中途半端に腰をひねった状態で顎を掴まれ、ぐいっと力任せに上向かせられる。
「痛っ!」
 そして、間髪入れずに及川のくちびるで勢いよく塞がれた。驚く暇もないまま、今度は舌まで入れられ、全身から力が抜けていく。
 上顎を舐められ、自分のそれと絡められ、吸われ。背筋を駆け上るぞわぞわとした感覚に翻弄され、すっかり息の上がった頃にはすでに、畳の上に押し倒されていた。
 艶やかな輪の光る濡れ羽色の髪を散らし、浅い呼吸をくり返している柚子に覆いかぶさる及川の表情は暗がりで翳っていて、よくわからない。
 重い沈黙を裂くように、しとしとと降り出してくる雨。それは一分と経たない間に本降りになり、やがて窓枠を激しく叩く大雨となっていった。ざあざあと降りしきる雨音のノイズに紛れ、ごろごろと、遠くで雷が唸っている。
 今この瞬間、及川は何を思い、何を考えているのだろう。無理矢理キスをして、押し倒して、大人の真似事でもしようというのか。先行きが見えないことが、より一層の緊張を煽る。記憶を遡ってみても、掘り返されるのは未知の領域ともいうべき行為に対する恐怖心ばかり。戦慄くくちびるで名前を呼んでも返事は返らず、無言でじっと見つめられるだけ。
 もしかしたら、徹はわたしの気持ちに気付いているのかもしれない。だから本気で抵抗されないと、押し進めれば流されてくれると踏んでこうしているのでは。混乱する頭ではマーブル模様を描く思考をうまく纏められず、柚子は先ほどのキスで乱された呼吸を整えながら見上げることしかできずにいる。
「おまえまで離れてくの」
「……え?」
「なんで、バレーも、柚子も、」
 手に入らないの。譫言のように呟く及川の目には、何が映っているのだろうか。暗澹(あんたん)とした瞳に広がる深い闇色に、形容しがたい不安に襲われた。
「なんで!アイツらばっかりっ!欲しいものを手に入れられるんだ……!俺は、俺も、俺だって、」
 いくつもの色が混ざりあった遣り場のない感情が、ぽろり、ぽろり。ひとつ、またひとつと口から零れ落ちていく。胸を締めつけるような悲痛な叫びに、組み敷かれた体勢や緊迫した状況を忘れそうになったのも束の間。
「んん……っ」
 再び口を塞がれた。人生で三度目の、キス。それはただただ息苦しくて、荒々しくて。またもや強引に重ねられたくちびるから、及川の内包する激情が伝わってくるかのようだった。
 片手で顔を固定されているため、首をよじることもできず、されるがまま。やめて、徹。やだよ、こわいよ。言葉にならない母音が生まれては消え。ぬるりと差し込まれた熱い舌に口内の至るところを嬲られ、次第に頭がぼうっとしてくる。強い力で押さえつけられている手首がズキズキと痛んだ。
「……柚子、」
 細い銀の糸を引きながら、くちびるが離れていく。
 掠れた声で名前を呼んだ及川は、はじめて見る表情をしていた。熱を孕んだ目。見下ろしてくる彼は、切羽詰まった雰囲気を醸し出しているのに、おなじくらい艶めいていて。ぞくりと背筋が震える。
 こわい。こんな及川、知らない。
 制服の襟元に顔を埋められ、鎖骨を舐められる。いやだ。いやだ、いやだいやだいやだいやだ。硬直し小刻みに震える身体は恐怖しか感じない。顔を固定していた手が下方に滑り、スカートを捲り上げて下着にかかった瞬間、柚子の涙腺は崩壊した。
「っく……ふ、ううぅ」
 ぼろぼろと涙が堰を切って溢れ出てくる。
「………っ!!」
「やぁ、もう、やだぁ……っ」
 もう何も考えられなくなった。涙の膜の向こう側で、びくんと大きく肩を揺らした及川が我に返る。目を大きく見開くと、幼い子供みたいに泣きじゃくる柚子を見て、くしゃりと泣きそうに顔を歪めた。
