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ネコの尻尾。
【53/54】
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103.
幸せの招き猫。


文化祭当日。気分は最悪。…当たり前だ。昨夜はほとんど寝てない。予想通りまさに徹夜状態の私にとっては、晴れやかに広がる小春日和すら、恨めしい。


「とてもじゃないけど、想いが通じ合った二人とは思えない」


キラキラと輝く太陽の光が、ガラス越しに教室まで入り込んでくるから辛い。目覚めの良い朝なら殊更に気持ち良いであろうそれも、睡眠不足で疲労困憊の身にはなんとも痛烈なダメージだ。陽気な日差しに今日ばかりは嫌悪が湧いて顔を顰めていたら、いつの間にか目前に立っていたゆかりちゃんが呆れた顔をしていた。その言葉を発した直ぐあとに、彼女の視線は少し離れた先の仁王へと移った。あちらもあちらで、私に負けず劣らずの似たような顔をしていて、見るからにグロッキーである。元々色白な肌は更に青白く、元々悪い目付きは更に鋭く。心無しかいつも結わえてある後頭部の尻尾すら乱れて見えて、なんていうか、申し訳ない。


「……昨日の夜、なんかした?」

「は……!?」


仁王のその様子を見て、再び私に目を戻したゆかりちゃん。顔を近づけて来たと思ったら、やけに神妙な顔つきになって言うから、思わず素っ頓狂な声が出た。自分で荒上げた声に、瞬時にこめかみがズキズキと痛む。


「いっつぅ……!」


実のところ、寝不足に加えて私は二日酔いまで併発していた。外で飲酒するなど、これからしばらくは無いんだと思ったら過剰に飲んでしまったのだ。仁王が意地悪く迫ってきたのもいけない。終始収まらない羞恥心と彼への恋慕を、私は多量のアルコール摂取で誤魔化すしか他なかった。それでも意識を失くすほどではなかったが、夜が明けてもなかなかアルコールは抜き切れず、学校へ行くのであれば間違っても臭ってはいけないと、家を出る前に市販のケア用錠剤を大量に飲んだ。もしかして、それが気分の悪さに拍車をかけているのか?そう思い始めたのは、先程から口内に歯磨き粉にも似た味が広がり始めて、今頃になって気持ち悪くなってきたからだ。


「何って……何にもしてないよ」

「なんにも?」

「なんにも。………ただ、ホントのこと言った」

「ホントって、杉沢ちゃんの本当のこと?」

「そう。それだけ」

「………あの進路指導室でも?」

「うん」


なんとかその不快感を我慢しつつ、ゆかりちゃんからの質問に返事を返す。昨日の私が繰り広げた逃走劇こそ、もはや誤魔化しようがない。ここから去る気でいたから、その後のことなど全く考えていなかった私は今日になって気まずいことこの上ない。探るような視線を寄越すゆかりちゃんに、私はその都度端的に答えた。実を言えば、それだけ、とは言い難いのだが、まさか仁王の前で泣いて喚いて、挙句キスしただなんて、言えるわけない、そんな恥ずかしいこと。そんな男女間でのやり取りを、他人にそう軽々と零すだなんて私には出来ない。二人の中だけの睦言は二人の中だけに仕舞っておけばいい。いくら親しい間柄の人間にだって、必要に迫られない限り話さない、話したくない。理由なんて、小っ恥ずかしいからに決まっていた。きっとその点では私も仁王も共通の認識をしていると思う。昨夜の、あの店でのことも然り。


「ふーーーーーん」


なのに、それでは納得がいかないという顔で、ゆかりちゃんは唇を尖らせる。これまで仁王とのことだけでなく、私自身のことで散々心配させてきた彼女。きっと昨日だって、突然目の前から私が居なくなり傷付いたに違いない。それは誠に申し訳なく思うのだが、ありのままに話すのはどうしても恥ずかしさの方が勝ってしまう。昨日の今日ということもあるし…。日が経って、せめて今日の文化祭が終わったら…、むしろこの寝不足と二日酔いが解消され、ちゃんと頭が正常に回るようになったら仁王との間にどんな会話があったのかはちゃんと話すつもりだから、もう少し待っていて欲しい。


「これ見てもそう言える?」


なのに。そう願うのは所詮私の我儘なのか。ゴソゴソとポケットから取り出した携帯を、私の顔面に叩きつける勢いで差し出した彼女に、そう悠長なことを言ってられる状況じゃないことを悟る。


