もういいよ、と小さく呟いた声は沈黙に消えていくように吸い込まれた。無造作に床に散らばった下着や洋服を身につけ、ドアノブを捻った際に見た緑色は、ベッドの上で生まれたままの赤ん坊の姿を晒しながら足を抱えたまま微動だせず其処に呆けていた。
俺はチッと舌打ちを零し、ドアをバタンと態と大きな音を立てて閉めて、小さな2LDKのテリトリーを後にしたのだった。

喧嘩した理由など些細なものだ。ただ、俺の携帯に女性からの電話が偶然彼奴との行為中にかかってきただけ。携帯の電源を切るのを忘れていたのだ。そんな、他人から見ればとんでもないくらい些細な事。痴話喧嘩の殆どがそうだろう。木村とその嫁さんは、この前味噌汁は赤味噌か白味噌かなんて単純な理由で喧嘩をしたとため息をついていたものだ。俺と緑間の喧嘩もそうだと言いたいところだが、実際痴話喧嘩なんてそんな単純な言葉で言い表す事が出来るような溝であるかと言われれば首を傾げざるを得なかった。何故ならまず、俺と緑間の関係は他人に言えるような関係ではない。男同士の恋愛、それは同性愛者と見なされ、格差社会や差別を批判するこの国家に矛盾する冷たい目を向けられる対象になる事は間違いがなかった。ただ、俺や緑間の場合同性愛者と聞かれれば違うと言い張れるだろう。俺も緑間も、欲情の相手は間違い無く女性だった筈だ。まあ、ロマンチックな話ではあるが、好きになったのが偶然男だった、はい残念という話だっただけだったのだが。そんなものは言い訳にはならない。

何が言いたいかと言うと、異性同士の恋愛において痴話喧嘩として片付けられる事が、同性間ではそうもいかないと言うことだ。何時だって周囲の目に怯えて、神経が過敏だからだろうか分からないけれど、そんな些細な喧嘩ですら大きな事になってしまうのだ。今日の喧嘩だってそうだろう、彼奴は何かが不安なのだ。俺よりもずっと。はぁ、とため息を吐いて道端に蹲った俺の背中を、通り過ぎた酔っ払いのサラリーマンがばしんと叩いた。そして、よぉ、兄ちゃんとひっくり返った声で俺に話しかける。既に寝静まった住宅街の静けさに、場違いなその声はよく響いた。

「…なんだよ、酔っ払い」
「兄ちゃん、喧嘩でもしたのかよお?俺もなぁ、俺もなぁ、聞いてくれよ兄ちゃん。嫁となぁ、喧嘩したんだ」
「何で喧嘩したんだよ」
「嫁さんはよ、こえーんだとさ。彼奴なぁ、すげぇ怖がりなんだあ。俺にいつ捨てられちまうかわからねぇって、怖いんだとさあ。俺ぁ、悲しくなっちまったのよ」

俺ぁ、彼奴に全てを捧げて、それこそ全身全霊を込めて彼奴を愛してんだぜと。つもりじゃねぇ、愛してんだ、と。俺の隣にしゃがみ込んで、涙声でそう告げたサラリーマンの姿が、何だか自分と重なってしまって見えたのだ。サラリーマンの背広からは、酒と煙草の匂いが感じられた。女の媚びた香水の香りは一切していなかった。本当に此奴は、きっと安い飲み屋に同僚と虚しく男のみで酒を交わして帰って来たのだろう。愛されてんねぇ、アンタの嫁さんは。そう言うと、街灯に照らされたサラリーマンの顔はだらしなくへにゃりと歪み崩れた。そうだぁ、何てったって愛してんだからよ、と。

「子供は?いねぇの?」
「嫁さんがなあ、不妊症なんだよ。今必死に治療してんだけど、きっと駄目だろうって。まあ、だから彼奴はいつ捨てられっかわかんねぇって怖がってんだろーけどよ。でも俺、子供出来なくてもいいんだ。彼奴と俺の形を残すのは、何も子供だけが手段じゃねぇじゃん」

それを分かっちゃくれねぇんだよなあ、女は。と頭を抱えて不貞腐れるサラリーマンは本当に俺と酷く似ていた。状況から、何まで全て。サラリーマンの嫁さんの情緒すら、彼奴に酷く似ていて。そうか、彼奴は此れが不安だったのだ、と俺は地面に視線を移した。そして、それが喧嘩の発端だったのだと唐突に思い出した。痴話喧嘩の延長戦。きっと、このサラリーマンもそうなのだろう。そうだよなぁ、と俺は思わず呟いて、それにサラリーマンは反応を示した。

「何だあ?兄ちゃんも、同じなのか?」
「…まあな、俺も同じ感じだよ。たった今喧嘩して、俺が家を飛び出して来たんだ」
「へぇ」
「俺もな、彼奴も、素直じゃねぇの。だから、どうしようもねぇ。不毛な争いになっちまうんだ…けど、」

俺はすくりと立ち上がり、サラリーマンの背中をバシンと叩きながら笑掛けた。それを見て、サラリーマンも釣られたように笑った。

「あんがとな、アンタの話聞いて、ちと解決策が見出せたわ。アンタも、頑張れよ」
「おお、兄ちゃん、ありがとよぉ、頑張れよぉ」
「その千鳥足、何とかしろよ、事故にあうなよ」
「おー、わかってらあ」

