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ネコの尻尾。
【21/54】
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71.
終焉と共に。



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差出人:G
20XX.08.24.11:14
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<本文>
契約者No.58706316687
杉沢透子様

テニスの王子様全話行程が終了致しました。尽きましては今後の契約内容のご確認及び更新手続きに際しご相談の受付けを開始させて頂きます。該当期間は本日より一ヶ月となりますので必ず更新手続き、又は契約終了手続きを行って頂きますようお願い申し上げます。期間内の手続きが行われなかった場合、杉沢様のデータは完全消去されますのでご注意願います。

尚、受付けは下記店舗にて行います。書類郵送、お電話等の受付は行っておりませんので必ず店舗へと足をお運び頂きますようお願い申し上げます。

【受付け店舗詳細】
*東京都港区西麻布……
*営業時間 am2:00〜am5:00



※尚、この本文には返信は出来ませんのでご了承下さい。
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それは突然だった。
あの日と同じように。

遅めに起きた朝。いつもの惰性で煙草片手に目的も無く携帯をチェックした私は、一通の受信メールを開いて放心状態になった。あまりに急過ぎて思考が追いついていかない。

契約内容の更新……?
契約終了って……、
まさかっ……

早鐘のごとく鳴り出した心臓が耳に煩く響く。

私が数ヶ月間悩まされたことの答えが判明するかもしれないと、何度もその文面を読み返すうちに気が付いた。

表記された受付け店舗とやらの営業時刻は真夜中である。オープンが最終の電車も無い時刻だなんてどんな店だよ…と、半信半疑になりながらも居ても立ってもいられなくて私は夜を待たずに身支度を始めた。なに、目的地付近でオープンまで時間を潰せばいいだけの話だ。幸いあそこには暇潰しになる店なら星の数程ある。そういう変わった店の行きつけもあったし、以前の私なら良くやっていた。

送られて来た指定の地で浮かない為に、数ヶ月ぶりに27歳の私に戻る。仕立ての良いリネンのショートパンツにコットンシャツを羽織っただけなのに、フルメイクを施したその顔はどこからどう見ても、もう中学生には見えなかった。久々に履くルブタンのハイヒール…素足に映える鮮やかな赤がより一層それを増長させた。玄関先に置いた全身鏡の中の自分に複雑な思いが走るが、私はそれを振り切るように家を出る。

予め呼んでおいたタクシーで駅まで行き、電車を乗り継いで約1時間後には私はそこに居た。例の店のオープンまでの時間を適当な店で潰す。行く宛など無くて、ふらりと適当にそこらのカフェバーに入って軽い食事とアルコールを摂った。思えば、この世界に来てから外で酒を飲むのは始めてだった。しかしいくら飲んでも酔いやしない。頭はいつまでも鮮明に冴え、酒の味など何一つ分からなかった。

やがて腕にはめた時計が深夜2時を回って、私はようやく目的地へと向かう。メール画面の住所だけを頼りに歩いていると、一見なんの変哲も無いマンションのような建物へとぶち当たった。足元をよくよく見れば深い闇に落ちるような薄暗い地下階段を見つけ、踵の高いヒールで一歩一歩を踏みしめながら注意深く降りた。やがて看板も何も無い重厚な黒い扉が目の前に現れ……私は深呼吸をすると意を決しドアノブを捻った。


「いらっしゃいませ。お決まりで?」

「……ハイネの、ストレート」

「かしこまりました」


壁際に天上近くまで並べられた酒瓶に、やや暗めの間接照明。中に入ると、そこはなんてことのないBARだった。カウンターがあるだけの小さなフロア、空いている席へ腰掛けると直ぐ様オーダーを取られて私は聞かれるがままに注文をする。そして中に佇むマスターらしき中年男性を訝しげに眺めた。


「………お久しぶりですね」


グラスを差し出しつつその男が言った。ロックグラスに浮かんだ気泡一つない水晶のような丸氷に、手の込んだ上質な酒を出す店だとなんとなく察する。

水道水や市販のミネラルウォーターでは不純物が多く気泡の無い氷を作る事はなかなか出来ない。清らかで上質な天然水、又は手間を掛けて何度も何度も濾過された純水でなければ、このように透き通る氷というのは出来上がらないのだ。更に。型にはめて丸氷を作ろうとすれば水自体に混じり気が無くとも、注ぎ口から僅かにでも空気の粒が入ってしまう。大判に製氷されたそれを一つ一つアイスピックで丁寧に削り上げて、そして初めて、このような美しい円形の氷が完成されるのだ。では何故そこまでして円形にこだわるのか。丸い氷は溶けにくくアルコール本来の味が薄まる速度を遅らせられるから。そして、球体を保ちつつ均一に滑らかに溶けていく様は美しい。


