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ネコの尻尾。
【38/54】
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88.
揺ら揺ら揺ら。


重い足取りで学校を後にして、私はゆかりちゃんとの約束の場所である駅前のカラオケ店へと向かった。メールで確認した部屋番号を探して中に入り、既にハイテンションでマイクを握り締めるクラスメイトの女の子たちに苦笑しながら空いた席へと滑り込む。やがて、私の存在に気付いた面々と目配せだけで挨拶を交わし合った。


「………杉沢ちゃん?」

「ん?」

「どうしたの?」

「え……何が?」

「なんか、元気ない」


そのうちの一人、某アイドルグループのヒットソングの軽快なメロディが響き渡る室内の中央から、ゆかりちゃんがお尻だけを浮かせるようにしてスルスルとこちらに移動して来た。そして、こちらを覗き込むようにしてそんな事を言うもんだから、私は先程とは種の違う、自嘲にも近い苦笑いを浮かべた。学校での出来事を引きずったまま此処へ来て、沈んだ気持ちを特に取り繕うこともせずにいたから気付かれて当然かもしれない。流石にこの場の空気を壊すほど険しい顔はしていられないが、無理矢理テンションを上げることは難しい。普段ならなんでもないふりを装って空元気くらいして見せれるのに、もうそんな気力は湧いて来ない。それもなんだか面倒な程、今日は疲れた。


「……後で話すね」


とはいえ。ここでは他の皆もいる。自分が何に憂いているのかは、流石に不特定多数の前では口にし難いことなので、彼女にだけ聞こえるよう小さな声でそう一言告げた。ゆかりちゃんは大きな目をパチクリとさせていたが、困ったように口元だけで笑って見せると、彼女は納得したのか小さな頷きを返してくれた。

それから二時間ほどカラオケは続き、促されるまま適当に歌ったり、皆の歌声に手拍子をしたりと、それなりに調子を合わせてやり過ごした。若い女の子たちの明るい声色は癒される。制服姿で弾けるような笑みを浮かべるクラスメイトたちを、どうしようもなく羨ましく思うのは、やはりさっきの出来事が深く心に刺さっているからなんだろうか。

胸に痛みを感じながらも、どうやらゆかりちゃん以外の子たちには私が覇気が無い表情をしているのはいつものことのようで、少々口数が少ないことにも幸い何も咎められることは無かった。逆にいえば、些細な表情の変化さえ気付かれてしまう程に、ゆかりちゃんにとっても、私がそれなりに近しい人間になっているのかもしれない。

陽が傾きかけた夕暮れ時。気を抜けば昏い闇に落ちそうになる気持ちをなんとか隠しながらその場を凌ぎ、ようやく帰路についた頃。駅の改札をくぐり抜けていくクラスメイトたちを見送ったゆかりちゃんは、「ちょっと寄り道〜」と言ってその輪には混ざらなかった。私と話をする為だろう。私とゆかりちゃんとでは、帰る進行方向が違うのでそう遠くへも行けず、とりあえず近場の公園を目指すことにした。


「で!何があったの!?」


並んで歩く道すがら、ゆかりちゃんは待ち切れなくなったのか、とうとう切り出して来た。皆と一緒にいる間もずっと気にしてくれていたんだろう、いつになく真剣な声。


「いや……大したことじゃないんだけどね。さっきの面談で、親と喧嘩して」

「えっ!な、なんで?」

「アメリカに来いって、お父さんが」

「え!?」


ユラユラと揺れる瞳のゆかりちゃん。彼女が自分を心配してくれていることを嬉しく思いながら、私は端的に答えた。よほど予想外であったのか、彼女は途端に声を大きくして驚く。


「んで、行きたくないって言ったら殴られた」

「え、えぇ!?」


後を続けると、ゆかりちゃんが更に大きな声をあげてその場に立ち止まった。その驚き方があまりに率直で素直で、私はつい笑ってしまう。彼女に構わず歩を進めながら、小さく吹き出した。


「わ、笑いごとじゃないよ〜!だ、大丈夫なの?」

「…くくくっ…いや、そんなに直球で驚いてくれると思わなくて」

「驚くよ!だって殴られるとか!透子ちゃんだって一応女の子なのに有り得ない…!」


喉を震わせて返事をすれば、さも心外だというように膨れ顔をしたゆかりちゃんに反論される。余程壮絶なシーンを想像しているのか、若干青ざめた表情で言う彼女の言葉には更に笑いがこみ上げそうになった。てか、一応って何だ。一応て。


「ごめんごめん。食らったのはビンタ一つだけだから、大丈夫」


が、至極真面目に心配してくれているであろうゆかりちゃんに対してそれは失礼かと思って、自分の頬をさするようにしながら私は言った。すると、ホッと胸を撫で下ろすような仕草をしてゆかりちゃんが息を吐く。


