講義が終わって、今日はとくに研究室に用事もないし早く帰ってたまった家事をやってしまおうと早足に講義棟を出たところで、ちょうど黒尾先輩と鉢合わせた。先輩ももう帰るところだったらしく、それならと一緒に歩き始めようとしたときふとその足が止まった。
「なあ、ちょっと図書館寄りたいんだけど」
──そういうわけで私は今図書館にいるんだけれど、本来図書館というのは本を読んだり自習したりする静かでちゃんとした空間でなければならないのであって、それなのに私の耳には一切その雰囲気にそぐわない声やら物音やらが聞こえるのは本当になんでなんですかね。
ちょうど私もレポート用に借りたい資料があった。それがなかなかマイナーというか、研究が進んでいないようなテーマで、PCの検索結果に沿ってこの薄暗いあまり利用者のいないような書庫に迷い込んでしまった。
それなりに広いわりに設置された電球はやたらと少なくて、頼りない光の下でぼんやりと手元のメモを見ながら棚を辿っていると、奥の方で物音がしたのに気づいた。なんだろうと棚の向こう側を覗き込もうとする直前で何やらそれらしい声が聞こえ始め、思わず固まってしまってもう5分は経っただろうか。
多分私の前にある棚のすぐ裏に人がいる。人がいて、何やらをしていらっしゃる。
どうしようと立ち尽くしてみたところで声と物音はだんだんに盛り上がっていくばかりでなんの解決にもならない。ならないのは分かっている、ん、だけど。
メモを見るにどうやら私の欲しい資料はこの書庫の最も奥にあるらしい。それを手に入れるためにはその声の出所を通り過ぎなければならないわけで。どうしようかと頭を悩ませる前に、とりあえず即決した。
──あきらめよう。
近くに行くのも嫌。そんな現場を目撃するのも嫌。べつに急ぎで必要なわけじゃないし、場所が確認できただけでもよしとしようじゃないか。
頷きながら自分を納得させ、そうと決まればさっさと出ようと踵を返す。なるべく音を立てないよう忍び足で一歩を踏み出すと、狭い入り口から差していた光が不意に遮られた。
「…あ、せんぱ」
「資料あった?」
早く出ましょうと告げる前に、黒尾先輩は書庫にずかずかと足を踏み入れてきた。ちょっと足音うるさい、声も抑えて。あともうひとつわがまま言わせて。絶対気づかないで。
「いいです、もう出ます」
「なんで、…あ、届かなかった?」
「いや、あの違いますから早く帰りましょう」
「どこ?取ってやるから」
分かってる。先輩がただの親切心で言ってくれていることはもちろん分かってる。でもちょっと、ごめん空気読んで。
「や、ほんといいんですって。ていうか声でかいですって静かにしてくださいここ図書館ですよ」
「なんだよ別にそんなでけー声出してな…」
言葉を遮るように、奥からガタンとひときわ大きな音がした。同時に高い猫なで声もした。ついでに黒尾先輩の口の端もつりあがった。最悪だ。絶対面白がる。
「…なるほどなぁ」
「帰りましょう」
ていうか絶対こっちの声聞こえてんじゃんなんでやめないの。むしろなんで盛り上がってんの。気づけばいやらしいニヤケ顔を浮かべた先輩が目の前に迫っていて、睨みあげたところで素直に帰ろうかとなるはずがないけれど抵抗しないわけにもいかないのでとりあえず彼の手を引いてみる。
「先輩は資料見つかりましたよね帰りましょう」
「いや俺もここに用あんの」
「嘘ですよねバレバレです行きましょう」
どうせこっちの存在には気づいているのだからもう声を潜めたって意味は無い。それならばと少し音量を上げて説得を試みる。最悪だ。何度でも言う。なんて最悪な日だ。
「盛り上がってんなぁ」
くつくつと喉を鳴らして先輩は笑う。袖を引いていた手はいつの間にか絡み取られていて、すっかり私の顔の横の棚に縫い付けられていた。すぐ後ろから聞こえる声は押し殺しているように聞こえるけれどたぶん演技だ。フリだ。なんで私がこんなことに付き合わなければならないのか甚だ疑問だ。
「…先輩、もういいですから」
「なにが」
「なにがって、分かってんでしょもういいから早く行きましょう」
ほんとに嫌なんです、と目で訴えてもこの人がそんなことで許してくれるはずもなく、むしろ浮かぶ笑みはさらに深くなっていく。じゃあなまえちゃんは俺のレポート完成しなくてもいいの、なんてことまで言ってくる。じゃああんたの手の中にある大量の本はなんですか。そんだけあったら十分でしょうが。
なんと言ったらこの場からいちはやく抜け出せるのか。とにかくそれを重点に思考を回した。この人は自分が面白いと思ったらしつこい。諦めが悪い。じゃあ先輩に面白くないと思わせればいい。そのためにはどうしたらいいか。…ていうかうるさい。後ろからの物音がとてもやかましい。集中できないからちょっと黙っててくれ。どこまでやる気だお前ら。
「なに難しい顔してんの」
黙って私を観察していた先輩が口を開く。私の手首を押さえていた指先が今度は髪をつたっていく。口元は笑っているくせに目は笑っていないのが怖くてたまらない。背筋に寒気が走る。嫌な予感がする。
変な小細工はやめてもう普通に帰ろうと懇願しようと思った。先輩、と呼びかけようと私が口を開けるのを待っていたかのように、その先の言葉を奪うようにくちびるが重なる。オッケー予想してた。素直に受け入れるのでこれで満足してください。
「…ちょ、せんぱ、」
「声出すなって」
すぐに離れていくだろうと甘んじて受け入れたそれをどうしてこれだけで終わると思ったのか。顎を引こうとした瞬間に後頭部を文字通り鷲掴みされ、拒絶の言葉を吐こうとしたくちびるの隙間から進入してくる舌を噛んでやろうかと思った。
いつもより丁寧に口内を撫でる舌に息がうまく吸えなくて、つたない呼吸の合間に鼻から抜ける自分の甘ったるい声が鼓膜に響いて気持ちが悪い。手の中にあったメモをくしゃりと潰した。いくら空気を吸ったところでそのたびに全部酸素が奪われていくから意味が無い。いい加減つらいと手のひらで先輩の胸板をどんどん叩いた。
「……ん、」
「…長い」
「よさそうにしてたくせに」
「してない」
「そんな目で睨まれても怖くねーよ」
いくら私が睨んだところで余裕の表情は崩れない。後ろの物音はもう耳に入ってきてはいなかった。もしかしたらもう居なくなっているのかもしれないし落ち着いたのかもしれないし、単に私の耳に入ってこないだけなのかもしれない。
大きく呼吸をする間もないまま、先輩の舌がもういちど唇に近づいてきた。抵抗する暇もなく腰からかき抱かれて身動きも許されない。まぶたの裏にじわりと涙がにじむ。
二度目のキスの間、うっすらと開けた視界の端で手をつないで私たちの横をすり抜けていくカップルを見た。女の子の方と目が合ってしまったような気がしたけれどそのとき浮かんだのは羞恥ではなく怒りで、それでもあなたたちのおかげで私は今こんな目に遭っているんだどうしてくれるんだと詰め寄ることもできないからとりあえず先輩の舌に歯を立てておいた。
──帰り道でお前に噛まれたところが痛いと文句を言われた。それで興奮してたくせにと鼻で笑えば可愛げがないと苦々しく吐き捨てられたので、ざまあみろ、の意味をこめて声を出して笑った。
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