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ネコの尻尾。
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101.
独りよがり。


現れたのは、仁王だった。何故よりにもよって彼なんだろう。答えは簡単。竹内がきっと私の居場所を仁王に教えたのただ。でも、どうして、沢山のクラスメイトがいる中で仁王だったの。なんて聞きたくても、竹内は既に私と仁王を残してこの部屋を出て行った。


「……………。」

「……………。」


言葉は出ない。何を言うべきなのか、分からない。仁王も仁王で、閉めたドアの前に突っ立ったまま動きもせず、じっとしている。気まずさで目を合わせられずに、私は足元ばかりを見つめる。嫌な汗が背中を流れていった。取り繕うにも、もはや何をどう取り繕えば良いのか。講堂から逃げ出した時、いっそこのまま誰にも会わずに学校を出ようと思っていた。涙が止まるまでをどこかでやり過ごし、気持ちの整理がついたら誰にも別れは言わずに、消えようと思っていた。こんな場面は想定していなかったから、言い訳などまるで出てこない。考えることに既に疲れ切っていた脳は、もう上手に動いてはくれない。それは身体の方も同じだった。椅子に力無く座っている、ただそれだけで私は精一杯だった。俯むけたままの頭はいやに重く、腕も肩も脚さえも力が入らない。太腿の間に置いた掌も、ただただ合わせているだけで、指先の感覚さえ無くなっている。

その重苦しい空気の中、口火を切ったのは、やっぱり仁王だった。


「行くな」


いつだって沈黙を先に破るのは仁王。恐がって、怯えて、何も踏み出せない私とは違い、彼はいつもいつも己の意思を強く持っていた。そんな仁王が不躾に零した一言に、一瞬耳を疑う。行くな、とは、一体何処へ。何を指して、そんなことを言っているのか。仁王が知る筈もないのに、私が何をしようとしているのかなんて。そんな筈ないのに、何故か図星を突かれたように、心臓が鳴り出す。


「……俺は王子様じゃなければ魔法使いでもないけんね、居なくなられたら、よう迎えには行けん」


見透かしたような物言いで、静かに先を続ける仁王。抑揚のない口調はいつもと変わらずだ。なのに、酷く傷付いているように感じられるのは、己の身に傷付けているという自覚があるからだろうか。


「じゃけぇ、行くな」


いや、自分が傷付いているからこそ、そのセリフが切なく響くのだろうか。静かなその声が胸を撃つ。そんなこと言われたって。私だって。私だって……!

仁王の言葉に反発するように、そう叫び出したい衝動に駆られた時、自覚する。……ここに居たい。何も望んでないだなんて、嘘。私はここに居たいと、そう望んでいるんだ。だから苦しい。そうすべきでないと罪悪感に飲まれる自分と、それに抗いたい我儘な自分の心が対立するからこんなに苦しい。関わってきた皆と、あるがままで生きられない環境と、これまで積み上げた人生を容易く忘れらない未練と。全部が全部を邪魔をして、それに負けて、つまらない理由ばかりを付けて、自分の心に素直に、正直になれないから、こんなに胸が痛い。


「…………ぅうっ…」


また涙が溢れ出す。止めようのないぐらいの勢いで両目から溢れ出したそれを、自分ではもうどうすることも出来なかった。呼吸が荒くなり、息をするのも苦痛で、声にならない嗚咽が出る。収集のつかない感情はもう、何処に向かっているのか自分でも理解不能だった。


「杉沢」


名前を呼ばれて、振り返る。声だけはいつもと何ら変わらない口調だったのに、仁王のその顔には憐れみとも寂しさとも感じられるような、弱々しい色を浮かばせていた。少しだけ寄った眉間の皺と下がった眉尻。何と言えばいいか迷うように、開きそうで開かない唇。限界だった。


「…………全部失ったの。これまでの生きた証も、夢も、全部。全部無くなった。私という人間が、あるべき場所で生きる筈だった私が、全部無くなった。それが悔しいの。寂しいの。苦しいし、辛い」


目が合った瞬間。未だ涙が止まらないまま、口を開けば堰を切ったように言葉が出た。今まで抑えつけた分の感情が止め処なく溢れ出る。


「もう嫌だよ、こんな思いするのはもう嫌だ。逃げたい。もう何も失いたくない。自分が自分で居られなくなるなんて嫌だ。耐えられない。誰かにっ……誰かに受け止めて欲しかった。この苦しさを分かって欲しかった。全部、全部。全部引っくるめて、それでもイイと言ってくれる誰かが欲しかった。縋れる誰かが欲しかった。……私は、それがアンタであって欲しかった。アンタたちとは全然違う。歳も、考え方も、生きて来た世界も全然違う。過去を捨てる覚悟も出来なかった。相応しくないと思ってた。それでも、それでもアンタが好きだってことを捨てられなかった。絶望も罪悪感も全部、全部まとめて、抱きしめて欲しい。好きだった、ずっと。本当は出会ってすぐに好きになってた。これ以上ないぐらい。私はアンタがどうしようもなく好きみたいだ。たぶん、アンタが居なければ此処に残る意味はない。ずっとずっと、私はアンタのことが、」


年端もいかない少年に向かって言うには重すぎる。何という負荷を掛けさせようとしているんだろう。分かっている。分かっているけど、もう我慢することが出来なかった。こんなに沢山の感情を一度にぶつけられても、相手が困るだけだと脳内では後悔しながら、次々に押し寄せる想いは止まらない。いつかの跡部の言葉を思い出す。そうだね、人間って、感情のメーターが振り切れると、何をするか分からないものだね。例え自分のことでも。認めることさえ拒絶し続けた愛情は、表に出してしまうといよいよもう押さえきれなくなった。押し寄せてくる想いは、とっくに心のキャパオーバーだった。目の前のこの若い少年が好きで好きで仕方ない。想いが募って募って仕方ない。こんな状況で現れたお前がいけないんだと、責任転嫁さえしそうな程に、仁王にとっては重荷でしかない想いを吐き出した。相手の返事など求めないような一方的な独白を押し付けて、いつしか私の声は再び嗚咽に変わっていた。


「……ん」


そんな醜態を大人気なく晒した私の頭に、掌が乗る。じんわりと温かい感触が後頭部に広がり始めたと同時に、短い相槌が聞こえた。


「分かった」


続いて聞こえてきた言葉に、思わず呼吸を止める。しゃくり上げていた声を噛み殺し、顔を上げると相変わらず無表情な仁王と目が合う。


「よう分かった」


何も言葉を返せないまま見上げていたら、仁王は静かに言った。何を言われているのか理解出来ずに瞬きを繰り返すと、はらりと瞼の先から一雫の泪が落ちる。


「一つ、条件があるがの」

「………じょう…けん…?」

「どこにも行かんて、約束せんか」


細い指でその涙を拭った仁王は、真っ直ぐな目で私を見下ろし、次いで私の頬を両手で包みながら言った。涙で濡れた頬の上を滑る親指の腹が温かくて、目前に迫る瞳はまるで捨て猫のように寂しげだった。


「約束じゃ」


そして念を押すようにもう一度力強く言った。それを聞いて私の目尻からまた涙が一粒落ちるが、先程とは違い、それは仁王の掌の内側に入り込んで頬を伝うことはない。


「受け止める、全部…。な?ええじゃろ?」


問い掛けたくせに、返事を待たない仁王の顔が、更に近づいた。1度目は突然だった。2度目も。3度目は拒絶した。4度目のキスは、温かくて、切なくて、しょっぱい涙の味がして、とても優しかった。


next…

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