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ネコの尻尾。
【1/54】
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51.
戦い。


幸村のあの心の叫びを目の当たりにして大変だったのは、翌日のゆかりちゃんだ。

あんな事があったからか…たまたまだったのか。朝練がなかった今日。危なげな足取りで彼女は教室へと入って来た。その目は真っ赤に充血しており、その下の鼻先も同様である。弱々しく吐かれる溜息と意気消沈した表情が今でになく悲壮で、一瞬声を掛けるのが躊躇われた。


「………だ、大丈夫?」


そんな訳はない。大丈夫なはずがない。分かっていながら、第一声で他にどんな言葉を掛けるべきなのか分からず、私は彼女の背に手を置いた。


「……っ…うっ…」


その途端にゆかりちゃんは突然口元に手を当てがい、肩を震わせる。青白くなった顔が苦痛に歪んだ。


「ごめっ……ちょっと、トイレ…!」


そのまま彼女は鞄を雑に置くと教室を走り去った。やがて何分か後に戻って来た彼女は憔悴しきった様子で席に着く。


「ゆかりちゃん…」


吐いたのだろうか…ハンカチで口元を抑える彼女が見ていられなくて呼び掛けた。その途端。私を振り返ったゆかりちゃんは、今度は大粒の涙をポロポロと流し出してギョッとする。しかし本人は既にそれを予測済みだったのか、おもむろに鞄の中から箱ティッシュを取り出し乱雑に机の上に乗せると、勢いを付けて大量に引き出して鼻をかんだ。その思いきりの良さにどこか自暴自棄な雰囲気すら感じられる。


「ゆ、ゆかりちゃん…」

「や、もぅ、なんかっ、昨日から全然止まんなくて。これ」


取り乱しているのか冷静なのか良く分からない声色で、ゆかりちゃんは続けざまにティッシュで目元を荒く拭いながら言った。しかし両の目からは止めどなく涙が流れ出る。

もはや自分ではコントロール不可ということだろうか。喚くのも号泣するのもとうに過ぎ去って脱力しきり…という表情のゆかりちゃんは、深く溜息を吐く。


「はぁ〜……。昨日さ、結局なにも話せなくて…。っていうか、なに話したらいいかわかんなくて、さ」


私たちが帰ったその後……。気にはなるが、今その事を聞いていいものなのかどうか迷っていると、ゆかりちゃんはまた溢れた涙をティッシュで堰き止めながら言った。時折肩で息をするように大きく体を上下させながら、深く息を吐く。


「もう何て言ってあげたらいいのか、」


終始ゆらゆらと不安定に揺れる彼女の瞳に、胸を裂かれる思いで何も返さず言葉が途切れるのを待つ。すると、ゆかりちゃんはまた一際大きな粒をその目から落とした。返すべき言葉にいまだ迷う私も、その苦しげな顔にはつい貰い泣きしそうになってしまう。


「ゆかりちゃん……!」


先ほどから名を呼ぶしかしてない私は、弱り切った彼女の様子が可哀想で可哀想で、尚もその名を情けない声色で呼ぶと身を屈めて思わず抱きしめてしまった。


「うっ…杉沢ちゃん……!」


ゆかりちゃんがほろほろと流す涙が、シャツの肩口にどんどん染み込んでいく。それには私の涙腺も再び緩んだ。昨日、仮にも後輩である高坂ちゃんに泣くなと言われたばかりなのに…。彼女の艶やかな黒髪とか細い背中を撫でてやりながら、目頭が熱くなった。


「……何をしとん、おまんら」

「っるさいなぁ!…しょうがないじゃんよっ、昨日の今日なんだから」


女子二人が抱き合い涙している場面に、始業時間ギリギリに現れた仁王は訝しげな表情を浮かべる。呆れ顔ではあるが、彼も事情を知らない訳ではない。そのまま短く息をつくと、致し方ないというような表情で自席に着く様子が目の端に入った。


「おーし!HR始めんぞー!皆席に着けよー……ってえぇ!?ど、どうしたそこ!?」


それと同時に教室前方の扉が開かれ、いつものように教壇に立った竹内が私たちを見て素直に驚きの声を上げる。泣き顔のまま二人で僅かに視線を向けると、「と、とりあえず、連絡事項サクッと述べるから、お、落ち着いて席に着け、な?」と、訳も分からないまま慌てている竹内に頷きつつ、私たちは沈痛な面持ちのまま朝のHRをやり過ごしたのだった。