「………っ!?こっこっこっ、これっ、ちょっ、だっ、誰が、こんなっ、ちょっ、待っ、」

「あはははははは…!杉沢ちゃんどもり過ぎっ………!」


そこに映し出されていたのは、ボロボロに泣き濡れた顔のまま、仁王に呆気なく口付けられている私。考えもしていなかった状況に、私はマトモに言葉を返せない。顔から火が出そうとはまさにこのことだ。何がどうして彼女がこんな写真を持っている。何故に撮った。いや、誰が撮った。あの場に駆け付けて来たのは、仁王だけじゃなかったのか。一体どういうことだこれは。


「知ってた〜?竹内が連絡したのって、雅治だけじゃなかったんだよ?」


言葉にならない疑問の数々。その答えはニヤニヤと笑うゆかりちゃんが教えてくれた。それでも尚理解に苦しみ頭がパニックになる。だって、昨日は、進路指導室から仁王に連れられて出た時は、そんなの誰も教えてくれなかったじゃない。それよりむしろ、何かに落ち込んでいると思われてたのか、仁王と共に教室に戻ると皆は腫れ物にでも触るような態度で私を遠巻きに見ていた。心の整理もままならなかった私は、大した理由も述べずに苦笑いを皆に返すばかりで、そのまま体調不良を装って早退した。おかげで、あんなにも派手に逃走したにも関わらず、私は何も言い訳も説明もすることなく静かに学校を後にしたのだった。その後、マンションまで送ってくれるという仁王に、帰る道すがらに全てを話すと約束して、一緒にあの店に行くことを提案するに至った訳であるが…。

誰も彼も仁王と私に過剰に近寄ることはなく、それは心配してくれていたからこそだと思っていた。もしかして、それがとんでもない勘違いであったのか。そういえば、さっき、彼女はなんて言った。想いが通じあった二人、とかなんとか言わなかったか。可笑しい。私の口からはまだ何も説明してないのに、確かに可笑しい。


「私が行ったらもう、皆いて。誰も中に入ろうとしないし、何だろう?って思って隙間から見てみたらさぁ〜。確かに、あれは入れる雰囲気じゃなかったよねぇ」


昨日の皆の心境が、自分で予測していたものとは全く種の異なるものであったということに初めて気付き、ゆかりちゃんのごもっともな意見を内心冷や汗ダラダラで聞く。うんともすんとも言えず、ひたすらテキトーに首を縦に振るだけの相槌を繰り返した。皆って…皆って誰よ。あと他に何人そこに居たの。などと、気にはなったが、その質問は自らの首を絞めることになりそうで止めた。敢えて聞かずとも、先ほどから幾人かのクラスメイトがこちらへ視線を寄越してきて、なんとなく察する。ニヤニヤ顔の田宮くんや、花田さんとその度に目が合い………いや、本当に、本気で、羞恥の炎で全身焼け焦げる。


「あの、ちょっと、お手洗い行ってくるね………」

「大丈夫?付いて行こうか?」

「いや、一人で頭冷やしてくるわ…」


そうなれば、からかいの対象となっている片割れが同じ室内に居るというのも最悪な状況下だと気付く。加えて、これ以上冷やかしの目を浴びせられるのも勘弁して頂きたい。クラクラと回る思考のまま、ゆかりちゃんの申し出を断った私は教室を出てトイレへと向かった。どうしよう。今日もまた逃走してしまいたい。いつかの高坂ちゃんの様に、女子トイレに籠城したい。せめて個室にするから誰か許可して。と、後手にドアを閉めながら長い溜息を吐き出す。よりによってあんな場面を写真に残すなど、あり得ないよ、少年少女の好奇心恐い……。


「…………え?」

しゃ、写真……?先程のゆかりちゃんの携帯画面を思い返して、急に思い立つ。写真に私が写っていた。その事実に、心臓の脈打つ速度が急上昇した。慌てて自らの携帯を取り出すと、素早い手付きで写真フォルダを漁る。いつだったか、丸井の家に行ったことがある。あれは7月だったろうか……いや、もっと前だ。全国大会が始まるより前、地区大会はもう始まっていたような気がする。そうだ。6月だ。私がテニス部のマネージャーになって1ヶ月近く過ぎた頃だ。確か幸村のお見舞いに行く前、丸井家に寄り道して、あの時はまだ生後一年にも満たない丸井の弟くんを抱かせてもらった。あの時に撮ってもらった写真。あれに、あの写真には、私が写っていなかった。