「……っごめん、ごめん、ごめんね柚子……俺、おれ、ちがうんだ、おれは」
「ううぅ〜〜……」
 ぽたりと、頬に熱い雫が落ちてくる。瞼をゆっくりと開き、視線で元を辿っていくと、揺らめく視界の中心で及川が声を殺して泣いていた。
 ねえ、徹。わたし、もうわからないよ。徹はいつだって肝心なことを言ってくれないから。何でもひとりで片付けちゃおうとするから。こんなに近くにいるのに、遠い。何がしたいの。わたしに、何をしてほしかったの。
 降り注ぐ涙の雨が自分のものと混ざり、頬を伝い落ちていく。
 暗い室内で明滅する閃光。浮かぶふたつのシルエット。どしゃ降りの雨の中、閉じた空間に響くふたり分の泣き声。
 ごめん。ごめんね。途切れ途切れに紡がれたテノールが、壊れたオルゴールのように寂しく独唱をしていた。



 昔の夢を見た。
 身近な人間にすら「最近アイツのこと話さないな、喧嘩でもしたのか?」、その程度に思われていた、気まずい時期。
 及川がうっすらと瞼を押し上げると、目の前にあるのは、ずっとずっと焦がれ続けてきた彼女の顔。夜が明けたばかりなのか、あたりはまだ薄い群青色を湛えている。こちらに向かい合う体勢ですうすうと可愛らしい寝息を立てる姿は、先ほど見た夢の中で慟哭を上げるものとは打って変わってとても安らかだ。
 さらさらとした絹糸のような黒髪を指に巻きつけて遊びながら、及川はわずかに目を伏せ、当時に思いを馳せる。

 二度目の過ちは、張り裂けそうな己の胸に、絶望という名のスパイスを大量に振りかけていった。
 目の前が真っ暗になっていた中学三年の春。走っても走っても見つからない出口に焦りは募って。今にして思えば、彼女に依存していたのかもしれない。
 心身ともにボロボロになりかけていた及川に残された最後の砦。これは、そんな心の拠り所を一時(いっとき)完全に失ってしまった、冬籠もりの記憶だ。

 とうとう取り返しのつかないことをしてしまった。己の下でひっくひっくとしゃくり上げて泣き続ける柚子を見下ろしながら、及川はぐっとくちびるを噛みしめた。
 言い訳をするつもりはない。そんなもの、できるはずがない。
 連日の猛練習が祟っていた。朝から体調が優れなかった。疲労が残っているせいか、妙に身体が怠かった。頭の回転が鈍かった。肉体が不調をきたしていることで精神にも負担がかかり、嫌なことばかり考えてしまっていた。日に日に距離を縮めてくる天才の存在が憎らしくて、恐ろしくて、何かに追い立てられているかのようだった。
 どうかしていた。一日中、つらくて、苦しかった。ふいに彼女の顔が思い浮かんだ。そばにいてほしかった。その願望が形になったのか、彼女が目の前に現れた。自分は部活が休みで、彼女も下校をするところだった。様子のおかしい自分を心配してくれるその優しさに付け込んで、自宅に誘った。帰り道、手を繋いだ。ひさしぶりに繋いだ彼女の手はちいさくて、暖かくて、やわらかかった。もっともっと、触れたくなった。触れれば、身のうちをぐるぐると回る、この暗く澱んだ不快なものも消えてなくなると思った。
 自室に入ってすぐ、後ろから抱き締めた。いい匂いがして、誘われた。身体が勝手に動いた。キスをした。舌を入れた。気持ち良かった。そうして気付けば、押し倒していた。不安げに見上げてくる彼女に、ひどく興奮した。揺れる眼差しに欲情した。
 原因となったものはいくつもある。しかしどれだけ並べ立てたところで、やはり言い訳にしかならない。
 恐がらせて、傷つけて、泣かせてしまった。その事実に変わりはなくて。一年前のことが自然と思い出される。