「私もビックリ、この歳で親から平手打ち食らうなんてね」

「この歳っていうか……親にぶたれるなんてなかなか無いと思うケド…!それで沈んでたの?」

「ん……。親と喧嘩なんて久々でさ。っていうか……一人で日本に残ってること、親が良くないと思ってたなんて今まで知らなくて。今更どう納得させたらいいのか、わかんなくなっちゃった」


私がこの世界に来る前の"自分"と、今ここにいる"自分"。外側の器が同じでも、その中身は似て異なる人間かもしれないということを事細かに上手く説明する自信はない。意味が通じるようにと、とりあえず要点だけを絞って口に出した。

"以前"の私が何て親を説得したのかは不明だ。はたまた、明確でないのは"自分"がこの世界に飛ばされた事による強制的に仕組まれたことだったからなのか…可能性としてはこちらの方が大きい。なんにせよ、曖昧なままではマトモな反論など出来るはずもなかったのだ。それ故に生じた父親とのすれ違い、付随して膨張した罪悪感。加えて、ハッキリ決断するこの出来ずに尻込みしている弱い自分を思い出して、いよいよ嫌気がさしていた。


「あの、聞いてもいい?」

「ん?何?」


言葉にはせずとも、そんな苦々しい自分の感情が顔には出ていたのだろう。躊躇がちな声に振り向けば、ゆかりちゃんの口がもごもごと動いている。僅かに声の調子を上げて先を促すと、彼女は再び口を開く。


「杉沢ちゃんのご両親は、あの事、知ってるの?」

「あぁ……いや、知らない」

「じゃあ、」

「うん。私を中学生だと信じて疑ってない」


きっぱりと言い切ると、ゆかりちゃんは次の言葉が出て来ないのか、少しばかり俯いた。彼女が私の言葉をどう受け止めたのかは読み取れないが、瞳が寂しげに揺れているのを見ていると、感じ方や感情の表現が本当に素直な子なんだと思った。血の繋がった肉親でさえ、本当の自分を知らない。それは確かに、寂しいことなんだろう。


「他人に理解してもらうより、難しいことかもね」


何年も何年も、産まれてからずっと側で見守り続けてきた我が子に、突然今まで貴方たちが育ててきた子供とは少し違った人間なんですよ、なんて言われても信じられる訳がない。それこそ無駄に傷付けるだけなのではないかと思うと、口にするのも憚られる。


「んんん……今、逆に私がお母さんとかに、突然未来からタイムスリップして来たんだ、って言われたらどうしようって想像してみたんだけど…」

「みたんだけど?」

「うちのお母さん頭おかしくなっちゃったんだけど、どうしよう!?病院連れてった方がいい!?、……とか周りに言い触らしちゃうかも〜」


それを告白した場合の両親の反応をシミュレーションしつつ脳裏であれこれ考えていたら、眉頭を八の字にしたゆかりちゃんは両頬に手を当てがい神妙な声を出していた。そんな奇妙な事態がそうそう頻繁に起こる訳もないから、想像が及ばなくて当然だろう。


「当たり前だよね。普通、そんなこと有り得ないって」

「でも、実際杉沢ちゃんの身には起きてるよね」

「ねぇ〜なんでだろうねぇ、世の中何が起きるかわかんない」

「あ、で?……結局、アメリカ行かないって説得出来たの?」

「いや、どうかな……今駄々捏ねてる最中」


溜息混じりにそう答えると、ゆかりちゃんもまた、私と同様、口を尖らせるようにして鼻から短く息を吐いた。


「個人的にいえば……経済力のない"今の私"が、親元を離れて好き勝手自由にするのはいかがなものかと、自分でも思うだけに上手いこと説得出来なくて困ってる」


その横顔を視界の端に入れながら率直な想いを口にした。悩んでいることはそれだけではない。が、それ以上はまだ知られては困ることなので、そこは口を噤む。正直、こんなことを打ち明けられてもゆかりちゃんが返す言葉に困るだろうということは分かっている。けど、今日はなんだか滑り落ちるように口から言葉が出る。弱っている証なんだろうか。誰かに聞いて欲しいのだろうか。胸に抱えた葛藤の欠片を、ほんの少し軽くしたかったのかもしれない。


「杉沢ちゃんは、この先ずっと、こうして生きていくの?」

「えっ」


返事なんて期待せず、独りよがりな想いを勝手に抱いていたら、ゆかりちゃんからぶつけられた次の言葉に内心どきりとした。反射で振り向くと、彼女は真剣な顔付きで私の様子を伺っていた。


