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ネコの尻尾。
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28.
猫の気まぐれ。



「んじゃ、お前ら気を付けて帰れよ!」


雨の中、開け放した運転席側のドアに滑り込みながら竹内が言う。その反対側の窓の外では、テニス部のレギュラー陣とマネージャー陣が勢揃いしていた。昇降口に横付けした車の後部に座って彼らを眺めていたら、ゆかりちゃんが何が言いた気な顔をしているのに気がついて、僅かに窓を開けた。


「杉沢ちゃん……お大事にねっ」


すると素早く駆け寄って来た彼女は、相変わらず目を潤ませたままで言うので口元を緩めて頷く。

先ほどの旧校舎から脱出後、部室で待ってくれていた彼女に力の限り抱き締められた。涙声で、よかった、よかった…と繰り返すゆかりちゃんの言葉が嬉しくて、首に巻きついた彼女のか細い腕に人に慕われることの暖かさを実感した。


「ありがと。ほら、戻んないと濡れちゃうよ」


降りしきる雨の中でもそんなことは一向に構わないという素振りのゆかりちゃんを、苦笑いしながら諭す。八の字に下がった眉尻が可愛らしく、そして申し訳なくなるのに、今の私には何よりも嬉しさが勝っていた。


「おい笹原、具合の悪い奴をあまり引き留めるな。早く行かせてやれ」

「うん、そだね…!ごめん」

「いや、いいって。ありがとね」


と、さりげなく彼女に傘を傾ける真田。たまには気の効いたことも出来るじゃないか。


「真田くん…今日は迷惑掛けたね。病院行ったらまた報告するから」

「うむ、了解した」


教師達へ私が行方不明となったことの詳細を伝えたのは、この真田本人だったらしい。包み隠さず報告を挙げることが、実行犯への戒めになるだろうという判断だったそうだ。変に騒ぎ立ててしまって申し訳ないが…と、謝りを入れてくれた真田の気持ちも胸に響いた。

真田やゆかりちゃんだけじゃない。皆、私の身を案じて色々と動いてくれたのだという。旧校舎の中を探して回っていたのは仁王や丸井、柳生の三人だったが、それ以外にも他の可能性を探って皆、学校内の至る所を駆け回っていたらしい。

私が見つかったと仁王が連絡を入れると、ある者は息を切らして、ある者は汗を拭いながらゾロゾロと現れた時は驚いた。それと同時に胸が熱くなって、閉じ込められていた間に感じていた絶望感が不思議と和らいでいた。

そんなに不安を感じていたのだろうか…自分は。と、そう自覚せざるを得ないぐらいに私は心の奥底から安心しきっていた。あれだけの孤独感を感じていたというのに……現金で単純な生き物だな……人って。感謝しなければならないだろう…探してくれた事にも、私をそんな気持ちにさせてくれた事にも………。


「よし!んじゃー車出すぞー」

「………お願いします」


その感謝を今伝えていいものかどうか迷っているうちに、会話に区切りがつくのを見計らっていた竹内が車を発進させて、私はまたタイミングを失ってしまう。

夜間受付の救急病院へと連れて行ってくれるという竹内に甘え、これから向かうところなのだ。今の私にはこんな時間に駆け付けてくれる保護者も居ないし、例えばリアルな実年齢でこんな状況だったとしても、素直に有難いと思う。

倉庫から出た私は仁王たちに連れられて部室に向かい、それから直ぐ職員室に行って竹内へ事の経緯を報告し、水泳部御用達のシャワールームを使わせてもらって埃まみれの身体を洗い流して、薄汚れたジャージから制服に着替え終えた頃には、既に22時を回っていた。このまま病院へ行き、薬を貰って自宅へ帰れば、長かった一日が、ようやく終わる……。

そんな安堵感に包まれながらゆっくりと動き出す車の中で、見送りをしてくれているテニス部の皆を眺めていたら、その中の一人と目が合った。何を考えているのか分からない顔で、仁王の薄く開いた切れ長な目が私に向けられている。視線が合ってもその表情は崩れることはなく、その瞳の奥ではどんな感情を隠しているのか。

熱に浮かされてはっきりしない思考の頭を背もたれに力無く預けたまま、私も仁王を見つめた。息を切らし呼吸を荒くして焦燥を露わにした彼は、とっくにもうその姿を影に潜めている。互いの視線が交わっても、何かを感じ取れそうで何も感じ取れない。結局それにどんな意味が合ったのかは不明確で、やがて車が加速してもバックミラーに映った遠ざかるシルバーアッシュの頭を、私は見つめ続けた。


「大丈夫かー?」


しばらくしてその姿が視界から消えても、視線を動かせずにいる私。大人しい私を心配してか運転席から竹内の声がして、おもむろに口を開いた。


「………ねぇ、竹内」

「ん?どした?」

「……急に一人になるって、なんか寂しいね」


無意識に零れた言葉。そんなの毎日のことなのに。何故そんな事を呟いたか、自分でも良く分からなかった。


身体を冷やし続けた事で風邪を引き起こし掛けている、引き始めなので今後症状が表れてくるかもしれないと、そう診断した医師の言う通り翌日になって咳や喉の痛みを感じる。

相変わらず熱は高く、学校を休んだ。竹内からは昨日のうちに休んでいいと言われていたので、特に学校へは連絡はしていない。一応、ゆかりちゃんと真田へはその旨を伝えるメールを入れた。

