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ネコの尻尾。
【34/54】
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84.
シラフではとても。


公衆トイレを出て目の前に飛び込んで来たのは、人混みに紛れ一人ぽつりとしゃがみ込んでいた仁王だった。無表情な顔をして立てた膝に乗せた腕を力なく垂らしている。遠い目をしていた仁王は、私の気配に気付くとゆっくりと立ち上がった。人々の賑やかな喧騒と赤提灯が灯る淡い光の中で、私と仁王が無言で対峙すること約3秒。


「………ん。」

「え………えっ!?」


驚きが二段回になったのは、短く発せられた声と共に差し出された物が予想外だったから。長い腕を真っ直ぐに伸ばし仁王が私に突き付けたのは、奴が手にするにはあまりに似合わない。


「い、いつの間にこんな物」

「……いらんなら俺が飲む」

「なっ…?えっ…!?ちょ、ちょっと!」


言うなり、仁王は手にした缶ビールの蓋を素早く開けると、勢い任せに口を付けた。


「バ、バカ…!アンタ公共の場で何を!」

「……安心しんしゃい、未成年には見えんし。たぶん」


そのままグイグイと音でもしそうな程に勢いを付けて飲み込む仁王に焦る。思わずその腕を掴んで止めさせるが、あっけらかんとして言うから更に。見える、見えないの問題ではない。歴とした中学生がこんな大衆の場で飲酒などして良い訳がなかった。だいたい、仁王が普段からアルコールに免疫があるのかどうなのかも怪しい。


「な、何考えてんの…」

「別に。なんも考えとらん。それよか、いらんのか。じゃったらこれも俺が頂こうかの」

「バカ…!いる、いるよ…!」


栓が空いたビール缶を持つ左手とは逆の手に、隠し持っていただろうもう一本を私の目前にちらつかせた仁王。意地悪く歪んだ口元に、最初から自分も飲むつもりでいたんだと悟る。黙っていたら本当に全部飲み干してしまうのではないかと、私は仁王の言葉に慌てて栓の空いてない方の缶ビールを奪い取った。私はまだいい…容姿からは中学生だと思われることはまずないと、これまで散々思い知らされているから。しかし仁王は違う。ちょっと背伸びしたところでせいぜい高校生レベルじゃないのか。これを買ったであろう屋台の人だって、お祭りの夜に浮かれて羽目を外そうとする未成年の悪行を、見逃してくれただけなんじゃないのか。

無駄に心の中で焦る私は、溜息を吐きながら悠々とした態度で缶ビールを煽り続ける仁王の背中を押して人混みを離れた。立ち並ぶ屋台や打ち上げ花火の見物客が賑わう会場の中心部を避けて、微かに明かりが届くか届かないかまで離れた土手脇に移動する。ようやく一目を気にせずに済むような空気感となって、私は再度深く溜息を吐いた。と、同時に鈍い音が周囲に響き渡り夜空に大輪の花が咲き始める。


「始まったのぅ」


ビール缶を口元に当てたまま、仁王が小さく呟いた。目線は夜空に広がる花火に向けられている。呑気な顔して何を…と、呆れ返っていた私は声になるかならないかの相槌を打って、ようやく自分の手に持ったビール缶を開けた。夜でも高い気温とずっと移動ばかりで動き回っていたせいで喉はカラカラ。口を付けると、そのまま約半分程まで一気に流し込んだ。乾いた喉に炭酸の弾け具合がちょうど良い。口から缶を離し、その旨さに思わず息が漏れる。


「……うまいか?」


不意に掛けられた言葉に振り向くと、少しだけ眉間に皺を寄せた仁王がこちらを見つめていた。


「まぁ…うん…うまいけど」

「ふーん…」


問い掛けられた言葉に率直な感想を述べると、さも理解できないという顔付きをした仁王は、自らが手にしたビール缶を見つめている。……やはり口に合わないのだろうか?奴が持っていた缶を試しに奪って手に持ってみたら、まだまだ半分以上も残っていた。


