32.
彼女たちの恋煩い。
窓の外は雨。
もう六月も後半に差し掛かるというのに、一向に梅雨が明ける気配はない。勢い良く降り注ぐ雨にしばし視線を奪われ溜息を吐き、視線を前に戻したら長い廊下の先に佇む一つの影に気が付いた。
どっかで見覚えのある、やたらと目立つ耳元。長い髪の隙間からそれをチラつかせながら、グロスで艶やかに演出された唇をやや尖らせてじっと窓の外を見据えている。僅かに顎を引いた瞬間に、耳元のハート型ピアスがふわりと揺れた。感情を浮かばせない無表情な瞳。その先にあるのは……
テニスコート……?
視線の先を辿って脳裏で呟いたと同時に、彼女は短く息を吐いて振り向いた。そして目が合う。
「……何よ?」
あ………蝶に成りたい蛹ちゃん。
途端に怪訝そうに歪められた眉に、私はいつかの更衣室での出来事を思い出した。仁王は彼女を評して『蛾』と言ったが、私の中ではそんな例えの方がしっくり来ている。その蛹ちゃんが、私の姿を見下すような目をして再び口を開いた。
「アンタ、拉致られたんだってぇ?気の毒ねぇ〜編入生のくせに出しゃばるからよ」
腕を組んで眉を大袈裟に動かしながら言うそのセリフには何の根拠も無く、私は溜息を吐く。
「……そうかもね。」
この調子じゃ相手にした所でマトモな会話が出来るとは思わないな。思春期特有のそのバリバリに去勢を張った態度に真正面から向き合う気力も無く、私はそう言うと彼女の横をすり抜け歩を進めた。
「ちょっと!待ちなさいよ!」
「……何でしょうか?」
「今日………テニス部は?」
と、すれ違いざまに蛹ちゃんが言う。既に視線を逸らしていた私は、その言葉に少々驚き彼女を再度振り向いた。目を鋭く尖らせて不本意そうな顔をして、それでも私の返答をじっと待っている。私から顔を背けて窓の外を睨みつけるように見つめる彼女の横顔に、あぁ…そうか…と思い立った。
「……ミーティングと簡単な屋内トレーニングだけで、今日は終わった」
「……あっそ!」
自分から聞いておいてなんだよその態度。と、つい思ってしまう程、彼女は素っ気ない返事と共に踵を返して私とは逆方向へ立ち去って行く。
パンツが見えそうな程に短いスカートからスラリと伸びた白い脚。背中でテンポ良く揺れる緩る巻きのロングヘアを、私は溜息混じりに見つめた。
メイクしただけであんなに派手顔になるという事は、元々の造り自体が華やかなのか。あんだけ際立つ顔立ちであんだけグラマラスなスタイルなら、それなりにおモテになるだろうに……。何でまた、あんな堅物なんぞに。
………まぁ、人の好みなんて千差万別。真逆なタイプに惹かれてしまうなんて事も、世に溢れたよくある恋愛の形だ。いつか聞いた蛹ちゃんの真田に対する気持ちに、私は胸の中だけで小さく笑う。あんなにつっけんどんでは想われている方の真田も、さぞかし苦労するのではないか。
まぁ、自分のことが上手くいかない苛立ちを目に付く端から他人にぶつけてしまうようではまだまだ…かな?……なんて偉そうに言える程、私も大した恋愛はしてきていないけど。遠ざかる背中に一人で嘲笑した。
実は先の私の拉致事件。犯人候補としてあの蛹ちゃんも挙がっているらしい。あやふやなのは、私自身があまり本気になって事実を突き止めようとしてないからだが、先程の彼女の姿には、なんとなくそれは違う様な気がした。
遠い視線の先にそこには居ない想い人を浮かべて、切なげに揺れていた瞳。熱の篭った眼で、静かにテニスコートを見つめていた彼女の横顔。誰かを想ってあんな風な顔をする子が、あの様に人を貶めるものだろうか?自分の気持ちが通じずに苦しい想いをして、それを胸に秘めながら毎日を過ごす子が。
いや、確かに私を倉庫に閉じ込めた犯人だって同じ様な感情を持っているのかもしれないが、蛹ちゃんはもっとこう……どちらかと言えば、真っ向から喧嘩するタイプのように感じるのだ。でなければ、遭遇第一声で、あんな臆せず酷い事が言えるだろうか。
そんな彼女の性格は、いっそ清々しい気もする。
「えぇ〜!?それは買い被り過ぎじゃないですかぁ!?」
「……やっぱそう?」
教室に忘れた筆記用具を取りに行く道中だった私は、部室に戻るとゆかりちゃんや高坂ちゃんに先程の蛹ちゃんとのやり取りを話して聞かせた。
彼女への個人的見解を述べると、部日誌を書いていた高坂ちゃんがペン先を私に向けながら凄い勢いで否定する。彼女の言葉に少々自信が無くなってしまうのは、よく知りもしない人物を好き勝手に考察しているという自覚が、自分でもあるからだ。
「でも、ゆかりちゃんがマトモに相手にしないのは、つまんない言い掛かりしてるだけって思うからでしょ?」