「うそ…………」


それを目にして受けた衝撃も一緒に思い出した私は、掌の中の携帯を見つめて、再び衝撃を受ける。小さな小さな丸井の弟、銀太くんの体を両腕でしっかりと抱きかかえている私が、そこに居た。確かに、あの時は、確かに写っていなかったのに。何度も何度も確認したから間違いない。悲しさに打ちひしがれ、真にこの世界の住人でないということを思い知らされた気になり、涙まで零したというのに。あの時の絶望が蘇り、胸が一瞬痛む。しかし、その後から、苦しみでも無く哀しみでも無い、むしろ安心感のような真逆の感情が湧いてきた。もしかして、結局は私自身が心を決められていなかったということだったのか…。

目を瞑って、胸に押しつけるよう携帯を握り締める。涙が出そうなのを堪えた。もう、泣くのはよそう。せめて、過去を振り返って無駄に自分自身を傷付けて、その度に泣くのは、もう止めよう。私は、今を生きると決めた。この場所で未来を描き、先に進むと決めたんだ。それがきっと、受け入れられたということだ。誰か分からないが、そんな私の覚悟を認めてくれたに違いない。だったら、泣くのはもうよそう。


「遅いよ〜杉沢ちゃん!」

「ゴメンゴメン」

「皆もう準備始めてるよ〜」


教室に戻ると、ゆかりちゃんが僅かに口を尖らせて駈け寄って来る。軽く謝りを入れて、私も作業に加わった。今日は楽しい文化祭。参加しない筈だった。けれど、私はここにいる。なら、めいいっぱい楽しまないと。暗い感情など、そこらに置いておこう。寝不足で辛いのは致し方ないことだが、それも出来るだけ我慢しようと自分を奮い立たせると、昨日逃げ出してしまった分の挽回とばかりに張り切った。やがて一般来場者解禁の時間になり、いよいよ文化祭の幕が開けると一気に校内は賑やかになった。生徒数だけで2000人を超えるのだ。外部からのお客さんを加えると、それはそれはもう騒がしい。カフェ風の模擬店を催した我がクラスも、クラスメイト達の父兄やら友人やらで早いうちから満席状態。交代で調理担当とホール担当とを振り分け、慣れない給仕に皆あくせく働いた。


「………やっぱりさぁ、女子多いよねこの時間帯」


その最中、調理スペースとホールスペースを区切った暗幕をペロリと捲ったゆかりちゃんがボソリと言う。調理といえども、火器は厳禁だし、生物も扱えないしで、結局ケーキや茶菓子の類いを皿に移して出すのみの簡単な仕事をしている私たち。ホール担当の子たちが持って来たオーダー表に沿って手を動かしながら、彼女の言葉に目線だけでクエスチョンマークを飛ばした。やっぱり、とはなんだろう。


「だよねぇ〜。今ホールに仁王くんいるから」


と、思っていたら、隣で同じような作業をしていた女子が何の気なしに答える。その言葉に、そうか成る程と、胸の内で納得した。仁王雅治だものね、と、もはや昔から言い慣れた決まり文句を脳裏では浮かべる。彼はテニス部で、レギュラーにもなる実力者で、男前な部類に入る人種で、それなりにモテる。なんてことは、私にとってはとっくの昔から周知の事実なのである。


「杉沢さん、いいの?」

「へ?何が?」

「仁王くん、知らない女子に色々絡まれてるよ?」


だからなのか、そんな事を言われても、何を意味しているのかピンと来ない。問いかけて来た女の子に向かって気の抜けた声を出すと、更に問いかけられて、むしろその質問が自分に飛んできたことの方に焦る。まるで、今日の夕飯何食べる?レベルのナチュラルさで聞いてくるのだ。何故にそんな、私が気にして当然、みたいなノリなんだろう…。あれか、やっぱり昨日のあれか。今朝のゆかりちゃん然り、既に仁王との間にそういう事があったという事実を知った上で話されているんだと理解した瞬間、私はもう居た堪れない。


「いい、いい。全然いい。いくらでも好きにして」


早くその話題を遠ざけたい私は、半ば投げやりになって返答を返す。それが本心だろうが、そうではなかろうが、この際どっちに捉えられても構わなかった。正直、別に他の女の子と会話してる姿ぐらい、前からクラス内でいくらでも見掛けているので、それと一体何が違うのかという気もする。それより、女子の好きな噂話のネタにされることの方が余程面白くないというか、怒りが湧く訳じゃないが、あまり触れないで欲しいという気持ちのが強い。