「いや…初めてなんですけど」


こんな上等な店、一度でも訪れていたら記憶に残らない訳がない。マスターの言葉に繕うこともなく、私は不信感を露わに答えた。


「此処へ来るのは、でしょう?お会いするのは二度目です」


目が合うと柔らかく微笑むマスター。しかし。こんな人、知らない。一体いつ何処で。


「覚えてませんか?」

「………全く」

「そうですか……まぁ、貴方はあの時酷く酔っていらしたから」


正直に言えば、マスターは苦笑いでそう続けると一枚の書類を取り出してカウンター上へと滑らせた。


「契約、書…?」


自分の方に向けて置かれたそれ。そこに書かれていた文字に、私は更に眉間に皺を寄せる。


「もう嫌だ、疲れた、仕事なんかしたくない、どこか違う世界に行きたい。」


頭上から降ってくるマスターの声と、目の前の書面に書かれていた事項を同時進行で追い掛ける私。


「……貴方はあの日、しきりにそう言っていた。だからご提案をして差し上げたのです。一にも二にもなく、貴方はすぐに同意を示してそちらに判を押されました。……それも覚えてらっしゃいませんか?」


問い掛けられても私はすぐに返答が出来なかった。…記憶には無い。覚えていない。しかし…そこに書かれている文字の数々は明らかに自分の筆跡だった。名前、生年月日、両親、親類関係、生まれ故郷や現住所、歩んで来た学歴や今に至るまでの職歴……自分自身しか知り得ない様々な個人情報の羅列。事細かに書かれたそれは、自分のものだと確信せざるを得ない。

ふと書類の片隅に書かれた契約日が目に入った。

5月…16日……?

思い付いて携帯の受信メールを遡る。初めてあの可笑しなメールが届いた日…私の世界が変わった日。それは5月17日。メールと書類を照らし合わせながら私の手はいつの間にか震えていた。あの朝の前日、私はこんな得体の知れない契約を自ら交わしていたというのか。


「そんなっ…!」


酷く酔っていたのは覚えている。歓迎会を開いてくれた仲間たちと、深酒が過ぎて泥酔したまま何件かハシゴし久々に限界まで飲んだ。職場が変わり自分を取り巻く環境が大きく変化したことでストレスや鬱憤が溜まっていたのかもしれない。何かが弾けたように、感情を爆発させるようにひたすら飲み続けていたのは、ぼんやりと記憶に残っている。気分の赴くままに呑んだあの日の酒は殊更に美味かった。それも覚えている。

しかし、そんな夜が初めてという訳でもない。仕事に息詰まる度に、もしくは逆に成功を収めた時、そんな風に酒を飲むことは幾度もあったから……。だから、まさかだ。何故あの日に限ってそんな可笑しな事態となったのだ。


「たまたま、です。あの日、貴方が私と出会った。そして口にしてしまった、その願いを」


私の心を読んだかのようにマスターは冷静な口調で言った。


「願いって……そんな、酔っ払いの戯言を本気にするなんて…!」

「でも契約は交わされてしまった。貴方の自らの手によって。私とて止めたのですよ?安易に決断しても良いものか、と。しかし止める暇も無く貴方は……。ただの紙切れ一枚に見えましょうが一度交わされた契約そのものを無視して破棄でもしようものなら、私の首が飛ぶことになるのです。勝手では有りますが、ご了承頂きたい」


柔らかな口調と下手な言い回しながらも、有無を言わさない様子で男は言い切った。鋭さを感じさせる瞳に、私は思わず息を呑んで怯む。


「あなたは…一体、何者なの?」


何故この男はそんな権限を持っている。常人には到底理解が出来ない事態を前にして、背中に一筋の冷や汗が流れていった。


「ははっ、そんなに恐れないで下さいよ。死神を見るような目はよして頂きたいのですが」


当然の如く湧き出た疑問を口にすれば、再び人の良さげな笑みを取り戻したマスターに苦笑される。そんなこと言われても……正体不明の怪しげな奴を前にして普通でいろという方が無理だ。そう脳裏では反論し、私は頼んでいて忘れ掛けていたロックグラスを口元に運んだ。