「で?何?どうしたの!?」


自分のクラスの生徒が朝っぱらから泣いている。それを無視出来なかったのか、竹内はその後、私とゆかりちゃんを進路指導室へと連れて来た。呼ばれてないのに何故かひょこひょこと仁王が付いて来て、「いいのか?」と聞いてくる竹内に「事情は知ってるんで」とゆかりちゃんと共に答えると、長机を前に三人並んで竹内と対面することになった。


「……泣いているところを見るのも辛いし、だからといって泣かないでなんて言えないし。大丈夫だよ…なんて気休めなんかとても言えるような様子でもなくって、私は何をしてあげたらいいのか…わからないんです。私が泣いたって何の意味もないのは分かってるんですけど、そういうの見てると…つい」


てっきり言い淀むかと思ったら、ゆかりちゃんは竹内の問い掛けに素直に答えていく。昨日の幸村の様子、自分がどうしたらいいか分からないこと。鼻を啜りながら、途切れ途切れに零されていくゆかりちゃんの胸の内。

誰かに縋りたい気持ちだったのだろうか。ゆかりちゃんは躊躇う様子もなく一気に吐き出す。その声色がまた胸を打った。…この様子だと、昨夜はまともに眠れなかったのではないか。よくよく見れば目の下には隈らしきものが出来ている。


「休学中の幸村かぁ…。なるほどね、そういうことな」


私はといえば、それを聞いた竹内の顔が徐々に引き締まっていくのをじっと眺めていた。ゆかりちゃんと幸村がそういう仲だったという事実には特に驚いた様子もなく、竹内は腕を組んだままで短く息をつく。先日、彼本人の口から苦い過去を聞かされたのは記憶に新しい。好きなものを取り上げられるかもしれない絶望感を一度は体感している身に、一体何を思うのだろうかと私は素直に興味が湧いた。


「辛いだろうけどなぁ…笹原。結局はさ、自分で乗り越えるしかないんだよ」


と、思ったところで、自分が昨日口にしたのと全く同じ言葉が出て来て驚いた。そっくりそのままの同じワードに、仁王も何か思うところがあったのかピクリと肩を動かす。


「でもっ、あんな顔見てらんなくて…あんな精市くん…」

「んー。でも、一番辛いのは本人だろ?」


ゆかりちゃんの言葉に、竹内が真顔で答えた。


「誰も身代わりなんて出来ないし、誰にもホントの奥底の痛みなんて理解出来ないんだよ」

「それは……自分の体経験ですか?」


いつになく真剣な表情の竹内。普段のチャラけた彼に似合わぬ辛辣な言葉と、思わず口をついて出た私の言葉にゆかりちゃんが目を見張っていた。チラリとこちらを伺う仁王の視線に気付いたと同時に、目の前の竹内が小さく肩を竦めて苦笑い。暗黙してくれというサインだろうか……私は顎を僅かに引いて了承の意を示した。勝手に持ち出して少し申し訳ない。

それはさて置き、私は竹内の言葉に胸の中で同意していた。理解なんて出来ないだろうし、容易に理解出来るようなら、元より皆こんなに苦しまない。


「それを踏まえて、笹原はどうしたいの?」


そして不意に笑顔に切り替わった竹内が、ゆかりちゃんに問い掛ける。


「どうしたいかなんて、それは…早く元に戻って欲しい。いつもの強気な精市くんに早く戻って欲しい、です…」


苦々しい表情を浮かべて答えたゆかりちゃん。脳裏には昨夜の幸村を思い浮かべているのか、虚ろげな目をしている。


「……ちょっと待って」


私はそんな彼女の言葉に少し疑問を抱いた。問い掛けたのは自分ではなかったが、何かが頭の隅に引っ掛かって思わず口を挟む。


「あのさ、元気な顔してるだけが幸村くんなの?今の幸村くんは、幸村くんじゃないの?」


確かに、病に伏せていても見舞いに行くと、彼はいつも強気な顔を見せてくれていた。私の記憶の中の彼は、漫画でもアニメでも、実際に対面を果たした時も、いつもいつも微笑んでいた。

