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ネコの尻尾。
【52/54】
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102.
恋、とは。


しばらく袖を通すことのなかったジャケットを羽織って、姿見の前に立つ。ロングテーラードにはやっぱりショート丈のボトムが良いだろうか。……いや、最近は夜になると冷え込むようになったし、パンツにしよう。そう決めてクローゼットからシンプルなタックパンツを取り出すと、一度履いたスカートを素早く脱ぎ捨て、それに着替える。小ぶりなクラッチバックを手に、玄関先でお気に入りの真っ赤なハイヒールを履いた私は、足早に部屋を出た。マンション下にはタクシーを呼んである。あまり長く待たせて文句を言われては堪らない。エレベーターを降りて、エントランスの自動ドアの向こうに、白い車体とオレンジ色のランプ、加えて闇夜でも鈍く浮かび上がる銀の頭を、確認した。


「さっ、急ぐよ。明日も早いんだから、さっさと行って、さっさと帰って来よう」


自動で開いたガラスの隙間から素早く身を出しつつ、一瞬目を見開いて僅かに唇に隙間を作った仁王には構わず、その背中をぐいぐい押してタクシーへと乗せる。


「六本木まで」


続いて同じく後部座席に乗り込んだ私は、ドアが閉まり切らないうちから運転手に行き先を告げた。やがてタクシーが走り出し、一息ついたところで隣の仁王へと視線を向ける。直ぐに目が合い、先程からずっと見られていたということを悟り、苦笑い。


「ごめんね。保護者同伴じゃないと、真夜中の飲屋街なんて連れていけないんだ」


とても中学生には思えない出で立ちをした私が、よっぽど珍しいのだろう。致し方ない。あの店に行くには、これが標準装備だ。しかも本物の中学生を連れて行くのだから、間違っても補導などさせてはいけない。となれば自身が保護者役を買って出るしか他に策はなく、言葉少なにそれを説明してやると、仁王は深い溜息を吐き出しようやく私から視線を逸らした。後頭部を座席シートに埋めるよう姿勢を崩した彼は、拗ねているようにも見える。


「ほんまに12も上やったとはの」

「だから言ったじゃん」

「……幸村の話じゃ、車も持っとんじゃろ?なしてタクシー」

「お酒飲むから」

「………あぁ」


それが些か可笑しくて、不貞腐れた声でぶつくさ言ってる仁王に内心笑いを零しながら、私はその都度返答を返す。申し訳ないという気持ちが無い訳ではない。まざまざと歳の差を見せつけるような真似をして、仁王からしてみたら面白くないかもという気持ちも当然ある。しかし、許して欲しい。しばらくは、こんな姿で出掛けることはもう無くなるのだから。最後の最後に、20代の自分でいられることを楽しませて欲しい。

あの後………講堂を逃げ出し、進路指導室に閉じ篭っていたところに現れた仁王に胸の内を明かした後。全てを打ち明けると、仁王に約束した。元の世界の私がどんなだったか、何故こんな事になったのか。本当は今日の終わりと共に、ここから消え去ろうと思っていたことも、全て。仁王がそれを受け止めてくれると約束してくれたから。男女の口約束なんて当てにならないものだということは、幾度かの経験で身に染みている。熱に浮かされた時のそれは尚更にだ。だから、それを永遠とは思わない。誓いを交わしたからといって、全てを預け切ってしまっては相手の負担になることも知っている。約束というのは、一歩間違えば足枷にも成り得る凶器であることも。けれど、真っ直ぐな想いで体当たりしてきてくれた彼には、誠実であるべきだと思った。受け止めると言ってくれたのなら、全てを話さなければと思った。

そういう訳で、私は仁王をあのマスターの元へ連れて行くことにした。驚いたのが、私が仁王と共に学校を後にして直ぐに、2日前に着信した番号と全く同じ番号から電話があったことだ。一度答えを出したそれを今更取り消せるという確約はゼロに等しいはずであったのに、何故かその番号を見た時、酷く安堵していた。何故、どうして、電話なんか、と聞くより先に、日付けが変わる前に行くと、だから営業開始時間を早めてくれと、口から滑り落ちた。たぶん、私は焦っていた。焦燥がその声に現れていたことを、自分自身が自覚していた。マスターは少しの沈黙の後、了承する言葉を口にして電話を切った。結局、向こうが何を考えていたのかは分からずじまいだ。

