72.
コール。
「あ………もしもし?お母さん?」
久々にコールしたそのナンバー。妙に胸がざわめくのを感じながら
、やがてそれが途切れると躊躇がちに声を出した。……たかだか親に電話するのにこんなにも緊張するなんて可笑しな話だ。
「なぁーに?珍しいわねぇ、あんたの方から電話かけてくるなんて」
そう言いつつも母は嬉しそうだった。いつも素っ気ないメールばかりだったからだろう。クスクスと小さく笑みを零した母の声には、私の方がなんとなく照れ臭くなってしまう。私はけして嫌いで避けている訳ではない。
母に電話したのは、夏休み明けに予定している担任竹内との三者面談の日取りを相談する為だ。事前にメールしておいたので話を切り出すと母は直ぐに察してくれた。帰国はいつ頃になりそうか、どれくらい滞在予定なのか、などと話している最中で会うのは約三ヶ月ぶりだということが判明した。
おまけに父も付いて来るというから、私は思わず驚く。夏休みにはてっきりアメリカに来ると思ったのに、私に全くその気が無いことを知った父が寂しがっているのだと言う。こちらの世界でも、あの寡黙な父は娘に直接言えぬ愚痴を、母を相手にぼそぼそと呟いているのだろうか……。
「全く……気になるなら自分で聞けばいいのじゃないの、ねぇ?」
母の言葉に自分が知る父の姿を脳裏に思い浮かべて、ついつい苦笑いが出た。あなた方がアメリカへと旅立つ前と、それから三ヶ月経過した今……。それから続いて出た母の愚痴に曖昧に相槌を打ちながら、私はちゃんと二人の"娘"でいられているのだろうかと不安にもなった。
通話が終了した直後、大きく息を吐くと私は強張らせていた肩の力を抜く。…実の親でありながらどこか全く違う他人のようにも思えて、私はまだまだ言葉を交わすのに慣れていない。声も口調も何もかも同じだと感じるのに……。顔を合わせてしまえば、また何かが変わるのだろうか。
第一、もし万が一、私がこの世界で生きることを拒否したら、あなた方の"娘"はどうなるの?代替え
のようにまた違う"私"が現れるの?……自分には分かるはずもない憶測がまた頭を過る。
更にそれをキッカケに数日前の夜のことを考え始め、気持ちが沈んでいった。自分の意志で如何様にも出来ると分かったのに、全く嬉しくないのは何故だろう。二度と元の自分には戻れないとあんなに絶望していたのに、いざ"いつでも元に戻れますよ"と言われて悩むだなんて……。
理由は自分でもなんとなく分かっている。あんな経験をしたせいだ。あの一体感、充足感、人の心の温かみと、同じ高みを目指した同志の絆、そのほんの端っこの方だけでも味合わせてくれた彼らたち。
そして…
と、ソファの上で膝を抱えながらぼんやりとしていたら、意味もなく握りしめていた携帯が再び震え出した。ディスプレイに表示された名前に一瞬どきりとする。今まさに脳裏に浮かべた人物と同じだったからだ。
点滅を繰り返すその名を見つめて3秒程迷い、私は結局通話ボタンを押した。
「おねぇちゃーん!?」
開口一番。その人物から今の今まで、一度も呼ばれたことのない呼称を叫ばれて私はやや慄く。
「お姉ちゃーん!?聞こえとうとぉ!?」
「えっ………」
尚も電話口の向こうから聞こえてくる甲高い……いや、幼い声に必死に叫ばれて私は戸惑った。予想していた人物から発せられるには、ずっとずっと若い声。
「も、もしかして…アキくん?」
「そうだよぉ!アキだよ〜!!」
仁王からの電話で幼子など、思いつくのは一人しかいない。その名を呼べば、電話の向こうでアキくんが元気いっぱいに応えてくれた。
「久しぶりだね…!アキくんから電話なんて嬉しいよー」
そんな彼には思わず私も頬が緩み、口からは素直な気持ちが零れ出た。
「あのね〜アキ、お姉ちゃんに会いとうよぉ〜!」
「え〜?」
「早う会いとうよ〜!!」
これはまたなんて熱烈なラブコール。超ド級の直球ストレートに苦笑いしつつ、アキくんの拗ねたような可愛らしい口調には頬もますます緩んでしまう。完全甘えモードの声色が耳にくすぐったい。
「じゃけぇ、今日アキんち来て!!」
「えっ…!?」
「アキに会いに来んしゃいよ!!ねぇ〜透子お姉ちゃん!!」
しかし次のアキくんから出た予想外の言葉に私は一瞬返答に詰まる。いくら彼を愛おしく感じてもさすがに「うん」とは即答し難いお誘いだ…。
「………あぁっ!マサ〜!何するとぉ!返してぇ〜!」
「ちょお待っときんしゃい…!っちゅうか俺ん携帯じゃろうがっ……それじゃ話が通じんて…!………杉沢?俺じゃ」
「あ、仁王…?」
「この通りアキが駄々こねとるきに……。夕飯食べに来んかって、オカンが」
やがて電話口の向こうで短いやり取りが交わされて、相手が仁王に変わった。思いがけない提案をされて私は余計に返答に困る。
全国大会以来、仁王には会っていなかった。翌日にあの例のメールを受け取ってから尚更に彼のことについて頭を悩ませつつある私は、久方ぶりに聞いた仁王の声に僅かに戸惑ってしまう。それこそ母に電話を掛けた時の数倍も…。
……私が迷う理由。それが他ならぬこの人であるというのは、もう自分自身誤魔化しようがない…。たかだか淡い恋心、されど無視出来ぬほどに大きく募った恋心。結局、大会の前に交わした賭けの約束すらどっちつかずで曖昧にしたままで…。優柔不断で狡い私。顔を合わせたらますます私は迷うのではないかと、そんな予感が強くあった。
「……ここんとこアキの駄々が酷うなっとって煩いんじゃ。いっぺん顔見せてやってくれんか」
理由は分からずともそういう私の心情を察したのか、仁王は溜息混じりに続ける。答えに言い淀んでいると変な間が空いて気まずさが徐々に広がっていった。耳元に当てがったスピーカーからの声は、直に聞くよりもずっとずっとその距離が近く感じた。無言でいてもそこから伝わる仁王の気配に、胸の奥が落ち着かなくなった。
「お姉ちゃ〜ん!アキ待っとうよ〜!」
と、そこに再びアキくんの声。
「ねぇ〜?透子お姉ちゃんは、アキに会いとうないのぉ?」
淡々とした仁王とは対象的に、感情を素直に曝け出す尻窄みの語尾にはそれまでの緊張が解けて、つい気が抜けた笑いが漏れてしまう。
「………アキもこう言うとるきに暇なら来んしゃい。タダ飯食えると思うとりゃええし……。まぁ、嫌なら無理にとは言わんが」
そして兄上から更にもう一押し…と思いきや今度は引くのか……ホントいいコンビだよ、この兄弟。また笑いが零れた。
「んー……そうだなぁ…」
これだけ熱烈に求められて嬉しくないはずがない。幼子特有の甘い声と、想い人からの誘いに胸の奥がむず痒くなった。
「透子お姉ちゃん?おいでよぉ?」
……と、更に可愛らしくねだるアキくんの言葉にも背中を押されて、私は彼ら仁王兄弟の誘いを受けることに決めたのだった。
next…
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ネコの尻尾。