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ネコの尻尾。
【29/54】
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79.
アクセルは踏まれた。


病室の扉を開けて中に入ると、幸村は真っ白なシーツを引いたベットに静かに横たわっていた。腕に伸びた一筋のチューブ。その傍では、パイプ椅子に座り彼と私とを交互に見やりながら不安気に瞳を揺らすゆかりちゃん。私は、静かに口を開く。


「……ただの脱水症状だってさ。点滴が済んだら、帰宅していいって」


目を合わせられずに、直ぐに視線を逸らした私は呟くように言った。ゆかりちゃんが安堵の息を漏らし、幸村も細く息を吐く。


「……車に行ってるから、落ち着いたら来て」

「………逃げるの?」

「………こんなとこで話すことじゃないでしょ。待ってるから、出る時に携帯に連絡ちょうだい」


二人の姿をこれ以上見ているのも躊躇われて、私は直ぐに病室を出ようとした。そんな私の背中に、幸村の鋭い声が突き刺さる。その言葉の意味も、背中に受けた視線の意味も、痛いほど分かっているけど少し冷静になる時間が欲しい。身勝手な言い分だけど、許して欲しい。そんな無言の請いは黙っていたって伝わる訳がないけど、胸の中で強く懇願していた。返事が返って来ないので、私は足を踏み出す。それと同時に一人の看護師が病室の前に現れた。


「幸村くん!やっぱり幸村くんだったのね!あら、ゆかりちゃんも…!」

「あ……こ、こんにちは…!」

「びっくりしたわ〜若い男の子が急に運ばれて来たっていうから!…大したことなかったんだって?良かったわねぇ」

「……はい、病気とは無関係みたいでした」

「なら安心だわ。今朝の診察でも異常なかったものね」


知り合い……だろうか。親し気に会話を交わす様子に、幸村が入院してた間に面識があった人なのだろうと察する。出て行くタイミングを逃して立ち尽くしていた私は、ふいに視線を向けられた。


「あなたが幸村くんを?」

「えっ…あぁ……ハイ」

「身内の方かしら?何処かで見かけたこともある気がするけれど…」

「いえ……ちょっとした知り合いです。見間違いじゃないですか?初めてですから、ここへ来るのは。……それより、何か?」


しまった、と思った。私は立海の面々と共に何度か幸村を見舞っている。もしかしたら見かけられていたのかもしれない。が、それを気付かれる訳にはいかなくて、つい早口で誤魔化した。


「一応、病気のこともありますし、詳しい診断書をお渡しした方が良いかと思いまして。あと、先ほど診察料をお支払い頂いたようですが、あなたで間違いないかしら?」

「はい」

「領収書は如何します?宛名、"幸村"のが良いかしら?」

「いえ…杉沢で結構です。診断書の方は直接彼に持たせてやって下さい。私は身内ではありませんので」

「分かりました。あと…お車のご利用はございました?」

「……えぇ」

「かしこまりました。じゃ、駐車券もご一緒にお渡ししますね」

「はい……あ、先に受け取っても?そしたら、点滴が終了次第、受付に立ち寄らず帰宅できますか」

「いいですよ。どうぞ、こちらへ」


終始柔かな表情の看護師さんから聞かれるまま答えを返す私。その間中、ずっと無言の幸村とゆかりちゃん。二人がどんな顔をしているのか怖くて振り返えれなかった。結局、看護師さんに促されるまま、私は病室を後にした。


茶封筒に入れられた領収書の類を受け取ると、私は病院を出て駐車場へと向かう。よくよく見慣れた黒の乗用車。女が乗るにしてはらしくないと言われながら、数百kgの撮影器材を積んで立派に耐え得る頼れるコイツは、私の大のお気に入りだった。運転席に乗り込むと、倒れ込むようにハンドルに掛けた両腕に額を乗せる。

仕方なかった。だって。焦ったんだもの。再発したんじゃないかって。死ぬんじゃないかって。救急車が来るまで1時間もかかるって言うから。待てなくて。涙を浮かべたゆかりちゃんと、青白い顔をした幸村に。恐くなって。頭が真っ白になって。なんとかしなきゃって。そう思って……。

