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ネコの尻尾。
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29.
自覚症状、あらわる。



………なんなんだろう、この状況は。

我が家の自慢の一つである対面式キッチン。そのカウンターの向こう側で、伏せ目がちな仁王が器用に包丁を動かしている。その手慣れた様子には、普段から頻繁に扱っているのだろうと察しられた。

林檎に次いで、一般的に綺麗に剥くのが難しいと言われている桃でさえ、難なくクリア。一つ…また一つ…と、手に取っては次々に剥いていくのを、私はじっと見つめていた。

ーーー『林檎と桃、どっちがいい?』

その問い掛けに放心状態となりよくよく考えずに口から滑り出たのは、『どっちも食べたい』という随分と食い意地の張った言葉だった。私の返答に『欲ばりじゃ』と軽く鼻で笑った仁王が、次いで『包丁とまな板は?』とか『皿とフォークは?』とか端的に聞いて来る。狐に摘ままれた気分で逐一返答を返し、やがて無言になった仁王は黙々と林檎の皮を剥き始めたのだった。

声を掛けるのも躊躇われるような雰囲気を醸し出す仁王に、私は何も言えずにリビングのソファへ膝を抱えて座り込んでいた。その内、背筋から首筋まで駆け上がった悪寒に耐え切れず、背もたれに脱ぎ捨ててあったパーカーを羽織って口を覆うようにジッパーを引き上げながら、スルスルと器用に林檎の皮を順調に剥いていく彼をじっと見た。

相も変わらず、何を考えているのか仁王の思考は読み取りにくい。なんで、どうして、と、率直に聞きたい気分なのだがその切り出し方に迷う私は、結局、長い手先が器用に動くのを無言で眺め続けているだけ。時折仁王は手に付いた果汁を舌先で吸い取ったり、切り分けた際に零れた落ちた欠片を摘み食いする。

やけに静寂が広がる中で、私は身体を襲う気怠さに負けてソファに身体を横たえると、今度は視界の斜め上に移動したその姿を不思議な気持ちで眺めていた。上がり続ける体温と、掠れるような喉の痛みで呼吸が辛く、薄く開けた口と鼻の両方から息を吐き出す。

案外大きく出てしまったその荒い息に、手元に落としていた視線を少しだけ上げて上目遣いになった仁王と目が合うが、彼は薄い唇を少しだけ緩めると鼻で笑っただけで何も言わなかった。なんなのその表情…と、喰ってかかりたいがそんな気力もない。

未だ39℃近い熱に浮かされて朦朧とする意識の中、自宅のキッチンに他人が入り込むこの独特の違和感を久々に感じていた。気軽に他人を家の中に上げる質ではなかったが、引っ越して来てから、親しい友人や家族でさえ入ったことがなかったこの部屋に仁王雅治がいるなんて。彼が登場する漫画本を、ちゃんと仕舞っておいてよかった…。

などと考えているうちに、やがてコトン…とガラステーブルに二つの皿が静かに置かれた。それぞれ形良く櫛形に整えられた剥き身の林檎と白桃に、食欲がそそられる。横たえていた身体をむくりと起き上がらせて、手を付ける前にソファの傍に立つ仁王を見上げた。


「……ど、どうも」

「…どういたしまして」


すると短く息を吐いた仁王は、踵を返して床に放ったままだった鞄を手に取った。背中を向けた彼の爪先が、玄関へと向かっているのに気付く。


「……か、帰るの?」

「ん…これから練習じゃけぇ」


短い返事と共に、仁王が後ろ手を軽く上げて歩き進んで行く。あっという間にリビングから姿を消した仁王に、はたと我に返ってソファから立ち上がると急いで追い掛けた。一体何しに来たんだこの人は……まさか、ホントにただ果物剥きに来ただけ?

テニスバックを肩に担ぎ、さっさと靴を履いてしまった仁王が無言でドアノブに手を掛けたと同時に、私は咄嗟に彼の腕を掴む。


「あっ………いや、あの」


仁王が些か驚いた様子で振り返るが、口を開く気配の全く無い彼に反射で動いてしまった私は言い淀む。


「…ぶ、部活帰りじゃないの?」

「部活は終わっとう。……これから皆でテニスクラブぜよ」

「あー…そっか」


何を話すか考えて引き止めた訳ではなく、聞いてはみたが大して気に留めていなかった話題なので会話はすぐに途切れた。

沈黙が訪れて、この場をどうしようかと逡巡する。いつもならば仁王との間の沈黙なんて気にならないのに、何故今日に限ってこんなに気まずい。一回りも下の少年を前にして、何を緊張しているんだろう…と自分自身に問い掛けて、不意に思い出した。

そうだ……。まだ、礼が言えてなかったんだっけ……。


「あの…昨日ありがとね。…あと、今日も」


何に対してかは、勝手に察してくれ。そんなに無表情ではこちらもベラベラと喋る気にはなれないじゃないかと、心の中で愚痴を零しながら短く伝えた。


「……熱は?」

「へ?」

「まだ下がらんと?」

「あ、あぁ…うん」

「明日も休むんか」

「さぁ……熱が下がれば行くけど」

「……ほうか。…うつされても困るきに、しばらく休んどったらどうじゃ」


すると帰り際になってようやくまともに喋り出した仁王。心無しか口調が普段より柔らかに聞こえるのは、気のせいか。それでもやはり口数は少なくて、会話が途切れると仁王は再びドアノブに手を掛けた。


「お大事に」


そのまま黙って出て行くのかと思ったら、仁王がもう一度振り返る。しかし何か言うのかと思ったらやっぱり無言で、そして、何を思ったか二度ほど私の頭を軽く叩くと、今度こそ仁王は出て行った。

な、なに?……今の。

パタン、と静かに閉じられた玄関のドアの向こうにその背中を想像して、途端に胸が鳴り出したのは一体何なのだろうか。部屋に上がられると困るとあんなに焦っていたのに、アッサリ帰られて寂しさを感じているのは何故。

これは……
この感覚は……

もしかしたら、いよいよ最もやばいフラグが立ってしまったのではなかろうか………。

逸る胸に幾多の過去の経験から自らの感情が何処へ向かって走り出しているのか、目敏く勘付いてしまう。それが何なのか分からないなんて、そんな初心な少女では無くなった我が身を呪いたい。

よろよろとリビングに戻ると、テーブルの上に乗せられた林檎と桃を見つめて私は深く息を吐いた。おもむろに手を伸ばして、たっぷりと蜜が乗った林檎と果汁を含ませた瑞々しい白桃を順に口に入れる。それと同時に先程までキッチンに立っていた仁王の姿が脳裏に思い返され、口元が緩んでしまっている自分も誤魔化せない。

思わずその甘い味わいに盛大に溜息を零して……やばい、これはやばいぞ、と、立て続けに再度深い溜息を吐き出した。どうしよう…。中学生相手に、まさか押し倒す訳にもいかないし。どうしよう………。


next…



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