目の前で掛かってきたその電話と、私が発した言葉にキョトンとした顔をしていた仁王に、徹夜覚悟で付いて来いと、懇願に近い声で言った。意味がよく分からないといった風に眉間を寄せた彼であったが、拒否するという選択肢はなかったのか文句を言いながらも了承してくれた。明日の文化祭本番も寝不足なまま参加することにはなるが、こんな事はそうそう無いだろうし……というか、今回きりのことなので、我慢して頂こうと思う。それに関しては私も同じなのだから。ここまできたら共に苦しんでもらうじゃないの、寝不足ぐらい。


「………おや?これはまた、随分と若い子を引っかけて来ましたね」


タクシーで1時間弱。今日は一日色んなことがあったからか、神奈川を出発して10分後には2人して車内で爆睡してしまった。気が付いたらあっという間に目的地の六本木に到着していて、今まさに店の扉を開けたところだった。中に入ると全く驚く様子もないくせに、わざとらしい物言いでマスターに出迎えられる。相変わらず瞳の奥では何を考えてるいるのか全く分からない彼だったが、仁王には柔らかな微笑みを向けた。


「いらっしゃい」


そう言われて、何と返すべきなのか分からなかったのか仁王は無言で軽く会釈を返す。そして、再び微笑んだマスターの手に促されると、空いている席へと適当に座った。それに習い、私も隣の席へ腰を下ろしつつ、横目で仁王の様子を伺う。店内を視線だけでぐるりと一周見回し、次いでカウンター奥や壁際にビッシリと並べられた酒瓶に目を奪われているようだ。


「悪い女ですね、こんなに可愛らしい少年をたぶらかして」

「…っるさいっ!…なんか出してよ」

「いつもので?」


おそらく、こういう類の店に入るのは初めてだろうから、素直に物珍しいだろう。と、仁王の心中を密かに予想していると、揶揄を含んだ声色のマスターから意地の悪い笑みを寄越される。まるで痴女のような言い草をされて面白くない。不貞腐れた顔を作りながら頷けば、マスターは喉を鳴らすように笑っていて、更に面白くない。文句を伝えるように目だけで抗議を示せば、彼はそれを逃れるようにくるりと身体を反転させた。やがて、よくよく冷えたビールを私へ素早く差し出すと、今度は器用な手付きでカウンター上にあったフルーツを剥いていく。細かく刻まれたその欠片をスムージーにしグラスに移すと、更に飾り付けのために一欠片のオレンジをその縁に添えた。


「オレンジベースに、旬のラフランスをミックスしました。もちろんノンアルコールです」


鮮やかな手付きで仕上がったそれを目前に出され、仁王はぱちくりと瞬きを繰り返す。こんな風に目の前でカクテルを作ってもらうなど、きっとそれも初めてなんだろう。あまり今まで見たことのない顔ばかりするものだから、ついつい観察してしまう。やがてグラスに口を付けた仁王。美味い…と、小さく呟いた彼が可愛らしい。自分も手元のビールを煽りながら、その顔を目を細めて見ていた。酒の肴に若い少年とは、なかなか悪くない。


「本日は、契約内容のご変更でしょうか」


思わずくだらないことを脳裏で呟き、しまった、今日は酔いが回るのが早いかも…などと思っていたら突如マスターに問いかけられて我に返る。


「うん…で、できる?」

「ええ大丈夫ですよ、期限は本日までですから。かしこまりました」


そのやり取りに、ピクリと身体を反応させたのは仁王の方だ。僅かに眉間に皺が寄っている。一体何の話だと、私とマスターの双方の表情を伺うように、視線が右往左往した。


「………仁王」


いよいよだな、と。私は息を吐くと、自らのバッグから一枚の紙切れを取り出す。1度目の契約書の控えだ。小さく四つ折りにして保管していたそれを、仁王の目の前で広げる。カウンター上にそれを置いたタイミングで、マスターも先日私が記入したばかりの更新手続きの書類を隣に並べた。