「まぁ…表現の仕方が難しいのですが……。バランス調整人、とでも言いましょうかね」

「調整人…?」

「えぇ」


そんな私を前に、マスターは言葉を選ぶようにしながら説明を始めた。


「貴方はもう知ったでしょう?世界は一つではないことを」


そしてニコリと笑う。それがどういう意味なのか、分かるようで分からない…。


「それぞれの世界が健全に保たれる為には、バランスというものが必要なのですよ。それが崩れてしまわぬよう、調節するのです。」

「バランスって……人口のバランスのこと?」

「色々ですよ。対象となる事項は多岐に渡ります。…まぁ、私が受け持っているのはまさに貴方のお察し通りですけれど」


どうしよう……本格的に常識離れしていて頭が付いていかない…。理屈では何とか分かる。しかし現実として受け入れ難いよ、そんなオカルト的な話…。


「しかし……突如として生きる世界を変えられて、そう簡単に納得出来る訳もない」


それは分かる。確かに。まさにその通りだ。つい大きく頷いてしまった私を見て、マスターがクスリと笑った。


「ですから、どんな場合も期限付きでお試し頂くのが私の流儀なのです。本人が気に入らなければ元へ戻す…という選択肢を残した私のやり方を生温いという輩もいますがね。しかし貴方のように酔った勢いでアッサリ受け入れてしまう方も少なからず居る。安全策を取るに越したことはないでしょう?」


少しだけ茶目っ気を見せたマスターは、嘲笑と共に肩を竦めてみせる。恐い人ではなく、むしろ優しい人なのかもしれないと思わせる仕草だった。


「幸い、貴方が希望されたのはとある少年漫画の世界でした。期限を設けるに当たり期間の長さも丁度良い頃合いでしたので、物語の終焉と共に契約更新の通知をさせて頂いた次第です。…まぁ…厳密に言えば最終的な結末は来年の3月のようですが、貴方が関わり合いになっている彼らの出番は終わりましたからね」


そして再び凛とした表情を浮かべたマスターの説明に、ようやく自分の身に起きた全ての事態が理解出来て私は深く息を吐いた。

自分ではどうすることも出来ないと思っていた…。現実を受け入れて生きて行くしかないのだと…。


「さて、どうしますか?」

「あの……更新も終了手続きもしなかった場合はデータが消去されるっていうのはどういう意味でしょうか?」

「データ消去とは、即ち抹殺です」

「ま、抹殺…!?」

「えぇ。どちらも選ばなかった場合、生きる意志が無いと見なされどちらの世でも貴方の存在は抹消され誰の記憶にも残らず、肉体そのものも消える」


恐ろしい事実に思わず背筋が伸びた。私が"消える"。完全に…。


「どちらを選ぶかは、又は選ばないかは貴方次第ですよ」


言葉を無くした私に、マスターは穏やかに言う。…死にたくなければ否が応でも選ばなければならないという訳か。

……そこで初めて、迷っている自分に気が付く。あんなにも絶望していたというのに。本来の自分とは全く違う生き方を強いられて苦悩する日々であるのに。何故即答出来ない。"元に戻してくれ"と。


「更新受け付け期間は今日から一ヶ月。まだ時間はあります。じっくりお考えになられた方が……あの時のように酔った勢いで決めてしまわぬように」


口元にグラスを当てたまま考え込んでしまっていた私に、マスターが意地悪く言うので上目遣いで睨んでみる。すると男は鼻先で笑った。ちょっとだけこの男の性格を察したかも。間違い無くサディストだ。

私は深く息を吐いた。煙草を取り出して、火をつけながら再び思考を巡らせる。会話を続ける気の無い私に、マスターもやがて口を閉ざし黙って手元の布巾でグラスを拭いていた。…察しの良い対応。全くのプライベートで通うには居心地の良さは抜群だろうな、この店は。口元の煙草をゆっくりと吸い込みながら同時にそんなことを思った。

自分の意志で決められる。これからの自分を。どうしたいかを。一ヶ月…いや二ヶ月前なら即答出来た。なのに今は。脳裏に浮かぶたくさんの顔。唇に蘇る柔らかさと、銀髪の少年。

……決断しなければならない。秋が来る前に、私は答えを出さなければならない。


next…

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