「無理すんな」


思わず笑みが漏れた。それから残っていた自分の分を一気に飲み干すと、私は仁王から奪い取ったビールを続け様に口にした。美味しさも感じない上に、これは酒だ。これ以上飲ませる訳にはいかない。とりわけ急いだつもりはなかったが、あっという間に三分の一まで量が減った。

飲み込んで一息ついたら我に返って、そうえば…と思い出す。こいつ、知ってるんだったな…。私が未成年じゃないって。同じ中学生なんかじゃないって。私がそれに気がついていることは当然知らないだろうけど、それならば最早言い訳など必要ない。幸村が私には黙っていろと釘を刺したらしいから、そうそう自ら敢えて言葉にすることはないだろうが、私のこんな姿は暗黙の了解で受け止めているはずなのだ。きっと。それより以前に、仁王は私が酒を嗜むことをとうに知っている。驚いた演技をする必要もない。だからこそ仁王は私にこれを差し出したんだろう。それが一体何を考えての行動なのかは、良く分からないが。


「……この間、おまんが言った言葉の意味」


残る問題はまた別のベクトルにある、と。そう脳裏に浮かべた瞬間に仁王が言った。隣を見ると、草むらの上に寝転がり空に上がる花火を見上げていた彼が薄く唇を開いていた。


「正直、理解できん……が、おまんがそういう態度なんはよう分かった」


次が来る、と身構える私を見もせずに仁王は眈々と続ける。無表情。ポーカーフェイス。…感情の在りどころが分からなくて、金縛りにあったように私は動けないでいた。何を言い出されるのか、何を問い詰められるのか。恐かった。こんなに人の言葉を恐いと感じるのは久々かもしれない。


「おまんがそういう態度なんはもう俺にはどうしようも出来んし仕方なかね。好きにしとりゃええ。……じゃけぇ、俺も自分のやりたいようにする」


それは一体……一体どんな意味なのだろうか。私の正体を知り、その上でそんな事を言うとは、一体仁王がどんなつもりでいるのか、それこそ私にはサッパリ意味が分からなかった。


「なに…今更おまんに何かしてくれ言うとる訳でもないきね。放っておいてくれりゃええし。俺のすることにケチさえ付けんでくれれば、それで」


そんな風に言われてしまっては、ますます何も言えない。彼は私にどうこうしろとは言っていないからだ。一度は拒絶を示している。ただそれだけでも彼自身を真っ向から見つめる事も出来ないぐらい自責の念に囚われているのに、これ以上彼の何を否定出来るのだ。仁王自身の行動は止められても、彼の感情の行方を私が止めることは出来ない。それが…それが例えば仕組まれた事であっても、私には止める術が分からない。

荒くなった呼吸のまま、私は仁王の横顔を視界に入れた。すると、仁王は頭を支えていた両腕の一つを外すと、利き手である左手で瞼を幾度かこすった。そして、大きな欠伸を一つ。


「まぁ……迷惑はかけんように俺なりの努力はするぜよ。嫌われたくは…のぅし……」


半分閉じかけた瞼でゆっくりと瞬きを繰り返す仁王の言葉に、私は耳を疑う。やけに素直過ぎる言葉があまりにも彼らしくなくて、気怠げで力ない声の調子が、なんとも弱々しくて。


「…じゃけぇ、とりあえず普通にしとって……目も合わさん、口も聞かん、っちゅうのは……結構…しんどいかもしれん……」


何……まさか、こいつ、酔ってる…?徐々に落ちて行く言葉のスピードに驚いて、私はついに仁王に顔を近付けた。上から覗き込むと、トロンとした目を向けられる。焦点が合っていない瞳、唇の隙間から小さく漏れる息。暗がりの中では確認が難しいが、きっとその白い頬には赤みが刺しているんだろうと思わせる表情。まさか…たったあれだけの酒量で、ほんの一口二口程度のビールで酔ってしまったというのか。


「……ちゅーしたい」


カチリと、数秒ほど彷徨っていた仁王の瞳と己の瞳が合わさった瞬間。私はその言葉に目をひん剥いた。仁王は自分が今何を口にしているか自覚しているのか?素面の彼なら到底口にしそうも無いセリフ。とてもじゃないが可愛げの欠片もありゃしない能面顔して、こいつ、今一体何を。