「この先も……お母さんにもお父さんにも、事実を打ち明けないでいくの?」


あぁ……そっちか。と、私は少しばかり安堵した。一瞬、私がこの世界に居ること自体を迷っていることを見抜かれたのかと思った。案外ゆかりちゃんは鋭いところがあるから。


「うん、そのつもり。変な絶望はさせたくないから」


内心の焦りを隠しつつ答える。信じてもらえる、もらえない、というより、今の私の立場をどうこう出来ないなら、下手に心を掻き乱すようなことをしたくないと思ったのだ。肉親がいる。ただそれだけのことだけでも大きな安心感がある。私はそれで充分だ。と、心の中だけで後を続けていたが、ゆかりちゃんからの返答が返って来ないので、不思議に思って再び彼女を見た。


「もう、私たち以外に誰にも言わないの?」

「うん……幸村くんが言ってたよね、言うか言わないか自分で決めろって。やっぱり私は、誰にも言わずにいこうと思う。……皆を騙すのは申し訳ないけど」


これじゃあ結局振り出しに戻るのと一緒だな、と心の中では自嘲していた。予期せぬ事態に真実を明かすことになったが、ゆかりちゃんも幸村も、他者に言い触らすことは無かった。どうするかはあくまで私の問題だと、そう受け止めてくれた二人には改めて感謝する。引き続き皆を騙すのは忍びないが、帰るのなら、この世界を去るのならばそれこそ無駄に混乱させる必要はない。

私が言い切った後、再び沈黙が訪れたので、彼女は何を感じているんだろうかと瞳を揺らし続けるゆかりちゃんに視線を合わせると、ますます眉間に皺が寄ってしまっていた。少し正直に話し過ぎただろうか。このことを気構えずに話せる相手が少な過ぎて、自分で思うより多弁になっていたかもしれない。

公園にはとっくに辿り着いていて、互いに何も言わぬままどちらともなく、片隅に設置されたブランコにそれぞれ腰掛けた。古びた金属がこすれ合う音が小さく鳴って、ゆかりちゃんが漕ぎ出したのが分かった。ゆったりとしたテンポで彼女の身体が前後に揺れるのを見て、私も両腕に力を込めて軽く地面を蹴った。


「雅治にも?」


自分の身体が揺れ出し、ゆかりちゃんと入れ違うように前方へと浮いた時。背中に聞こえた彼女の言葉。……どうしてその名が出てくるのか。呆気に取られた私の身体が遠心力のまま後方へと下がって、ゆかりちゃんとまた、すれ違う。


「このまま、雅治にも、ずっと知らないふりをするの?」

「……いや、まぁ、うん。何で突然今その名前が出てくるのかまずは聞きたいんだけど……」

「どうして?好きなんでしょ?」


困り果てる私を無視して、ゆかりちゃんは続けた。ブランコの揺れは次第に大きくなっていって、遠ざかったり近付いなりを繰り返しながら、ゆかりちゃんの問いかけは止まらない。まるで問い詰められているかのよう。行き場のない焦りが途端に胸に広がり、確信に迫ったその問いに私は答えに詰まった。否定すればいいのに。先日、ファミレスで皆に断言した時のように。きっぱりと否定すればいいのに。


「ホントは、杉沢ちゃんが嫌なら、無理には聞かない方が、いいとも思ったんだけど……でも、もう色々知っちゃったし、嘘つかないで欲しいんだ私にはっ」


物分りの良いことを言いながらも、可憐さを装って貪欲に人の心を暴こうとするこの純朴な少女が憎い。心底心配しているような顔を見せられ、そんな優しい言葉を囁かれては心も揺れる。


「好き、なんで……しょっ!?」


すれ違いざま最も互いの身体が接近した瞬間を狙って、彼女は力強く言った。再びそう問われて、私はもう否定出来ない。


「…………だと、思う」


観念したように、私は次に来たその瞬間に、彼女の言葉を肯定した。口にした途端に、胸の内側が音を立てて軋み始める。学校を出る前に見かけた銀の尻尾が脳裏に蘇り、息苦しくなって手の中の鉄鎖を握りしめた。


「でも、どうしようもない。どうすることも、出来ないよ」


自分ではもう、湧き出る己の感情に、行き場を与えてあげられない。小さく呟くと、ゆかりちゃんがそれまで揺らしていた身体を急に止めた。私が無言でいるから、彼女の足が地面を踏みしめる音だけがその場に響く。


「雅治は……それでもいいって言ったよ?杉沢ちゃんが本当は私たちと同じ中学生ゃなくてもいいって」

「アイツが良くても私がダメ。……これは私の問題だから」

「このままずっと、雅治の気持ちには答えてあげないの?」

「うん…申し訳ないけど」


釣られるようにして自らも漕ぐのを止めた私は、こちらへ向かってやや前のめりになりなっているゆかりちゃんと顔を合わせられないまま答えた。本当に今日は多弁になってしまっている。やはり日中にあんな事があったからだろうか。弱い部分が隠せない。ついでに本当の私を知る彼女の前では取り繕う必要などないと思うと、余計に口が滑りそうで恐かった。