幾つもの言い訳を並べ立てた。長い溜息を吐きながら、私はほんの2時間前のことを振り返った。



ーーー



『幸村くん…!!!』


緊迫したゆかりちゃんの声に、一度は手にした掃除機を置いてリビングへと戻った私。そこで見たのは血の気の引いた顔で床に倒れ込んだ幸村だった。先程までしっかり地に足を付け、私を責めるような力強い瞳を浮かべていたというのに。閉じられた瞼の先の長い睫毛は既に動く気配はない。泣き顔のゆかりちゃんは幸村の身体に手置いてパニック寸前。私はといえば、兎にも角にも直ぐ様119を発信させたのだが、こういう時に限って昨今の医療体制の不完全さがタイミング悪くのしかかる。

通話は直ぐに繋がったものの、最寄りの施設からすぐに回せる救急車が用意出来ず隣町からの応援車となる為、到着するのに40分から1時間も掛かってしまうと、電話の向こうで淡々と言う案内人にブチ切れそうだった。通話が繋がったまま床に倒れ込んだ幸村を見やって、私は唾を飲み込んだ。蒼白の幸村。力ない手足。紫色の唇…。もしものことがあったら。悠長に待っている事態ではなかったら。どうしようどうしようどうしよう。幸村の身に降りかかった難病と言われたあの病気の詳細をよく知っていなかった私には、全てを理解することは難しかった。ただ、ただ、怖かった。再び幸村が病に襲われたのではないかと。まさか、実は完治していなかったとか、そんな展開なんじゃないかと。この先の彼らが歩むストーリーを私が察することなどもう出来ないのだ。先が見えないままに目の前で友人が倒れる様がこんなにも恐いものだと、私は今、ようやく本当に本当の意味であの子たちの心情を理解したかもしれない。だから、だから……待ってなんかいられなかった。


「……精市くん!!!」


ゆかりちゃんがより一層大きく彼の名を呼んだ時、幸村の顔が苦痛に歪む。意識を取り戻したのだろうか、朦朧とした顔で薄目を開けたが言葉を発するまでは出来ないようだった。それを見て、硬く拳を握った。


「……やっぱりいいです、こちらで連れて行きますから」


気付けばそう口にしていて、言い終わるなり通話を切った私は、リビングの片隅に設置したチェストの上段を乱雑に開けた。金属がぶつかり合い音が鳴るそれをひっ掴むと、幸村の傍に座り込んだゆかりちゃんの隣に私もしゃがみ込む。


「どうしよう杉沢ちゃん…!去年も……、精市くんの病気が発覚した時も、それまで元気だったのに、いきなり倒れたんだって…!」

「そんな……ねぇ幸村くん…!幸村くん…!?」


ゆかりちゃんの言葉に背筋が冷える。まさか、そんな。と、焦る気持ちから肩を揺さぶるようにしながら呼び掛けると、返事はないが瞼が薄く開いて瞳が動いた。眉間に皺を寄せて身体を起こそうとする気配を僅かに見せたので、ゆかりちゃんと共に両側から支えて抱き起こす。か細く見えて、案外肩幅の広い幸村。筋肉質なその身体は力の抜け切った今、とてつもなく重い。立てるかどうかを聞くが、幸村は小さく一度首を降る。声も出せないぐらいに苦しいのだと悟り、それを見るなり私は意を決して立ち上がった。


「ゆかりちゃん、ちょっと待ってて」

「杉沢ちゃん…?どうするの!?」

「救急車、時間かかるんだって。私らで直接病院に連れて行く方が早いよ。流石に女二人じゃ幸村くん支えらんないから、マンションの管理人さん呼んで来る」

「え、直接って………あ、杉沢ちゃん…!?」


返事は待たずに、財布と携帯だけをデニムのポケットに突っ込んで私は部屋を飛び出す。なかなか来ないエレベーターに苛立ちながらも一階まで降り、常駐している管理人がマンション周辺の履き掃除をしているところを捕まえると、事情を説明して部屋へと向かってもらう。その間に私はエントランスを潜った更にその先へと進んだ。数ヶ月ぶりに視界に写したそれ。長く乗っていなかった故にやや埃を被っている車体を気に留める暇もなく、運転席に乗り込むとキーを差し込みエンジンをかける。下半身に感じる振動に頭で考えるより先に感覚の方が蘇って、私は息をつく間もなくハンドルを切った。