 ──俺は何も変わってない。
 馬鹿の一つ覚えのように、ごめんねしか言えない。
 猛省して、二度とこんなことはしないと心に誓って。近づきすぎればまたいつキスしてしまうか、想いを暴走させてしまうかわからないからと、自分を戒めて。失った信頼を回復させることだけに心血を注いできたのに。
 結局、誓いはあっさりと破られた。傷口に塩を塗りこんだばかりか、理性の箍まで外して、襲いかけてしまって。挙げ句、泣いて許しを乞おうとした。
 最低な話だが、あの瞬間、卑しい心が確かにあったのだ。弱い自分を見せれば慰めてくれるかもしれない。同情だって構わない。それで彼女が手に入るなら、間違ったはじまり方でも。そんな、打算が。
 あの日から二年。彼女を想わない日はない。会話をすることすら許されなくなった彼女に、心の中で何度も謝った。
 降りしきる雨は止まない。胸を覆い尽くす雨雲も晴れることはない。
 晴れ晴れとした気分になれるのは、唯一バレーをしているときだけだった。ボールに触れているときだけ、雲は霞のように掻き消えてなくなる。
 すべては岩泉が目を覚ましてくれたおかげだ。凝り固まった考えを、彼が解してくれたから、間違いを正してくれたから、及川は吹っ切ることができたのである。すぐに悪態を吐いてくるし、ボールも容赦なくぶつけてくるけれど、岩泉が幼なじみでよかったと今もこれから先も、きっとずっと心から言える。
 そんなふうに、彼女との関係も、修復できたら。何度願っただろう。もう一度、笑いあいたい。そばにいてほしい。どうしたって、好きの気持ちが消えない。捨てられない。
 だけど、あの日の恐怖を思い出すたび身体が竦んでしまう。何を言えば傷つけずに済むのか、どうすれば彼女を傷つけずに済むのかわからなくて。不安に怯える恋心は、月も星も見えない暗夜を、今も小舟で彷徨い続けている。
 ──中学三年、夏。
 激しい罪悪感から、彼女を遠くで見つめているしかなかった。
 ──中学三年、冬。
 はじめて、彼女からバレンタインのチョコレートを貰えなかった。改めて、自分の罪の大きさを自覚する。数多のどうでもいいチョコレートを一口齧った。苦すぎて、食べられない。
 ──高校一年、春。
 共に青葉城西に進学して喜ぶも束の間、話しかけられない、廊下ですれ違っても目すら合わせてもらえないことに打ち拉がれる日々。
 ──高校一年、夏。
 彼女にはじめての彼氏ができて泣きたくなった。自分とは正反対の、どちらかといえば岩泉に近いだろう、男らしい性格。いよいよこの恋にも幕引きのときがきたのかと覚悟せざるを得なかった。
 ──高校一年、秋。
 彼女を忘れなければ、そんな強迫観念に駆られて、ちょうど告白してきた同級生の女子と付き合ってみることにした。彼女にそうしてやれなかった分、優しくした。彼氏らしくリードをして、甘やかした。けれど何をするにも、やっぱり彼女を重ねてしまう。彼女でなければ意味がない。代理品扱いしてしまったことを内心で詫びつつ、ひと月で別れた。キスはおろか、抱きしめることさえしなかった。おなじころ、彼女も彼氏と別れたと小耳に挟んだ。よかったと、心底安堵し歓喜する自分に吐き気がした。
 ──高校一年、冬。
 中学時代より、貰うチョコレートの数が増えた。まわりは口々に羨ましいと言って笑う。じゃあ何個かあげようか。くれた子に失礼なことを口走ってしまいそうになり、苦笑いで誤魔化す。チョコレート、なんて。数があればいいというものではない。たったひとつであっても、本命の子に、好きな女の子に貰えたならそれで充分なのに。
