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ネコの尻尾。
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100.
抗えば抗う程。


「おーおー。皆探してるぞー。いいのかぁ?」


立てた膝に顔を埋めていた私の頭上に、呑気な声が降りてくる。声を出さないまま、一度だけ大きく首を縦に振った。すると、続け様に竹内が大きく溜息を吐き出す気配を感じた。困っているのだ。訳も分からず生徒を匿うことになって、私と他の皆と、どちらに味方すべきか。

突然ゆかりちゃんや高坂ちゃんの前から姿を消した私を、テニス部連中だけならまだしも、クラスメイトやただの顔見知りの子たちすら探し始めているのだと知ったのは、逃走して30分も経たないうちだった。これには驚いた。此処へ来る途中も、バスケ部の女の子に「皆探してるよー!」なんて声を掛けられて、返事に詰まったりした。曖昧に笑い無言で立ち去るしか出来なかった私の行動を、きっとあの子は誰かに伝えるだろう。どこもかしこも人が沢山で、逃場が他に無かった私は、校内を走り回るうちに見つけた竹内に助けを求めたのだ。誰も居ないところに連れていってという願いに、竹内は私を進路指導室へと導いた。入ってすぐに内側から鍵を掛けた私は、その辺にあったパイプ椅子の上に座り込んで、それから更に30分も経っていた。


「全く……何があったんだかなぁ……。先生だって、皆に嘘つき続けるのは苦痛なんだけど」


無言を押し通す私に付き合わされて途方にくれているのは竹内で、皆からの協力要請にも応えるに応えられないでいるようだった。クラスメイトにも、その他の生徒にも人気の彼だ。昨今では教師と生徒の間での連絡先交換など当たり前。自分が学生時代だった頃には考えられないことだが、ごくごく自然に生徒たちからのSOSをその掌の中に受信する竹内。嫌なら出てって、と言おうとしてそれを止めたのは、こいつが誰かに私の居場所を漏らすとも限らないと思ったから。目の届かない所に行かれてはそれが不安で仕方ない。そんな理由だけでこの部屋に閉じ込めてしまった竹内は、頑なに動こうとしない私を前に、溜息を吐きながら時折り問いかける。口を開ける気配がないと察すると、また数分後にポツリ、ポツリと、もはや独り言に近いそれを繰り返していた。涙はとっくに収まっていたが、落胆した顔を見せたくはなくて、私は椅子に座ったまま立てた膝頭に額をくっ付け続けている。下着が見えるから止めろとさっき言われたが、じゃあお前が見なければいいと思って無視をした。


「なぁ……お前は何から逃げて来たんだ?」


正面を避け、私の右半身斜め後ろ。自らも椅子に腰掛けている竹内が、また口を開く。逃げて、という単語に僅かに肩が動いてしまったが、答える気はない。


「……逃げ続けてもどうにもならないぞ?」


そんな事は分かっている。当の昔に。いつだって、現実と向き合わなければならないと、自分自身に言い聞かせて来たんだ。目の前の景色から目を逸らすなと。受け止めるしかないと。そうでなければ、心が折れると思った。立っていられなかった。いつもいつも、絶望に負けそうになるのを、今この目に写る景色だけを見つめることで、気を紛らわしていたんだ。逃げたって状況が変わらないことぐらい、今更他人に言われるまでもなく痛い程分かっている。


「一生このままでいれる訳ないんだぞ?」


それだって、分かってるよ。私は此処に居られないんだ。いちゃいけないんだ。私は異質な存在なんだから。歳だって、容姿だって、誤魔化し続けていても本当の自分は違うんだって、いつも心の中で叫んでた。いつも皆と距離を感じてた。沢山の人と仲良くなって、その人のことを知れば知るほど、自分のことを打ち明けられない苦しさが増した。皆を欺いて、打ち明ける勇気もなくて。結局、皆から畏怖の目で見られるのが恐かっただけだって、本当は気付いてる。仲間や家族を傷付けるのが恐かったんじゃない、それを見て自分が傷付くのが恐かったんだ。自分の保身の為に騙し続けた。そんな卑怯な自分は、やっぱり此処にいるべきじゃない。分かってる。分かってるんだよ。


「……結局のところ、お前は何がしたいんだ?」


何…?何って、何?私はただ、こんな顔を皆に見られたくなかっただけ。溢れ出した寂しさが堪え切れなくて、流れた涙を見られたくなくて、そして逃げ出した。今日1日…いや、帰ると決めた日から、ずっと戦って来た。誰にも知られてはいけないと、顔に出さないように堪えていた。校内の至る所で襲ってくる寂しさに、負けないように負けないようにと、必死で己を律していた。ただ、ただそれだけだ。何かしたくても、此処での私はもう何も出来なくなる。


「自分が何を望んでるかハッキリしなきゃ、逃げてたって、いつまでも解決しないんだぞ?」


優しく諭すような声で、竹内は続ける。返答の有り無しなど既に諦めたのか一方的に続くそれは、その度に私の心を深く深く刺した。よくよく事情を知りもしないで、痛いところを的確に突く彼の言葉には、苛立ちよりも苦しさのほうが増していく。

何を望む、など。何も望んでなどいない。ただひたすらに、もうこの苦しさから逃れたい。早く明日を迎えたい。誰も知らないところで一人になって泣いてしまいたい。私が今望むのはそれだけだ。他にどうしようもないから。それ以上は望んではいけないと分かるから。自分で切り捨てたことだから。けどもう限界だった。耐えるだけのこの世界が、この空間が、限界だった。

たったの数ヶ月しかいなかったこの世界。それなのに、今思い出ばかりが蘇る。これまでの自分を振り返りたくないのに、振り返ってばかり。自分の弱さに情けなくなる。これまで、とは、この世界に来る前のことではない。この学校で過ごした日々、新しく築き上げてきた人間関係、その中に居た自分だ。その全てを失ってしまう。私はまた、失うんだ。全てが無になったあの時のように。またしても確かにあったはずの私の存在が、そこに無くなる。もしかして、私はまた、あの時と同じことを繰り返そうとしているんじゃないのか。あの絶望を再び味わうことになるだなんて、今ようやく気付いた。身を裂かれるような喪失感、虚無感、孤独感。あんな思いはもう二度と嫌だったのに。なんで。なんでっ…………!


「正直になれよ」


引っ込んだと思った涙が再び溢れ出しそうになったのと同時に、肩の上に、何か温かい感触を感じた。すぐに離れていったそれが何だったのか認識する前に、無機質に回るドアノブのシリンダー音を耳にする。やけに大きく響いたそれに、全身が強張った。


「悪いな、杉沢」


どうしていいか分からないまま上げた顔、反射で見上げれば目前には目を細めた竹内。白い歯を見せてニカッと笑った彼は、そう言うと身を翻す。その背中をボンヤリと目で追いかけて、視線の先にあった眩しい程の銀色に私は言葉を無くした。


「素直になるんだぞ」


そんな私に竹内は追い討ちを掛ける様に言い残し、静かに部屋を出て行った。


next…

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