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ネコの尻尾。
【22/50】
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22.
くちびるが甘い。


「…………アキ!!」


電話をかけてから約10分後。事務室のドアが乱暴に開かれた。


「はぁー…よかったぁー…」


息を切らして見るからに焦った様子のその声に反射で顔を上げた私は、そこに現れた人物に思わず安堵の声を漏らした。


「杉沢っ………アキ!」


と、同時に、仁王が私の太腿の上のアキくんに気付く。


「……もう待ち疲れて寝ちゃったよ、可哀想に」


膝に手をついて身を屈め、大きく息を吐きながらアキくんの顔を覗き込んでいる仁王に溜息交じりに言ってやる。僅かに気まずそうな顔をした仁王は、私と目を合わせたのも一瞬で直ぐにアキくんに視線を落とした。


「………アキ!ほら、起きんしゃい!」


そして逸る気持ちを抑えきれない様子で、その小さな肩を揺さぶる。


「ん〜………」


大きく体を揺らされたアキくんは私の太腿に手を付いてむくりと起き上がると小さな拳で目をこすり、そしてようやく目を開けた。


「……あ!!マサー!!」


そして目前にある顔を認識すると途端に笑顔になって、めい一杯両腕を伸ばす。


「あぶなっ…!」


立ち上がる訳でも無く、座った姿勢のまま勢い良く上半身を乗り出したアキくん。その拍子に椅子から転げ落ちそうになるのを、私は彼の腰に両腕を巻きつけながら阻止し、仁王は小さな頭と背中を真正面から抱き留めた。


「マサー!!遅いよぅー!!」


言葉とは裏腹に仁王を見上げた眼を輝かせて、実に嬉しそうに笑うアキくんに彼は"マサ"が大好きなのだということが充分に理解出来た。

きゃっきゃと全身で喜びを表現するアキくんの頭越しに思わず苦笑いして仁王を見上げたら、彼はアキくんを見つめたまま僅かに目をカーブさせて優しい笑みを浮かべている。

なんだ…そんな顔も出来るんだ…。なんて、普段学校内ではほとんど見たことのない表情をしている仁王に私は密かに驚いた。


「いやぁ〜!保護して下さった方のお知り合いがご家族だったとは!良かったですなぁ〜安心しましたわ!駅は人の通りが多いですから、もう目を離さんでやって下さい。…坊や、もう迷子になるなよ?」


それからずっと心配してくれていた駅員さんが胸を撫で下ろしている様子に、「迷惑をかけてすみませんでした」と、珍しく素直に謝った仁王が深く頭を下げていた。

アキくんはといえば、駅員さんに向かって屈託のない笑顔で「またね!」と言いながら仁王と繋いだ手とは別の手を元気よく振る。"また"なんてあったらたまったもんじゃない…と、私も含めきっとアキくん以外の皆が思ったことだろう。


「………まさか杉沢に保護されとるとは思わんかった」


一件落着となって、私も仁王とアキくんと共に事務室を後にしバックヤードから出て騒がしい構内へと戻ったところで、それまで終始無言だった仁王が口を開いた。


「私も、まさか仁王くんの弟だとは思わなかったよ」


発覚した時は兎に角いち早く連絡を…という衝動で驚く暇も無かったが、改めて思うとすごい偶然である。しかし、その偶然が起こらなければ、アキくんと仁王との再会はもっと時間が掛かっていたはず…。私と仁王の間で愛しいお兄ちゃんの手をしかと握るアキくんを横目で見やって、私は長い溜息を吐いた。


「………アンタ、一時間も何やってたの?」


そのアキくんの心情を思えば、口調も自然と厳しいモノになる。


「………構内探しておらんかったんで、駅前探して…それでもおらんで、すぐそこの交番行っとった。電話もらったんは、丁度そん時じゃき」


さすがに反省しているのか、歯切れは悪いが誤魔化すことも無く仁王は静かな口調で説明する。しかし、私の心はそれを聞いても静まらなかった。


「ってか、なんで目を離したの」

「アキは大人しくしとらんのぜよ、いつも。何処行っても、ちょこまかと動くきに」

「アキくんのせいにしないでよ!!」


仁王の言葉が言い訳がましい台詞にしか聞こえなくて、思わず声を荒げてしまう。


「家族でしょ?弟でしょ?アキくんがそんな子だって、一番分かってんのはアンタでしょ!?だったら尚更目を離すべきじゃない!繋いだ手を離すべきじゃない!」


ちょっとした隙に何処かへ行ってしまった、なんて大人の都合でしかないのだ。どんな状況だって子供にしてみたら、取り残された気分になってしまうのだ。例えばアキくんが仁王の言うこと聞かずにワガママな行動を取った挙句の事態でも、その事の恐ろしさはまだ把握出来ないし、むしろその身で実感するような事態になってからでは遅い。アキくんがどんな思いでいたか…それを考えると悔しくて仁王を睨みつけた。