寝室に籠りっぱなしで寝たり起きたりを繰り返して一日が過ぎ、夕方近くになってようやくお腹が空き始めた私は観念して布団から這い出る。具合は悪くても腹は減るのだ。いくら億劫でも面倒でも、昔からの自分の習性には誤魔化し様がなくて、私はフラつく身体でキッチンを漁った。喉の痛みが半端ないのでろくに食べられない気もするが、薬を飲む為にも何か胃に入れなければならないだろう。

それにしたって屈むだけでも一苦労だ…。高熱による関節痛を身体の節々に感じながらも、私はキッチンに備え付けのあらゆる引き出しを開けたり閉めたりを繰り返す。確か、レトルトのお粥があったような無かったような……。


ーーーピンポーン


と、そこへインターフォンが鳴って些か驚いた。この生活になって初めて鳴ったソレ。何しろ以前の人間関係を全て失ってしまった私には、この部屋を訪れるような親密な仲の人間はとうに居ない。新聞とか、通販とか、そんな類のつまらない勧誘だろうか……。


「……はぁーい」


と、安直に考えて、それならば無視すればいいのに。何を思ったか、うっかり応答ボタンを押してしまった。

只それだけのことさえ普段通りに行動に出来てない私はやっぱり調子がよろしくないのだと、インターフォンに向かい返事まで返してしまった自分に溜息を吐いて………液晶画面に映し出されたシルバーアッシュに固まった。

やばい。

そう直感しても後の祭り。返事は無いが、いつものポーカーフェイスで私がオートロックを解除するのを玄関ロビーでじっと待っている、此処に現れるには意外過ぎる男。

え。
なんで。

と、口の中では何度もそれを繰り返す。


「…………はよ開けんか」


と、画面の中の仁王は痺れを切らした様子で溜息をつき、後ろ首を抑えて眉間に皺を寄せていた。

えっ…や…嫌なんですけど…。

何しろ、中学生生活を送ってるとは云えども、自分のテリトリーであるこの部屋の中にはそれらしくない物で溢れている。見られてまずい物は一つや二つどころではない。

と、心の中では焦りまくるが一度返事をしてしまった手前、今更寝たふりを決め込んで無視するのも不自然だ……。いや、待て待て待て。そうだ、部屋に上げなければいいのだ、玄関先で要件を聞いて直ぐに帰せばいい。嫌がる相手に、それも体調不良の人間相手に無理強いなどさすがにしないだろう…うん、たぶん、さすがの仁王も、きっと。


「おい、聞いとるんか?」

「は、はい…!い、今開けます…!」


高熱の頭をフル回転させた私は、急かす仁王に促されるまま解錠ボタンを押す。慌ててリビングを見回し、玄関先で追い返せばいいと思いながらも万が一を考えてテーブルの上の煙草と灰皿を真っ先に片付ける。

次に間続きの寝室の壁に掛けっぱなしになっていたスーツをクローゼットに押し込み、出しっ放しになっていた以前の仕事関係の書類を乱雑にまとめて適当に隠して、床に置きっ放しにしていた、とてもじゃないが中学生には年齢不相応年なファッション誌をキッチンのポリ袋に放り入れたと同時に、部屋直通の呼鈴が鳴った。

最後の最後、自分が寝巻きのあられの無い格好のままだということに気付いたが病人なので致し方ないだろうとそれは諦める。

熱のある身体で急激に動き回ったせいで足元がフラつくのを感じながら、私は意を決して玄関のドアを開けた。

……あとは…どうか廊下脇の洋室には気付かないでくれ……!と、願うばかりだ………。


「な、何でしょう…」


扉を開けると、仁王が相変わらずのポーカーフェイスで突っ立っている。部活帰りなのか制服姿の彼はテニスバックを肩から下げ、片手をポケットに突っ込んだままもう一方の手に………

手に持っているそれは何。


「お邪魔します」

「え、ちょ、待った、なにそれ」

「……どきんしゃい、そこ」


と、その手に握られた白いビニール袋に嫌な予感がして目を見張っていると、仁王が私を押し退けて靴を脱ぐ。聞く耳持たずといった雰囲気の仁王はテニスバックを廊下の壁に適当に立て掛けると、そのままずかずかと中へ入り込んだ。


「ちょっと…!いきなり来て何する気…!?」

「見舞いじゃ」


部屋の主を残して勝手に歩き進む仁王は、リビングの適当な所に鞄を置いて直ぐ様キッチンに立った。唖然として問い掛けると、仁王がそう言ってビニール袋の中から何かを取り出す。


「林檎と桃、どっちがええんじゃ?」


…………え。
な、何それ…。

開けた口が塞がらない、そんな私に突っ込みさえ入れず至って冷静な仁王は右手に林檎、左手に白桃を掲げている。


「どっち?」


驚いて声も出せずにいる私に、仁王は引き続き問いて来た。無表情な顔の横に艶やかで真っ赤な林檎と、可愛らしいピンク色の桃を掲げて。


「え………えっと……ど、どっちも……?」


あまりに意外過ぎて何と言えばいいのか分からなくなって、気が付けばそう答えていた。


next…

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