…でもそれが本当の彼だと言い切れるものだろうか?私たちが目にしていた幸村だけが本当の幸村ではないのかもしれない。気丈に振舞って見せていたが、もしかしたらそちらの方が幸村本人にとっては違うと感じていたら…?人の人格とは一体何を基準にし、何を指して決めるのか。"本来の"とか"元に戻る"とか、それは何を意味しているのか。


「笑ってない幸村くんは、幸村くんじゃないってこと?」

「そっ、そんなこと…!!」


脳裏でグルグルと回る疑問に考えを巡らせながら続け様に問い掛ける私に、そんなことは無いとゆかりちゃんが全力で首を振る。少々厳しい言い方だったろうか…再びゆかりちゃんの目が潤み始めてしまった。


「そんなこと無いっ!!ただ、ただ辛いだけ…苦しそうな姿見てるのが辛い!それだけだよ!」


それはそうだろうな…。私たちだって、あんな、絞り出すような張り裂けんばかりの叫び声…それだけで胸が痛んだのだ。目の前で幸村が泣き崩れる様を目にしたゆかりちゃんは、一体どれだけ辛かったことだろう。分かる。それは分かる。自分の無力さをさぞかし痛感したのだろう。

でも、でも、


「もし、ホントに復帰出来なかったらどうする?」

「えっ」

「本当にテニスが出来なくなってしまったら?もし、本当に幸村くんの余命が僅かなら?」


私の唐突な問い掛けに、ゆかりちゃんの顔が強張った。その頬から血の気が引いていく。

皆は、こういう"もしも"のことを口にした事があるんだろうか。私が思うに、一度くらいは考えたことがあるんじゃないかと思う。数ヶ月に渡る入院生活、難病と言われる病に伏せた彼。恐いから口にしないだけで、きっと皆…。むしろ今だからこそ、その"もしも"をリアルに感じているのかもしれない。


「可能性はゼロじゃないよ?その時、どうする?」


それは意地悪でもなんでもなくて、ただの単純な問い掛けであった。私は物語のあらすじを知っているからどっかで楽観視していられるけど、彼女にとっては、彼らにとっては未来なんて全く分からないままだ。"どうする?"なんて、今まさにそれで悩んでいるだろうに残酷な投げ掛けかとも思う。

しかし、私は何もゆかりちゃんを追い詰めたくて言っている訳じゃない。ただ向き合う事が必要なんじゃないかと思うのだ。この現実から目を逸らさずに…。


「……そげん言い方は好かんの」


なかなか返答が返ってこなくて、青白い顔をしたゆかりちゃんを見つめていたら、それまで無言だった仁王が重い空気の中を裂く様に言った。険の帯びた声色は明らかに私を責めている。なぜそんな事を口にするのか、と。


「……そんな言い方って?」

「端っから諦めとる言い方じゃき」

「別に。諦めてるんじゃない」

「したら聞くまでもないじゃろ…意味の無いことじゃ、そげん問いは」

「そうかな…?諦めるってのと、現実を受け止めるのは違うよ。少なくとも幸村くんは今それに直面してるんじゃないの?」


どうにもならないって投げ捨てるのと、今目の前に起きている事を真正面から見つめるのは違う。言葉の言い回しが違うだけと言われればそれまでかもしれない。しかしその微妙な違いこそ、大事ではないのかと思う。私は眉間に皺を寄せた仁王を真正面から見据えて答えた。


「そういう立場に、今、幸村くんがいるってちゃんと受け止めないと。受け止めて、しっかり彼を見ていないとどんな言葉も伝わらない気がする。覚悟の無い発言は見抜くよ、今の幸村くんは」


逃げてたって気付かないふりしてたって、人間誰しもいつかは限界が来る。押し留められれば押し留めただけ、募った感情は暴走する。張り詰めていた糸が切れるように。プツリと何かが弾けるように。他人には見せたくない黒く渦巻く感情は、いつしか自分を追い詰めていく。その苦悩や葛藤は計り知れない。

だから幸村は壊れた。明日がどうなるか分からない毎日の中で、生死の狭間で揺れる幸村の気持ちなど健康体で生きている人間には、到底分かるはずもない。病に犯され誰とも共有することのない不安の中を生きる彼は、きっと人の気持ちも敏感に察するだろう。