「読んでて」


一緒に差し出されたペンを手に、私は更新の方の書類に目を写しつつ、仁王には私が持ってきた控えを読ませる。私がごちゃごちゃと口で説明しただけでは、信憑性が薄いのではないかと思ったのだ。既に幸村やゆかりちゃんからも真実を聞いているのだし、更にそれを裏付ける証拠、何より私の身に起きた全てを身を以て知って欲しかった。この薄暗い空間で、このマスターとの間に何があったのか、知って欲しかった。それを心で願いながら、私は手元の書類に向き直る。短く深呼吸すると、一度は「帰還」の文字に丸を付けたそれを二重線で覆い隠し、もう一方の方に丸を付け直す……その文字は「永住」。契約の訂正は、呆気なくそれだけで完了した。


「書けました?では、拇印を頂いても?」

「え?……この間はそんなことしなかったと思うけど」

「ええ、きっと貴方はまた来ると思っていましたから」

「えっ………」


次いで要求されたそれに驚いてると、更にマスターの言葉に驚くこととなった。直ぐに返答を返せない私に彼は小さく笑うと、隣の仁王に一瞬の目配せをして見せる。見透かされていたということなのか、言葉はないのに、その仕草に心を言い当てられた気分になる。彼のことだ、この店に連れて来た時から、仁王が誰なのかは既に悟っていたんだろう…。気恥ずかしさが湧いて、私はマスターから視線を逸らした。必然的に視界を占拠することになったテーブルの上に、流れるような動作で朱肉を差し出され、私は複雑な気持ちで手元の書類に拇印を押した。

と、同時に、隣の仁王から長い溜息が吐き出されるのが聞こえて来る。


「………頭がついていかん」


一度に沢山の情報を与えられ過ぎて、疲れたんだろうか。呆気に取られたというか、投げ出したというか、気の抜けた表情をしている仁王。それでも失望だとか、嫌悪感だとか、そんな類の感情はその表情には感じられなくてどこかホッとする。


「まるでオカルトじゃ。災難じゃったな、おまんも」


むしろ冗談めかした素振りさえする彼に、心の中では感謝の気持ちでいっぱいであった。目が合って、無言のまま苦笑いを返す。すると仁王は小さく鼻を鳴らし、少しだけ口端を上げた。


「これで更新は完了です。……さて、めでたくこの世界に留まることに決まった杉沢さんですが、」

「めでたいことなの?」

「当たり前です、それを成功させるのが私の仕事なのですから」


そのやり取りを見ていたのか、見ていなかったのか、再び口を開いたマスターが一際明るく言うものだから終わりを待たずに口を挟むと、彼はニッコリと笑う。


「それを祝って、一つ種明かしを」


そして、楽しげな調子の声色とは真逆に、目を鋭くさせて言った。その目付きにドキリとして脈が速くなる。これでひと段落ついたと思ったのだが、違うのだろうか。彼は、祝い、と言った。その種明かしは私にとって害になるものではない……?でも、マスターがこんな表情をする時は、いつも私は絶望させられてきた。途端に不安になり、グラスを持つ手に力が入る。疑心暗鬼になる私を前に、マスターは意地悪い笑みを浮かべたまま、何気ない動作で最初の契約書を手に持った。そして私と仁王の目前にそれを翳す。


「この部分………貴方が望んだのは、仁王雅治との“恋”です。分かりますか?けして、“仁王雅治が貴方を好きになること”ではない」


書類にビッシリと書かれた文章の最下部。本人に晒すにはあまりに恥ずかしくあったその要望。それを細く長い指で差し示したマスターに、私は唖然とするしかなかった。


「彼の意志ですよ」


だらしなく口を開けたまま固まっている私に、マスターがやや口調を柔らげて続けた。


「最初の契約の時点から、貴方は人の気持ちを自分都合で動かそうだなんて全く考えてなかったんです。………この人はね、この契約をした時に物凄く泥酔していてね?私と交わした会話ごと忘れていたんですよ。……それでも尚、そういうことを考えられる人だったんです。だからこそ私は待っていました、貴方がたが共に此処へ来ることを」