「うーん、あの子には顔合わせた時にぐちぐち言われるだけだしねぇ」
「それを集団戦でやって来るから質悪いんですよ〜!!」
ゆかりちゃんは私の言葉に僅かに納得しかけているようだが、あくまで高坂ちゃんは否定的だ。よっぽど嫌いらしいというのが良く分かる。
「自分が気に入らないってだけで、公衆の面前で他人の悪口言うなんてサイテーです!」
高坂ちゃんも直接何か言われた経験があるのだろうか…。強く言い切った彼女に、私とゆかりちゃんは目を合わせて苦笑した。
「そもそも、あのギャルが真田副部長を好きな理由が謎ですよ!」
「も〜、それ言ったら埒明かないじゃん!」
「まぁ…人の好みなんてそれぞれじゃない?」
「えぇ〜?…じゃ、杉沢先輩はアリですか?真田副部長」
「ちょっ…!なんでそういう話になるかなぁ」
と、思わぬ所に飛んだ話題。女子っていうものは、ホントこの手の話題が好きだなぁ…と、苦笑が漏れる。返事はせずにそのまま軽く笑いを零していると、ゆかりちゃんと高坂ちゃんが好奇の目を向けて来るので、私は少し考えて口を開いた。
「アリ、だね」
「えぇー!?マジ!?」
「うそぉ!?本気ですか先輩!」
そして期待に答えるべく、率直な意見を端的に答えると、二人から驚きの声が上がる。
「実直で真っ直ぐで、付き合う相手としては悪くないんじゃないかなぁ」
こちとら、腐ってもテニプリ好きだ。それはもう、長きに渡って幾多のテニキャラを相手に妄想をし続けた身。真田弦一郎というキャラにだって余裕で萌えを感じられてしまうほど、既に脳内が侵食されている。彼のような堅物人間との恋愛でも、想像するとそれなりに楽しい。
「意外〜……杉沢ちゃんが一番興味ないタイプだと思ってた」
「いやぁ、興味あるとか無いとかじゃないけどさ…。あくまで付き合えるかどうかって事だけね」
「どういう意味ですかそれ?」
「好みかどうかってのは、また別ってこと」
これがまた微妙なところで、付き合える=男として見たときに嫌悪感が無いというだけで、それが直ぐに恋愛感情に繋がるのかといえば、私にとってそれはイコールにはならない。
「それって何が違うんですか?」
「うーん……何だろねぇ?」
どこがどう違うと問われると、自分でもよく分からないのだが……。
上手い具合の説明が思い浮かばす、私は高坂ちゃんの言葉には首を捻った。こればっかりは、どう区別を付けているのか自分でも不明確なのだ。"気付いたら好きになっていた"というのがパターン化しているので、今まで好意を寄せた相手の共通項と言われてもなかなか思いつかない。………まぁ、強いていうなら、
「顔?」
「えー!?結局そこに行っちゃうんですかぁ!?」
「あはは」
「成る程、性格はイイけど顔が無しってことなのね。真田くんのことは」
「なんかそれ、サイテーな奴だね私」
と、ゆかりちゃんの言い回しに再び笑いが出る。ホントは真田のあの渋顔だって嫌いじゃないのだが、口にすればややこしくなるので敢えて言葉にはしなかった。
ついでにいえば、顔だけが良ければいいという訳でもないし、性格だけが良ければいいという訳でもない。生理的に受け付けられる容姿、自分の性格との相性やフィーリング、金銭感覚や価値観を互いにどこまで譲り合えるか……などなど。様々な面においてのバランスが重要、というのが自論だ。
………が、所詮はただの雑談。今この場でこだわって熱弁する所じゃないだろう。
「じゃあ、杉沢ちゃんの好みの顔って?うちのレギュラーん中でいうと誰?」
と、頭の中でのみ長ったらしく返事を返していた私は、次いでゆかりちゃんが聞いて来た問いにこれぞ"女子"的会話だなぁ…と、苦笑した。
後輩に仕事を押し付けとっくに権限委任してしまった彼女は、もうする事も無く暇なのだろう。パイプ椅子に座り頬杖を付きながら、宙に浮かせた脚をブラブラと揺らしている。心無しか面白がられているような気がしないでもないが、まぁ別に不快にも思わないので私は再び口を開いた。
レギュラーの中で言うと、なんて、そりゃやっぱり。
「仁王くんかな」
隠す必要もないので、私は思いきってストレートに言う。こういうのは下手に隠そうとするから変に囃し立てられるのである。早いうちに晒し出しておけば、案外、害は少なく収まったりするもんだ。
「えっ、雅治!?」
「うん。あたしヒラメ顔みたいなの好きなんだよね」
「ヒラメ顔って…何ですか?」
「パーツの一つ一つが薄味っていうか、しつこく無いっていうか。サッパリした顔がイイの」
「薄味、ですか…。分かるようで分からないですよ〜!」
「へぇ〜……初耳!確かに色素は薄いよねぇ、肌白いし」