「無責任な発言とか、偽善ぶった言葉が一番傷つけると思う」

「なんね。俺らの何が、どこがどう無責任で偽善だっちゅうんじゃ」

「別に……今までの皆がそうとは言ってないけどさ」


売り言葉に買い言葉…とまではいかずとも、やや不穏を纏う空気が流れた。仁王は赤ら様に不機嫌となっている。今まで自分たちがしてきたことを否定されたように感じたのだろうか…。違う、そうじゃない。私が言いたいのはそうじゃなくて。


「皆が悪いとかじゃなくて…!病気は幸村くんのものだし、私たちが何したって、向き合わなきゃなんないのは幸村くんなんだよ。嫌でも考えなきゃなんない。その時が来ただけなんだよ、たぶん」


いってしまえば、彼のあの精神の崩壊は当たり前に起きたことだったと思うのだ。自分の命が無くなるかもしれないという時に、自分を失うかもしれない時に平気でいられる奴なんていない。


「だから、そういう幸村くんを認めてあげなきゃ、何をしても伝わらない気がするんだよ」


それを締め括りにして、私は仁王から視線を外した。言いたかった事が伝わったのかは不明だが、もう他に言いようがない。というか、これ以上は上手く説明出来るかが不安で口を噤んだ。幸い視線を先に逸らした私に、仁王はそれ以上言及しては来ない。


「……あ、あたしは!…あたしは、近くにいたい。精市くんの言ってること否定もしたくないし、かといって何もかも無理だなんて肯定したくもない…。だから結局何も出来ないんだけど!でも、もっともっと精市くんの側にいたいって、もっともっと近くにいたいって…!そう思う…!」


若干気持ちが落ち着いたのだろうか。聞こえて来た声に顔を向けると、ゆかりちゃんはそれまで垂れ流しだった涙を必死に堪えて、真剣な面持ちで力強く言い切った。


「………うん、いいんじゃない?」


その言葉に、竹内は笑顔を浮かべていた。


「笹原の前で幸村は泣いたんだろ?だったら受け止めてやればいいのさ、それを」


竹内が穏やかな顔で言う言葉を、ゆかりちゃんはきょとんとした顔で聞いた。おのずと、私と仁王もその言葉の先を黙って待つ。


「感情ってのはなぁ、プラスだろうかマイナスだろうが奥底から絞り出されたもんってのには、とてつもないパワーがあるんだよ。全力でぶつけられたんなら、全力で受け止めてやれ。そして自分も全力で返せ。本気で伝えたいなら、相手のパワーに負けるなよ」


竹内は真っ直ぐにゆかりちゃんの目を見つめ続けて、一言一言、大事に繋いでいく。その言葉は自分に向けられたものではないのに、何故かずっしりと胸に響いた。こんなにも重みがあるのは竹内自身がそれを実感しているからだろうか。

確かに竹内の言うように、幸村本人が苦しんでいるのも皆がそれを心配するのも、双方どちらも譲れない真実であり誰にも否定などされたくないだろう。


「ある意味戦いだぜ?感情のぶつけ合いってのはさ」


そして、竹内は歯を出して笑った。キリリとした表情を崩した彼に、ふっとゆかりちゃんの肩の力が抜けて緊張が解けたのが分かった。聞こえくる小さな呼吸音。小さく吐かれた柔らかい溜息は、やや長めに続く。


「……精市くんは強いから、負けないように頑張らないとね」


そして少しだけ戯けた口調で、柔らかい笑みを零したゆかりちゃんに、私はようやく安心した。

私が思うに、幸村は彼女の前だったからこそ感情を爆発させられたと思うのだ。それをどう受け止めるかはゆかりちゃん次第。そんな幸村も幸村なのだと、優しい心で包み込んであげて欲しいと思うのは、十代の少女には荷が重いことだろうか……。しかし、今穏やかに頷いたゆかりちゃんは、きっと幸村の支えになれるはずだと私は信じたい。後に進路指導室を出て、「きついこと言ってゴメン」と謝った私に暖かい笑みを返してくれた彼女は、きっと。そして祈る。大切な友人たちが、早く笑顔を取り戻せますように。


next…

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