何も言葉を発せない私に代わり、マスターが更に続ける。目線は私から仁王へと移り変わり、幼子に童話を読み聞かすかのように優しい声で話し続けた。……だからか。だから、電話など掛けて。やはりマスターは全てを見透かして、2日前の私にはその覚悟など無いなんて、とっくに見透かされていて。


「“恋”とは……粋だなと思いました。そして残酷だ。“恋愛”と書けば良かったものを。そうすれば、恋焦がれるだけでなく愛情の交換が双方で成される筈であったのに……即ち、確実に相手の心を手に入れられる筈であったのに。馬鹿ですね。“恋”とは人間の感情の中で、最も独りよがりな行為なのですよ」


明かされた真実に、胸が熱くなる。ずっとずっと抱き続けた罪悪感。それは勘違いであったということか。苦しみ続けた自分は、一体何だったの。悔しさが募る。騙されたという気持ちの悔しさ。今日の私が、こんな気持ちになるだろうって、全てを見透かされていた悔しさ。けど、それを上回って胸を占拠するのは安心感で。


「よかったですね、杉沢さん」


一層優しげになった声に、じんわりと目頭が熱くなった。


「今日は泣いてばっかりじゃのぅ」

「うっ……うるさいよっ」

「そうなんですか?」

「大泣きした上に逃走」

「それはまた大人気ない」

「うるさいってば!」


流れることを止められなかったそれは、呆気なく頬を伝って、意地の悪い2人からからかわれる。強がりにしか聞こえない言葉を口にすれば、それぞれが鼻を鳴らして笑った。最悪の組み合わせだ。そう思うのに、恥ずかしさはあっても、大して不快感は湧いて来ない。……よかった。仁王の心は私のせいで惑わされた訳ではなかった。そのことに何より安心した。それでいて尚、幾度もぶつけられた想いが、彼自身のものであったことが途端に嬉しくなる。しかし喜びをオーバーに形にすることは憚られて、口元を歪めるしか出来ない。それすら分かり易く態度に出してしまえば、更にからかわれるのではないかと思うと、もごもごと唇を動かして誤魔化すしか出来ない。すると、突然二の腕を捕まれた。


「………好いとうよ」


傾けられる半身にバランスを失いかけた私。その耳たぶに、あまりに甘い囁きが降りてくる。人前で何を…!と、焦って思わずカウンターの向こうに目を向けると、マスターはこちらに背中を向けてグラス棚へと手を掛けていた。見られてないことに胸を撫で下ろすが、この男のことだからきっと気付いている筈だ。


「おまんは?」

「ハ!?」

「どうなんじゃ」

「……別にっ、今じゃなくても、」

「今聞きとうよ」

「………っ、」


それを悟っているから、それ以上には広げたくなかった会話を、意図としてかそうでないのか、仁王は不遜な顔をして問いかけてくる。困る私を見て楽しんでいるだけに過ぎないのだ、これは。しかしながら、仁王の強い視線には胸が高鳴りっぱなしで、私の思考は熱に浮かされていく。既に腕を掴んだ手は離されていて、片手では頬杖をついたままの仁王に、もう片方の手で膝に乗せていた手を取られる。更に指先を絡められては、もう堪らない。


「………………好き」


とてもじゃないが、顔は見れなかった。指と指とが交差するそれだけを見つめ、観念して小さく口に出してみる。やがて、返事を寄越すように強く握られたその手に、どうしようもなく胸が締め付けられた。甘くて、酸っぱくて、ほんの少し苦しくて。まるで仁王の両手で心臓がきゅっと包まれたような感覚だった。出来れば、心臓だけじゃなくて、全身をそうして欲しい。と、そう思ってしまう程に、私は仁王雅治が好きだ。


next…

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