フンフンと、頭上の斜め上に視線を飛ばして小刻みに頷くゆかりちゃん、その頭には仁王を思い浮かばせているんだろう。そして、実に楽し気な笑みで言う。
「じゃあ付き合う相手としても、アリ?」
「ん?…んー…まぁ……でも、ああいうのは本気んなったら振り回されて身を滅ぼしそうだし……」
あんな無表情男、何を考えているのか分からなくて言動や行動を常に勘繰らされて、たぶん、付き合う相手としてはすっごい疲れる相手なんじゃないか…。って、………待て。何を本気で答えているんだ私は…。
「………まっ、真田くんがアリで、仁王くんがナシってことも無いでしょ」
ついつい本音が出そうになり、慌てて我に返った私は努めて軽いノリを装って言った。第一、本気で悩んだところでなんの意味も無い。どうしたって、私が仁王とそうなるとか…有り得ないんだから。絶対それは有り得てはいけないのだから。そういう距離にいるのだ、私と仁王は。
「それにねぇ……モヤシっ子じゃん、仁王くんて」
「顔の次は身体ですか!杉沢先輩、意外と欲張りー!」
と、顎先に指を宛てて、わざとらしく不満顔を作って言葉を続けると高坂ちゃんから突っ込みが入った。更に「並んで歩いて女が廃るような奴はちょっとねぇ」なんて、冗談100%で言えば、彼女たちは盛大に笑ってくれる。こうして私は自分の本心を覆い隠した。
「高坂ちゃんは?やっぱり切原みたいなのがいいの?」
そして話題を変える。心を読まれまいと、私は小狡い手を使って彼女たちの感心を別へと向けた。ごめんね。どうしても気付かれる訳にはいかないからさ…。
「な!?ちょっと待って下さいよー!なんでそこで赤也の名前が出るんですか!」
「なんでって…実希子、アンタいい加減白状したらどう?」
「まさか自覚無し…ってこともないでしょ?」
「じ、自覚って!ななな、なんですかそれ」
「えぇ〜?自覚っていうのは……なんか、こうさ……」
自分のことは気付かれたくないくせに、人の事は暴きたがる。つくづく嫌な奴だな、私。
しかし、的にしてしまって申し訳ないと思いつつ話題の中心から逃れようと高坂ちゃんに刃を向けて、私は椅子に座る彼女の傍へと寄るとおもむろに鎖骨下辺りに手を置いた。
「この辺が、ドキドキしない?」
そして斜め下の高坂ちゃんの顔を間近で覗き込みながら、口の端を上げる。
「なななな!?なに言って…!」
「やだぁー!実希子、顔真っ赤だし!」
「ほらやっぱり。ドキドキしてんじゃない」
「今のはどっちかっていうと杉沢先輩があんな事するから……!!」
耳まで赤くして叫ぶ高坂ちゃんに、確信犯の私は声を出して笑った。慌てふためく彼女の挙動が可愛くて、早く素直になればいいのに、早くそんな姿を切原に見せてしまえばいいのにと思った。だってこの子の立場なら、それが許されるんだもの。
「で、するの?しないの?」
「ま、まだ聞きますか…!」
一頻り笑うと私は再度問い掛ける。質問の意味はもう分かるだろう。
「そ、それは…その…」
すると、手にしたボールペンを落ち着きの無い動作で高速で揺らす高坂ちゃんは、赤い顔を俯かせて口を尖らせた。ハッキリと否定しないその態度で、もう答えは分かっている。ニヤニヤしながらそんな彼女を見つめているゆかりちゃんもそれは気付いているようだが、二人で顔を見合わせるも、ただ黙って見守った。
「ど……ドキドキ、します」
「へぇ〜誰に?」
「だから…!それは、あ…あ…あ」
「あ?、何ー?」
「あーもーッ!二人して何なんですか今日は!?赤也にですよッ赤也に!」
「俺が何だっつうんだぁ?」
「きゃあぁあぁぁあ!!」
と、そこへ突然部室のドアが空いて、高坂ちゃんは死んだ。
とっくにレギュラー陣は帰ったと思って、油断していたからこそこんな会話を繰り広げられていたというのに、忘れ物を取りに来たという切原の出現でその幕は閉じることとなる。
机に突っ伏して顔を上げられなくなった高坂ちゃんを前に、いつものような悪ノリで茶々を入れた切原がその脛を容赦無く蹴り上げられて悶える様を、私とゆかりちゃんは盛大に笑い飛ばした。通常より三割増しで不機嫌な高坂ちゃんが、私たちからすれば、とてつもなく可愛くて仕方ない。
おまけに帰り際にポツリと、「なんでいつも喧嘩になっちゃうんだろ…そんなつもりないのに」と、目を潤ませる高坂ちゃんに「そこは無自覚なのかよ」「あんだけ突っかかっておいて?」と、二人で突っ込みを入れておいた。
next…
【32/50】
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ネコの尻尾。