ひらりと手を振って帰路に着くと、俺の背中に向かってサラリーマンが兄ちゃん、またなぁ!と声を掛けた。振り返ると、万遍の笑みを浮かべたサラリーマンが大きく手を振りながらそう叫んでいたのが分かり、俺も、また会えたらの話だろ、と大声で返事を返した。ただ、またあのサラリーマンに会えたら良いな、なんて考えながら。
まあ、きっと会えるだろう。人生なんてそんなもんだ。


「…ただいま」

電気すら付いていない静かな家に俺の声が響いたが、返事は無かった。寝てしまったのだろうか、風呂は、ちゃんと入ったのだろうか。数々の疑問や心配を頭に浮かべながら寝室に入ると、緑間は俺が出て行った時と大して変わらない格好で其処に座り込んでいた。シーツのお化けと化した緑間は、俺が入ってきたのが分かると涙声でおかえりなさい、と其れだけ告げた。泣いたのか、そう聞くと返事は無かった。奴の無言は、肯定でもある。

「緑間」
「…なん、ですか」
「俺さぁ、何か悲しいわ」

先程のサラリーマンと同じような事をつい口走った。緑間は、ゆっくりと頭だけを俺の方に向けて、そして同じくゆっくりと首を傾げた。俺を咎めるように尖らせた唇に、此奴はまだ餓鬼だなぁ、と苦笑しながらベッドに近づいた。俺が乗っかるとベッドはギシリと軋み、やはり安いベッドは耐久性が低いなと思う。まあ、その耐久性の弱さがまた味を出すのだろうけれど。

そのまま膝立ちで緑間の側まで近寄り、俺は緑間の身体をぎゅうと抱き締めた。その瞬間、緑間はびくりと身体を硬直させたが、逃げ出そうとはしなかった為調子に乗った俺は抱き締める力を強める。絶対離すか馬鹿野郎。

「みやじ、さ…」
「俺ぁな、こうしてお前といんのが結構好きなんだぜ。つか、1番?」
「結構なんですか、1番なんですか、どっちですか」
「1番っつったろ轢くぞ」
「…理不尽なのだよ」

すり、と緑間が俺の肩口に頬を擦り寄せる。適度な体温が心地良く、俺はゆっくりと目を閉じた。そうして出来る限り優しく、緑間のその翡翠の髪を梳かすように撫でてやる。柔らかく、女のそれとは違えども、細い髪は俺の手に馴染んでそれすら心地良かった。やめてください、なんて緑間は言うけれど、髪から覗く耳が真っ赤だから、単なる照れ隠しだと分かる。こういう所は素直なのだ。言い方は親父臭いけれど、此奴の仕草や身体はよっぽど口より正直である。

「お前は?お前はどうなの」

こてり、と俺は首を横に傾けて緑間に問うた。宮地サン、あざといっすよそれ!と高尾がよく下品に笑って来た仕草だった。そして、この仕草は何よりも、緑間に良く効く仕草であり、また逆に、彼が同じ事をした場合、俺にも効果は絶大な仕草だ。
それを知っているからこそ、緑間は卑怯だとでも言いたげに口をひん曲げ、眉を顰めて、ぷいっと顔を逸らして。

「…好きじゃなかったら!こんな格好アンタに晒せるわけないでしょうが!わかれよ!わかれよバカ!」
「えっ…」
「アンタいつもそうだ、頭良いくせに何でわかんねぇのだよ!バカッ、阿呆ッ、おたんこなす!先輩のおへそ取れちまえ!」

ぽかぽかと俺を殴り(とは言っても戯れる程度の強さだったが)、緑間は顔を真っ赤にして暴言を吐く。素直じゃない此奴の思わぬ本心に、俺の顔も一気に熱くなったのを感じた。やばい、どうしよう、どうしよう。
あー、とか、うー、とか日本語とは言えない言葉しか出ない。

「…緑間、好き」
「…4ヶ月と17日振りに聞きました」
「数えてたのかよ、キモいな」
「俺も好きですから」
「6ヶ月と3日振りに聞いたな」
「アンタも大概じゃないですか」
「素直じゃねぇなあ」
「アンタも、ね」

ふふ、と緑間が泣きそうに笑った。それに釣られるように、俺の表情筋も情けなく緩み、口角が上がる。その時、唐突にあの緩み切った顔をした酔っ払いのサラリーマンを思い出した。恥ずかし気も無く、あの緩んだ顔で自分の妻に対する愛を惜しげも無く吐いたあの男を。また会えたらいいな、と思った。そうしたら、今度は俺の惚気をこれでもかと聞かせてやりたい。俺が普段、目の前のこの男に囁けない分の胸の内に溜まるこの熱を、惚気として吐き出してやるのだ。そうする事で間接的に、こいつにも吐き出してやるのだ、と。我ながら悪趣味だと自嘲しながた。しかし、今は珍しく緑間は素直だ。だから今だけはこの可愛くない恋人にならい、俺も少しだけ素直にやってやるか、と緑間の髪を無造作に撫でてやった。





素直になれない宮地と緑間という事だったのですが、逆に何だか素直になってしまいました…ごめんなさい…。リクエストどうもありがとうございました
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