「っ…!い、痛っ……!」


私は思わず無防備な仁王の額に張り手を喰らわした。途端に沸き上がる恥ずかしさに耐え切れず、見下ろしていた仁王の顔から目を背ける。馬鹿。この酔っ払い。弱いくせに。無理して飲むから。


「………好いとう」


馬鹿。もう止めて。お願いだから、もう変な事を言わないで。


「好いとうよ……」


そんな心の叫びを無視して仁王は尚も口を開き続けた。一切返事を返さない私にも構わず、仁王はただただ呟くように言った。誰に何を求めるでもなく、自分自身でも声に出している事に気付いていないような素ぶりで。耳を澄ませていなければ花火の音に掻き消されそうな程、静かに、その言葉を口にした。

アンタ知ってんでしょ。私が何者か。幸村から聞いたんでしょ。それでもまだそんなこと言ってんの。馬鹿じゃないの。ホントに。

そう激しく強く思うのに。胸の中はこともあろうか嬉しさでいっぱいだった。真実を聞かされて尚、慕ってくれる仁王のその気持ちは隠しようが無いぐらい嬉しかった。誰かに仕組まれて産まれた感情だったとしても、仁王自身の口からそんな言葉が出たことが自分でも呆れるぐらい嬉しくて。嬉しいのと同じくらい胸が痛くなった。


「あ……!バカ…!寝るなよ!」

「ん〜……眠い…」

「ダメダメ…!そろそろ皆んとこ戻るよ…!」


気付くと横向きになった仁王が腕枕に顔を埋めていて、本格的な眠りに落ちそうになっていた。慌てて肩を揺さぶりそれを食い止める。二人してフケただなんて、それこそどんな噂を流されるか知ったこっちゃない。私は立ち上がると、眉間に皺を寄せて駄々っ子のような顔をして見せた仁王の腕を力づくで引っ張った。観念したのか、のろのろと立ち上がる仁王。酔っているのは明確で、足元のフラつきが見るからに危うい。嫌な予感を感じる。


「ちょっ…大丈夫なのアンタ!?」

「ははは〜真っ直ぐ歩けーん」


案の定一人での歩行もままならない仁王は、長い腕をだらりと私の肩に引っ掛けて呑気に笑っていた。ぐらつく大きな身体を支えるが、酔いに任せてテンポ悪く進む仁王の足取りでは、なんとも歩きづらい。しっかりしろ!とか、人にぶつかるな!とか、要所要所で仁王を叱りつけながら、携帯で連絡を取りやっとのことで皆の元へと戻った。

肩を組み合う私たちに最初のうちこそ赤ら様に揶揄するような視線を向けていた皆だったが、力が抜け切って重くなった仁王の身体に耐え切れずその場に投げ捨てるように転がすと、皆一斉にクエスチョンマークを浮かべていた。


「え、コイツどったの?」

「……酒飲んだ」


途端に眠りこけてしまった仁王を前に疑問を口にする皆に、事のあらましを掻い摘んで端的に述べる。あの仁王雅治がこんなにもアルコールに弱い男だったのかと、私の溜息混じりの説明に皆が笑った。真田辺りは猛烈に顔を顰めていたが、一般客も多いこの場所では声を張り上げて説教することも出来ず溜息を吐くばかり。何より当の本人はすっかり夢の中。スヤスヤと寝息を立てる仁王は、その後、皆の格好の餌となる。こんな時でも律儀に持参していた筆記用具で、何気なく柳が仁王の額にイタズラ書きをし始めた。それを筆頭に、皆が順々に仁王の顔をキャンパスにして我も我もと調子に乗って書き足していく。心の中でいい気味だと吐き捨て、私も笑った。ちょっとは懲りたらいい。人の心を散々掻き乱しといて、健やかな寝息を立てている仁王が面白くなくて、私もやがて皆に進めるがままペンを取った。


next…

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