正面ロビーまで車を回すと、ちょうど良いタイミングで管理人に抱えられた幸村とゆかりちゃんが降りて来る。彼女の目が大きく見開かれていた。青白い顔をしたままの幸村の口元も、薄く開く。


「……乗せて下さい。病院に、連れて行きます」


助手席側の窓を開けながら私は端的に言う。覚悟を決めて、ゆかりちゃんと目を合わせた。懇願するように長く見つめる私。管理人の手により後部座席に幸村が乗せられると、躊躇っていた彼女も唾を飲み込みながら無言で乗り込んだ。


「大丈夫、間違っても事故んないから」


ドアが閉まるのを確認した私は、前に向き直りながら小さく呟く。バックミラー越しにもう一度だけ彼女と目を見合わせると、絶句を隠しきれないゆかりちゃんが居た。それに答えている暇など無く、私はギアチェンジと共に一気にアクセルを踏んだのだったーーー。



ハンドルに突っ伏したまま、脳裏に呼び起こした一部始終……。

結局、運び込まれた幸村に下された診断は脱水症状であった。今年の夏は過度の暑さによって、自覚症状がないままに倒れる人が急増しているのだと、医師は言っていた。水分と適度な塩分を摂るようにと言い渡され、ベッドに寝かされているだろう幸村とその傍に寄り添うように付いたゆかりちゃんを残したまま、二人の顔を見るより先に処方された薬を受け取った後、私はあの病室へと足を踏み入れたのだ。なんにせよ、幸村の身体が無事であったことは良かった。彼の身に最悪の事態が降りかからなかったことは幸いだ。やがて症状が落ち着いたのか、意識も取り戻し表情を和らげた幸村には、私も胸を撫で下ろした。

何度も出る深い溜息をまた零しながら、私はゆっくりと上体を引き起こす。医師から念の為に…と勧められた栄養剤の点滴がそろそろ終わる頃だろうか…。

あそこで待っていては、気まずさに耐えられなくなりそうで逃げた。否が応でも、これから私は二人に対して説明をしなくてはならなくなる。何をどう、何処から何処までを説明すれば良いのか…。取り繕うことはもう無理なんだから、いっそ全て伝えてしまうべきか……。いや。とりあえず聞かれたこと一つ一つに、正直に答えていくしかあるまい。今まで騙し続けて来た彼らへの、それがせめてもの礼儀であろうか……そうすれば、順序立てずともいずれ全貌を明かすことになる……。

シートに力なく背を預けたままで私は茫然としていた。考えても、考えても、募るのはひたすら罪悪感だけで思わず頭を軽く振る。すると、ドアポケットに封を開けたまま放置していた煙草を見つけた。運転席側のサイドミラー近くに設置した携帯灰皿を掴み上げると、私は一度車を降りる。幸村を再び乗せて帰らなければならないとなると、中に臭いを残すのは躊躇われたのだ。私は一息吐くと、閉めたドアに凭れながら煙草を咥えた。何故こんな時に、と問われても何と無くとしか答えられない。それが愛煙家の習性だ。混乱し焦燥した脳味噌にメンソールが行き渡るのを感じながら、私は細く長く紫煙を吐き出す。そのまま真っ青に広がる空を眺めた。白い雲、駐車場に植えられた樹々の緑。全てのコントラストが鮮やか過ぎて目にまぶしくて、今にも眩みそうだ。黒い車体が太陽の熱を浴びて熱い。衣服を通して背中に感じるその熱と、アスファルトから跳ね返って来る熱気で汗が一気に噴き出して不快感を感じた。煙草一本を吸い終えたところで、ポケットの携帯が震える。受信されたメールを開けば、ゆかりちゃんからこれから病室を出るという知らせだった。汗で額に張り付いた前髪がうざったい。

しかし、本当にこの世界で不快でうざったい存在なのは、私の方かもしれない。


next…

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