想いを馳せ、ふんわりと甘く微笑んだ。





 ねえ、柚子ちゃん。あの日約束したこと、覚えてる?
 微睡みから覚めた及川の口元がゆるりと弧を描く。
 君の嫌がることは絶対にしないって約束したよね。
 及川には秘密がある。幼なじみの岩泉にも、恋人の柚子にも言っていない、秘密が。罪と言い換えてもいいかもしれない。
 及川は知っていた。彼女の元彼が二股をかけていることを。彼女が知るよりもずっと前から。なぜなら──……元彼に、少女を近付けさせたのは。少女を誘導し、元彼を誘惑するように仕向けたのは。他でもない、及川自身だったのだ。
 自分が柚子に横恋慕していたように、少女もあの男に横恋慕をしていた。
 本来なら、報われるはずのなかった片想い。花を咲かせることなく散りゆく徒花。
 けれど、彼女への想いを募らせるうちに、及川は願ってしまった。早く別れてしまえ、と。どんなことをしてでも、彼女が欲しかった。狂おしいくらいの恋をしていた。彼女と『アイツ』がいっしょにいるところを見るたび、内心で激しく嫉妬した。所詮、自分は『仲のいいクラスメイト』でしかないのだと、現実を突き付けられているかのようで。渇望してやまない彼氏の立ち位置にいるその男が、どうしようもなく妬ましかった。
 耳元で悪魔が囁きかける。ならば別れる原因を作ってしまえばよいではないか、と。少女と『アイツ』がくっついてくれれば、及川にもチャンスが巡ってくる。これを逃す手はない。たとえ、そうすることで愛しい想い人を泣かせることになったとしても。
 水面下での暗躍は、及川にとって最高の結末をもたらした。
 直接何かをしたわけではない。ひどいことを言ったりしたわけでもない。ただ、種を蒔いただけ。ささやかな悪意の芽は、遅効性の毒のようにゆるやかに成長し、やがて全身に広がっていく。『アイツ』はあっさりと罠にかかり、彼女の信用を失った。沈む彼女の心の隙間に、容易く潜り込むことができた。そうしてすこしずつ、すこしずつ。葉から滑り落ちた白露が土にじんわりと染み込んでいくように、彼女の信用と信頼を勝ち取って。最後に、振り向いてもらうことができたのだ。
 これ以上の幸せがあるだろうか。
 及川の、及川による、及川のための物語。そこに邪魔者はいらない。登場人物は、ふたりだけでいい。及川と、彼女、柚子がいれば、それだけで。
 おととしの春。胸についた蕾が花開くことはなかった。
 去年の春。彼女が他の男の目に留まらぬように牽制しながら、着々と蕾に養分を与えていった。
 そして、今年の春。胸には満開の花が咲いている。彼女をようやく捕まえた。遅咲きの桜が散った頃、及川の家でふたりははじめてキスをして。夏に迎えた誕生日、はじめて彼女と肌を重ねた。
 ハッピーエンドのそのあとも、溺れるほどの幸せが続いている。だから。
 真実は、闇の中へと葬り去る。黒いモノは腹の内にひた隠す。
 ずるい自分を好きだと言ってくれる彼女を手放さないために。交わした約束を、本物にするために。
 柚子ちゃん。柚子ちゃんは今、幸せ?俺はね、すっごく、しあわせ、だよ。
 今日も早く、君に会いたい。
 布団から上体を起こし、伸びをする及川の口元には、蠱惑的で怪しい三日月が浮かんでいた。

Fin.
凵u馬鹿だね、」さまに提出させていただきました。
title:夜途