「マサ悪いことしてないよー!!じゃけぇ怒らんとって!!」


なのに、そのアキくん自身が仁王を庇う。ワンピースの裾を強く掴まれて顔を向けると、潤んだ瞳で訴えかけるアキくんの至い気な表情に、更に胸が痛んだ。


「おれが悪いんよ〜。……マサぁ、ごめんなさい」


次いで小さな声で初めて謝りの言葉を口にしたアキくんに、仁王が驚いた顔をする。何か言おうと口を開き掛けて、一度言葉を飲み込みアキくんの目線までゆっくりとしゃがみ込んだ仁王は、もう一度静かに口を開いた。


「……マサも。独りにして悪かったの。ごめんなさい」


そして小さなアキくんの頭に手を乗せて、呟くように言った。アキくんに合わせてだろうか、やや幼い口調。僅かに傷ついているような顔を見せた仁王に、私はようやく本心から安心する。

先程の冷静さを欠いて事務室に飛び込んで来た彼、息を切らして肩で息をした彼がアキくんを見て漏らした安堵の溜息、僅かに目元が潤んでいたのにも気付いていた。

たぶん、私の姿が無ければ、仁王の方からアキくんを抱き締めていただろう…。自分の責任で行方不明にさせてしまってよほど後悔も心配もしたに違いないし、逆に謝られて募った罪悪感は計り知れない。……それは充分に分かっている。弟を心配しない兄なんて居ない。だからこそ、次は二度と無いことを願った。


「アキくん、外にいる時はもうマサの側を離れちゃダメだよ」

「はぁーいっ!」

「あと、アキくんの名前ちゃんと教えてくれる?」

「おれはアキだよー!ウソついとらん!」

「ウソじゃないのは分かってる、でも違うでしょ?アキくんの名前は、仁王アキ………?」


と、仁王と同様、アキくんの目線上まで身を屈めた私はそこで言い淀む。洗濯表示に書かれた、彼のフルネームは何だったっけ…。


「……アキヒト。仁王顕人、五歳じゃ」


そして、それは彼の兄上が教えてくれた。

アキくんを見つめる眼はやはり優しくて、ちゃんと「お兄ちゃん」の顔になっている仁王。普段見る彼とは全く違って、漂う雰囲気が実に柔らか。コイツも、学校の中では見られない顔をまだまだ持っているんだろうな…と、そんな当たり前のことが頭に浮かんだ。


「仁王顕人くんね……次から名前を聞かれたら、そう答えること!」

「はぁーい!」

「じゃ、練習だよ。君の名前は?」

「におーあきひとー!五歳!」

「よく出来ましたっ」


そして素直なアキくんに、口元が緩む。可愛いなぁ…。先程会って来た丸井の弟くんを抱いた時もそうだったが、自分に弟も妹もいない私は当然誰かの"姉"になった事も無く、小さな子に笑い掛けられるというのは実に新鮮な気分だ。

なんて彼の笑顔に顔を綻ばせていたら小さな両腕が突然首に巻き付いて、アキくんの顔が近付いた。


「…………アキッ…おまん…!」


そして、唇に柔らか感触。チュッ、と可愛らしい音を立てて落とされたキスに、驚いたのは仁王。

っていうか…!
可愛い過ぎて嬉し過ぎる…!


「お礼のキスだよー!」

「やだぁ〜!!アキくんそんなのどこで教えてもらったの!?」

「スクール!」

「………コイツ、英会話スクール行っとるきに…ほんで、講師が外人じゃけぇ…」

「ジャンに教えてもらったんよ〜!」

「その、ジャンっちゅう奴に吹き込まれてから、気に入った女子がおるとすぐチューしよる…」

「あはは!アキくん、キス魔?」


単語単語で話す無邪気なアキくんに呆れ顔の仁王が補足説明をする様子に、成る程、良いコンビだと私は込み上がる笑いを隠さずに声を出した。


「ありがと、アキくん」


頭を撫でながら言えば、満面の笑みを返される。予期せぬトキメキを頂いてしまった私は、彼に習って指先をその小さな頬に添えるとお礼の意を込めて素早く口付けた。隣にいた仁王が再び驚いた顔をしていたが、今の私にはアキくんしか目に入っていない。


「マサはー?」

「あ?」

「マサはお礼しないのー?マサ見つけたの、お姉ちゃんだよー?」

「……アレを俺にしろっちゅうかおまんは」

「なんで?しないの?ちゅーがイヤなの?お姉ちゃんキライなの?」

「…………イヤでもキライでも無いが普通はせんの、こんな大衆の場で」

「なんでー?」

「あぁー…もう黙りんしゃいよ、おまんは」

「ねぇーなんでー?」


そうして、帰路につきながら横から聞こえて来る仁王兄弟の会話に終始笑いを零しつつ、その二人のやり取りを微笑ましく思った。なんだか今日は色々あった一日だったなぁ…なんて、胸の中で呟いた、そんな日曜日だった。


next…

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