「それでいいの?」


いいんだよ、私は帰るんだから。彼女の問いかけに、そう答えてしまいそうで恐かった。そう告げたら告げたで、いよいよ私は自分を保てなくなりそうで寸でのところで堪える。知られたくない。そう言えばますますこの子は傷付いて、背負う必要もない他人の秘密を更に抱えることになって、誰にも言えずに苦しむに決まっているのだから。


「じゃあ、杉沢ちゃんはこの先もずーっと、誰のことも受け入れないで生きていくの?誰のことも好きにならずに、生きていくの?」


しかし、それでも尚ゆかりちゃんの質問の嵐は止まらなかった。純粋に湧き出た疑問を他意も悪意もなく、ただただ口にしているだけの彼女。


「………結構痛いところ突くよね、ゆかりちゃん。そういう所、幸村くんに似てきた」

「えっ!嘘!?……って!も、もう!私の話はいいんだよ。で、どうなの杉沢ちゃん!」

「……それは、さすがに寂しいかもね」

「それじゃあ、この際、雅治に、」

「でも、真実を知ってもらって共に生きていく相手としては、仁王はダメ」

「なんで!?」

「……何でも。分かって、ゆかりちゃん」


それは、彼のアレは作られた感情だから。私がこの世界に来たと同時に、作為的に操られただろう感情であるから。そして"少年"と呼ばれる年頃の男の子に堕ちていく自分が、どうしても許せないから。彼らは若い。こんな重苦しくて可笑しな女のせいで、同年代同士の恋なら気にしなくていいことを気にさせるのが、嫌だから。そんな想いをさせる自分を、もっと嫌いになりそうだから。


「……いや!やっぱ分かんない!」


全ては自分の勝手な都合ばかり。そうと知りつつ、それを貫き通さなきゃいけないと思う自分のエゴがまた醜いと思った。だから、鼻息でも聞こえて来るのではないかと思う程、強い口調で反論を示したゆかりちゃんには更に申し訳なくなった。だがしかし、彼女はそう怒った風もなく、諦めか呆れか、はたまたどちらもなのか。次いで長い溜息を吐き出した。


「………分かってくれた?」

「全然!………でも……頑固者だし杉沢ちゃん…」


その顔を僅かに覗き込むようにしながら聞けば、ゆかりちゃんは勢い良く立ち上がりながら言う。しかし、語尾を続ける最中には、仕方ないといった風に曖昧に笑って眼下の私を見下ろしていた。


「………自信ないのかもね、たぶん。目には見えなくても、年の差って脅威だから」


そんな彼女が可愛くて、好きで。私は思わず甘えてしまう。口に出す気はなかったことが、ポロリと零れ出した。言ってしまった後、気まずさで一瞬焦ってゆかりちゃんと目を合わせたら、彼女はキョトンとした顔をしていた。瞬きを数回繰り返し、小さく口を開けたゆかりちゃんは何を思ったのか。私の言葉を、どう受け取ったのか。


「そんなの…!!自分に自信が持てないなんて…!!年が離れてなくたって、私だって時々自信が無くなる時はあるよ。……たぶん、杉沢ちゃんより経験少ないだろうから絶対とは言い切れないけど、でも、皆そういうのあるんじゃないかなぁ…」


尻窄みとなっていった語尾が、静かに吹いた風に乗って消えていく。立ち上がって前を向くゆかりちゃんの頭が少しだけ前に垂れていた。足元を見つめるように視線を下に落としただろうその後ろ姿が、急に大人びて見えた。私はそっと上半身を前に倒し、その横顔を伺った。チラリと見えた瞳。真剣さを帯びたそれは女の子というには幼過ぎて、女の人というには早過ぎる。何も知らない訳じゃないが、全てを知っているとは言い難い。そのことは、彼女自身がよく理解しているかのような発言だった。

この年代の少年少女とは、そういうものであったかな。……とうに昔過ぎて自分のことを思い出すことには困難だ。ただ、人を想うことに対しては、今よりもっと真っ直ぐで、もっと一生懸命だったかもしれない。相手がどうとか、立場がどうとか、そんな事など考えずに恋をした。想いが実るかどうかは別にして、胸の中で想うだけなら自由だと、自分を誤魔化さず素直に真っ直ぐ向き合っていた。だから、どうしてダメなのか、好きなら好きと認めて何がいけないのか、なんてことを他人にも容易く言えてしまうのかもしれない。それはとても、自分にとって羨ましいことだった。


next…

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