 失ってはじめて気付くとはよく言ったもので。季節がひとつ巡るたび、及川はいかに自分が柚子に深く囚われているのかをまざまざと思い知らされた。
 弾みでキスをして、ぎこちない関係になっていたときとは比べものにならないくらいの鋭い痛みに、何度耐えてきただろうか。
 岩泉が時折、何か言いたげな視線を寄越してくることがあったが、無理に聞き出そうとしないあたりがどこまでも優しい。優しいからこそ、甘えてしまいそうになった。
 本当は言ってしまいたい。言って楽になりたい。断罪されたい。それだけのことを、自分は彼女にしてしまったのだから。
 心臓に突き刺さった棘は、咎の印だ。これは彼女を想い続けるかぎり、抜けることはないのだろう。
 そう、思い込んでいた。だから──高校二年の、春。長い、長い冬が明け、春がやってくることを、胸に満開の桜が咲くことなど、及川は想像だにしていなかったのである。



 後ろ髪を優しく梳く指の感触で、柚子は目を覚ました。
 どうやら二度寝してしまっていたらしい。すっかり明るくなった室内に、一瞬寝過ごしたかとあわてるが、今日は休みだと思い出してホッと短い息を吐く。
「おはよ、柚子」
「……おはよう」
「しまった寝坊した!……とか思ったデショ」
「うるさいなぁ」
 クスクスと目をやわらかく細めて笑う及川に軽くむくれて見せると、可愛いととろけた微笑みで囁かれ、心臓がドキリと跳ね上がる。寝起きにこれはよくない。瞬時に熱くなった顔を枕に押しつけ、熱を冷ます間も、髪を梳く指は上下にゆったりと動いていて。その慈しむような手つきに、柚子の胸はいっぱいになった。
 好きだなぁ、と思う。大切にされていると全身で感じられる。とくとくと注がれるトクベツな愛情には、くすぐったさすら覚えるほどだ。ふだんは意地悪で確信犯めいた行動を多く取る分、なおさら甘さが引き立つのかもしれない。
「ねえ、こっち見てよ」
「やだ、絶対顔赤いもん」
「その顔が見たいんだってば」
「やだ、無理、断固拒否する」
 蜂蜜をたっぷりかけた低音が鼓膜を震わせるたび、近くに存在を感じるたび、柚子は夢を見ているような心地になる。
 去年までは、相思相愛になれる日がくるだなんて思いもしていなかった。
 考えもしていなかったのだ。まさか、及川も自分のことをずっと想ってくれていただなんて。てっきり自身の片想いだと思い込んでいて、見込みがないと半ば諦めてもいたから。縺れて、複雑に絡み合っているように見えた糸がするりと呆気なく解かれた瞬間、瞬きも忘れぽかんと口を開けて絶句したほどだ。
 自分たちを数年悩ませてきたものの正体が、試験問題より遥かに難しいと思っていたものが、見方を変えればすぐにでも解けたであろう、知恵の輪、だったなんて。

 三度目は、衝撃が重なりすぎて、うまく言葉にすることができない。
 最初は驚愕。次に歓喜。最後は泣きたくなるくらいの──、涙で前が見えなくなるくらいの幸福に満ち溢れていた。

「おまえ、本当にそれでいいのか?」
 岩泉からそのセリフをはじめて聞いたのは、中学三年のときだっただろうか。
 急によそよそしくなった柚子と及川。何かあったと言わんばかりのふたりの態度に、一番近くにいる岩泉が気付かないはずがない。『ただの喧嘩』ではないと、漂う空気からすぐに察した彼は、真っ先に柚子に問うた。及川を問い詰めたところで、のらりくらり、はぐらかされるだけだと踏んだのだろう。
 ふたりきりで話がしたいと真剣な顔で言われ、帰り道に立ち寄った公園。宵空の下、ベンチに並んで座った柚子は、隣にいる岩泉から向けられる強い視線が怖くて、俯くことしかできなかった。