事件が起きたのは、その翌日だ。
「妙子ちゃ〜ん、四組の月島くんが呼んでるよ」
「えっ」
思わず耳を疑った。
「な、何だって…?」
「だから、月島くんが呼んでるって」
四時間目のお昼休み。クラスメイトの言葉に、教室後方に恐る恐る顔を向ける。本来なら圭ちゃんがそこに立っているはずなのに、彼女の姿はどこにもない。代わりに、無表情な顔をした月島がこちらを見ていた。なっ……な、なんで…!?と、焦ったのと同時に、目が合ったらフウというように息を吐いたのが目視できて、 思わず勢いを付けて席を立った。
「な、なんでしょうか……!?」
小走りで駆け寄り、とてつもない緊張に見舞われながら口を開いた。声が震えている。なんせ私は彼を避け続けていたのだ。まさか、その当人が自分から近寄ってくるだなんて思いもしない。近寄ってくる理由も思いつかない。もはや逃げることも許されない状況で、当然ながら顔も見れない。幸い、私と彼とでは身長差があり過ぎて、至近距離で目を合わせようとすると首を上に傾けなければならず、真っ直ぐ前を向いている分には月島の顔を視界に入れずに済んだ。彼の制服の第二ボタン辺りを凝視しながら、私は緊張から自分の腹部あたりを強く握り締める。
「坪倉さんから伝言」
「へっ」
「迎えに来て、だって」
「は?……えっ…どっ、どこに?」
「……うちのクラスにじゃないの?」
意味が分からない。何を言われるのか予想もつかなかったが、それはあまりに意味が分からなさすぎて、思わず月島を見上げたらフイと目を逸らされる。それだけ言いに来たの?そんな、圭ちゃんに頼まれたからって、素直に伝言しに来たっていうの?なんで?と、頭には幾多の疑問ばかり浮かび上がって、何も言えない。その内、私の背後から何人かの生徒が教室から出ようとしているのに気付いて、私は僅かに身を避けた。そのついでに教室から出ると、月島が廊下へと移動したのでそれに続く。ふと視線を横にズラせば、四組はすぐ隣。圭ちゃんはその中にいるはずだ。目と鼻の先に、すぐ。なのに、なんで月島に伝言なんか……。
「あのさ」
圭ちゃんの考えも、大人しく伝達役を引き受けた月島のことも理解不能で、未だ言葉を発せないでいたら、頭上から声が降った。
「聞いてもいい?」
「えっ、あ、何……?」
「僕のこと避けてない?だとしたら、僕、何か芦名さんの気に触ることでもしてた?」
それもまた、予想外過ぎた。名前を知られていたこともだし、その問い自体も。呆気に取られて再び月島を見上げる。そこには、ただただ疑問を口にしただけで、それ以外の他意は何も感じられない彼の顔。若干だが、眉頭が八の字を描いているように見えるのは、私の目の錯覚か。困り顔、とでも表現すべきなのだろうか。っていうか、気に触ることって……あんだけ皮肉やら嫌味やら、毎回吹っかけておいて?今更それを言う?
「…………いや、なんていうか、あの」
違う。……月島の言いたいことは、なんとなく分かる。それのことを言ってるんじゃないって、分かる。昨日の山口くんだって言ってたじゃない。あれは、月島にとっては普通なんだって。当たり前なんだって。仲の良い山口くんが言うんだから、突然そんな事を疑問に思うわけない。だから、きっと、月島が言っているのは多分あの日の……。
しかし、それをどう説明すべきなのだろう。正直に言うには恥ずかし過ぎる。あの時、迷惑がられていたのではないかと、恐くなっただなんて。月島に、嫌われててしまったのではないかと思っただなんて、言えない。言えるわけないよ。だって、そんなのまるで。私が月島のことを…………。いやいや…まさか。ウソでしょ……。
「ねぇ、聞いてるの?」
「え!?あ、うん!聞いてる聞いてる!……いやっ、だから、なんていうか、友達でもない人の車に乗せてもらうとか、さすがに厚かましかったかなぁ〜って、さ!反省してたの!図々しくしちゃってた自分に反省?みたいな?……べっ、別に、月島は、なんもしてないっていうか、悪くないっていうか!あたしのことなんて気にしなくていいっていうか!」
脳裏に浮かんだ一つの答えを掻き消したくて、更に、返事を促す月島に焦りが倍増して。先日の恥ずかしい被害妄想を隠しつつ、こうして直接聞きに来るぐらいだから月島のあの時の発言はきっと私に対してのものじゃなかったんだと思い付き、それなら彼には何も非は無かったんだと考えを改め、それを伝えたいが為に早口になった。
「………はぁ」
納得したのか、してないのか。言い切って唇を強く結ぶと、一拍置いて、気の抜けた声で月島が相槌を打った。
「よく分かんないんだけど」
次いで小難しそうに眉を寄せた月島は、今度は困っているのではなくて、私の言ってることが理解不能とでも言いたげな顔をしている。
「………つまりさ、僕は悪くなかったってそういう事でいいの?」
「そ、それは……えぇ〜……?」
「さっきそう言ったよね」
「………い、言いました」
「じゃあ僕が避けられる理由なんて、特にないよね。意味なく避けられるって気分が悪いっていうか、何もないなら普通に接してもらえない?……別に、僕も君のこと何とも思ってないし」
自分の口からではもう上手く説明できる気がしなくて、そこからはただ月島からの問いに答えていって。途中、いや月島の物の言い方がもうちょっと柔らかければ私だって……なんて考えたものの、だとしても、思えば勝手に勘違いしたのは自分の方であることは間違いないので、肯定を続けていたのだが、彼の口から出たある一言が胸に引っ掛かった。