「次、コレ」

「あっ、ハーイッ!」


皆そっとしておいてくれないかなぁ…色恋沙汰に敏い女子中学生の間に居ては、それもまぁ無理な話なのかもなぁ…などと、脳内で嘆く私。盛大に眉間に皺を寄せたのと同時に、ホール側から暗幕が捲られた。差し出されたであろう伝票を同じ調理担当の他の子が受け取る気配を察し、顔をそちらに向けて更に眉間に皺が濃くなる。この後ステージでの演劇披露が控えているからといって、テニス部はまとめて一括りに同じ時間帯に組み込まれてしまった本日のタイムスケジュールが恨めしい。渦中の少年は飄々とした顔でウェイターを気取っている。既に先に用意完了となっていた幾つかのケーキと紅茶を盆に乗せると、何も言わずに再び暗幕の向こうへと消える。視線も合わせて来なかった所を見ると、彼もまたこの場には居づらいんだと理解した。だって周囲の目がこんなに痛い。


「………なんか甘くなーい!!!」

「え?そう?相当ホイップ盛ってあるけど、このケーキ…」

「ちーがーうー!!」

「仁王くんと杉沢ちゃーん!!」

「つまんないー!!!」

「冷やかしがいがないー!!」


そんな事を言われても…と、仁王が消えた後で皆に抗議を受け、明け透けな皆の愚痴にはつい笑った。自分の口元が緩んだ理由は、皆に対する呆れではなくて、彼との間の事を指摘されて照れ臭かったからだ。いいじゃないか。二人の仲で交わす睦言は、二人の時だけで充分。二人だけの秘密だ。……あの写真は想定外だったけど。

それからお昼過ぎまではバタバタと忙しく働き、ステージでのテニス部の出番が近づいた頃に他のクラスメイトと交代した。前日のリハで、特に問題もなく順調に進行出来ていたはずなので、キャストと大道具の類を動かす黒子以外の部員は、本日は何もする事がない。昨日は自分が起こした騒動のせいで、最後まで観てあげることが出来なかった。その分も、今日はちゃんと集中して観劇しようと、ゆかりちゃん高坂ちゃんと共に講堂に向かう。その途中、バッタリ出くわしたのは切原。現テニス部部長として駆け出したばかりの彼は、今回は完全に観る側に回っている。劇に関わるより、新人戦に向けての練習に打ち込めと幸村からのお達しだった。部として文化祭に参加するのは三年だけというのが毎年恒例のようで、高坂ちゃんだって本当に人手の借りたい時のみにしか呼んでいなかった。そういえば、あれから彼らの中はどうなったんだろうと、後輩二人の間に視線を泳がせる。少しばかり言葉数が少ない気がしないでもないが、取り立てて険悪なムードは感じないことに安心する。互いにぶっきらぼうな口調になるのは相変わらずのようで、ぎこちなくはあるが、以前よりも僅かに二人の間の空気が柔らかくなったことに安心した。どんな風に仲直りしたのか、文化祭が終わったら高坂ちゃんにでも追及してみよう。それが今の私なら出来ることが、嬉しい。


「き、来たんだ………」

「よう」

「あー!跡部くん!」


広い中庭を抜けて講堂へ入り、空いている席を探す最中、偶然見つけた面々に驚いた。跡部の背後には他の氷帝テニス部の面々がズラリ。意外な人物たちの登場に私たちが目を丸くしていると、「話のネタに観に来てやった」と鼻を鳴らす彼等。成り行きで共に観ることとなり、やがて我ら男子テニス部演目シンデレラの幕が開ける。ステージ上では、壇上に上がった順に、跡部らの姿を見つけては驚く素振りをするから、それが可笑しくてゆかりちゃんや高坂ちゃんと共に、肩を揺らして笑う。真田などセリフを幾つか飛ばしていた。奴の登場と共に、跡部が盛大な笑い声をあげたからだ。気の毒に思うが、それに釣られて講堂内は大いに盛り上がって、なかなかに楽しい時間となった。

その後はステージから降りた彼らと合流して、なんで氷帝の奴らがいるんだと責められて、私たちが呼んだんじゃないと必死の抗議をして、気が付けばもう午後の15時を回っていた。他にも楽しげな催し物や露店が様々な場所で繰り広げれており、解散となると皆は散り散りに駆け出して行った。私はといえば、色々見て回りたい気持ちは山々。しかし、朝から続く寝不足と二日酔いで、疲労はピークに達していた。どこかでゆっくり休みたい。皆が去っていく様子をぼんやりと見送って、その場で深く息を吐き出した。思わず膝頭に手を置いて、身を屈めるように腰を曲げて、再度深呼吸。この世界に残ると決めたが、この無駄に歳を食った老体は相変わらずなのだろうか。若返り補正がないってのは、やっぱり辛いものだな………。


「杉沢、ちょっと」


と、なんとも情けない愚痴を心中で零していると、背後から呼び掛けられて顔だけをそちらに振り向かせる。すると、いつものポーカーフェイスを顔面に貼り付けた仁王が、私を手招きしていた。


next…

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