「……何とも思ってないって、今どういう意味で使ったの?」
ともすれば、それは物凄く冷たく聞こえるフレーズで。おまけに月島のように笑いもしない、逆に躊躇いもせず、全く表情を変えないまま繰り出されれば、更にその印象は強くなる。けど、今の月島は、その一言の前のセリフで意味もなく邪険にされるのは嫌だと、そんな意味合いの事を言った。その流れから続くセリフとしては不自然な気もする……。何とも思っていない、それが“どーでもいい存在”、という意味なら、そもそも自分が避けられているからといって、痛くも痒くもないはずでしょ。……月島の言葉は、私にとって、どうも難解すぎるのだ。
「そのままの意味だけど?」
自分ではなかなか答えを出せない疑問を本人にぶつけても、逆に今度は月島の方が顔にクエスチョンマークを浮かばせている。これでは埒があかない。ギュッと制服の腹部の辺りを握り直した私は、少しばかり勇気を出して口を開いた。
「何とも思ってないなら、放っておけばいいじゃない。興味も無いなら、避けられる理由なんて、どうだっていいじゃない?別に今までだって、特別仲良い訳じゃなかったんだしさ…。たかだが、学年一緒の隣のクラスの人でしょ?今更顔合わせなくなるぐらい、どうってことないんじゃないの?」
言葉に出して、すぐに後悔した。ついつい喧嘩を吹っかけているような言い回しになってしまった。こんな好戦的な発言をするつもりではなかったのに。ただ、月島の真意が知りたかっただけなのに。脳裏で考えていたことを口に出してみたら、思った以上に棘のある言葉になった気がした。一度収まりかけていた緊張が振り返してきて、問い掛けたのは自分だというのに途端に答えを聞くのが恐くなる。月島の顔を見ていられなくて、私は自分の足先に睨むような視線を落とした。怒ってそう。絶対怒ってそう。
「………フーン」
ほら、声が冷たい。月島の声がそれまでよりワントーン下がったのが聴覚だけで分かって、背中がヒヤリとした。
「君は、そうなんだ」
へ?……と、続く月島の言葉に、音になり損ねた声が漏れる。
「君、言ったよね。自分のことなんて気にしてくれるなって。つまり、僕に好かれようが嫌われようが、自分はどうだっていいってことでしょ。僕に言わせたら、それこそ何で避けられなくちゃいけなかったのか、全然意味が分かんないんだけど。……まぁ、もういいけど。だんだん面倒臭くなってきたし。とりあえず今日は、坪倉さんに頼まれて来ただけなんで。……話し掛けるなっていうんなら、安心して、今後もう一切話し掛けないようにするから」
えっ?と、言葉を返す暇も無く。冷たい声色にハッとして顔を上げたが、月島は言い切ると直ぐに身体を反転させた。一瞬だけ見えたその横顔が、今までのどの表情より冷徹に見えた。彼は教室には戻らず、四組とは逆方向に長い廊下を歩き進んで行く。その背中を見つめて、冷や汗がドッと湧き出た。何を。どうして。何の地雷を踏んでしまったのか、自分ではよくよく分からない。胃が急激に痛み出した気がして、心臓が嫌な音を立てて鳴り出した。
「………芦名さん、だ、だいじょうぶ?」
どうしたらいいのか分からなくて、その場を動けずにいたら、背後から声がした。僅かに首を動かしたら、山口くんと圭ちゃんが後ろに立っていた。
「ごめん。見てた」
気まずそうに顔を歪ませる圭ちゃん。
「だっ…だいじょぶじゃない〜……」
思わずその肩に顔を埋めて、唸るような声を出した。張り詰めた空気がピリリと破かれ、途端に目頭が熱くなる。恐かった。月島が恐かった。蔑むような、見下すような、鋭い目をした月島が。可笑しい。何とも思ってない筈なのに。彼が言ったように、私は、好かれようが嫌われようが、どうでもよかった筈なのに。それどころか、嫌いだとさえ思っていた。なのに、あんな風に突き放されて、どうしてこんなに悲しく思っているのだ。可笑しい。
「ごめんなさい芦名さん…!俺なんだ…俺が坪倉さんに言ったんだ。芦名さんが昨日ツッキーのことで気にしてたよって。ツッキーあんなんだから……なんか、誤解されてるの悔しくて」
傍で山口くんの声がする。なんで突然月島が私の目の前に現れることとなったのか、その経過がなんとなく理解出来た。大方、仲直りのキッカケでも作ろうとしてくれたんだろう。それを余計なお世話だと思う前に、そうまでお膳立てしてくれても、やっぱり月島とは上手いこと会話が出来ないんだと知らしめられて悲しかった。何故そう感じるのかも分からないけど、とにかく悲しかった。
「嫌いじゃないんだよ、きっと」
何も返事を返せない私に、山口くんが続ける。
「嫌いじゃないんだ、絶対。だとしたら、ハッキリ言うんだツッキーは。昨日言ったじゃない?ツッキーは自分に正直なんだって…」
あんなに捻くれた言葉を発するのに?
「でも………素直じゃないんだ」
口には出さずに山口くんの言葉を疑問に思っていたら、それに対する返答は直ぐにあった。圭ちゃんの肩口に瞼を押し当てまま、私はその意味を考える。だからなんだというのだ。月島は、正直私のことをどう思っていて、何を素直になれないというんだ。それも、もう、あんな風に言われてしまっては聞くことも出来ない。考えれば考える程、ただただ、気持ちだけが沈んでいった。