人の声を耳ざわりだとこれほどまでに感じたことが今まであっただろうか。


私と千代さんと黒尾先輩はそれぞれパソコンに向かっていた。キーボードがかちゃかちゃ鳴る音もマウスのクリック音も嫌いではない。むしろ好きだ。でもその合間に聞こえる女の声は気に食わない。

「千代、チョコあげる〜」
「ありがとー」
「はい黒尾も、あーんしてあげようか?」

その人が千代さんのお友達で、社会人の彼氏とラブラブで、黒尾先輩と現在何もないし過去何があったわけではないのは知っている。友達同士のたわむれだということも理解している。そもそも私がこんなことで腹を立てるほど子供じゃないということはこれまでの人生で私自身がよく分かっている。

「はい後輩ちゃんも、あーん」
「あ、・・・どうも」

人懐っこい笑みにほだされて素直に口を開けるとチョコレートの甘いかおりが鼻を突き刺した。手には冬季限定と書かれたパッケージがある。キャラメル風味の小さな粒は、今の私に甘すぎるほどだった。

少しだけ強めにエンターキーを弾く。今日の分の作業はもう終わったけど、このまま帰るのも癪に思えるのは千代さんがこの半年ほどで私のことを甘やかしすぎたからだと思う。

「千代まだー?」
「もうちょっと」

どうやら千代さんの帰りを待っているらしいその人は、私が授業終わりに研究室のドアを開けたときにはもうすでにそこでチョコレートをかじっていた。

ごめん、ちょっと待ってもらってるの。コーヒーを淹れてくれながら千代さんは申し訳なさそうに言った。ぜんぜん、気にしませんよ。実際、そのときは本当に気にしていなかった。本当に。でもわざわざ黒尾先輩の隣のデスクに座ることはないんじゃないですかね。

でもそんな小さなことに反発してしまうのはぜんぶその横で表情ひとつ崩さない先輩のせいだ。誰が淹れたのか分からないコーヒーは黒いままだった。ちょっとミルク入れないと駄目なくせに、なに強がってんの。誰にかっこつけてんの。馬鹿じゃないの。

悔しいから睨むこともしてやらない。最初にお疲れさまですと挨拶してから一言も喋っていない。だって話しかけてくれないし。研究もお忙しそうですし。ざまあみろ。過労で倒れろ。



「終わった。ごめん、お待たせ」
「お疲れ!」

私がここに来て1時間程経った頃、ため息をついて千代さんが立ち上がった。同時にお友達も鞄を手に取って、かわりにチョコレートを私に手渡した。これ残っちゃったから食べてね。そう言って。

「ごめんね、お邪魔しました」
「いえ、お疲れさまです」

チョコ、ありがとうございます。へらりと笑顔を作って応えると、千代さんと連れ立ってドアをくぐっていった。その前に黒尾先輩の肩をおつかれ、と叩いてから。

ぐっと奥歯を噛み締める。本当に、私はいつからこんなに心が狭くなったんだろうか。今までよくあったことじゃないか。この間まだ私と付き合い始めたことを知らないどこかのギャルに絡まれていたことに比べれば状況的には幾分かマシなのに、心情は数倍穏やかではなかった。

「なまえ」
「・・・なんです」

ドアが閉まってからすぐ、黒尾先輩が口を開く。やっと話しかけてきたかと思えば「コーヒー淹れなおして」、だそうだ。なめてんのか。

「・・・はい」

それでも私は立ち上がってマグカップを受け取った。べつに、優越感とかではない。半分も飲みきれていないコーヒーをシンクに流して大人しく注ぎ直した。やっぱりこれあの人が作ったのか。ミルクくらい自分で入れたらいいのに、変なところで不器用な気の使い方を見せる。

ミルクを少しだけ入れたコーヒーを持っていくついでに先輩のモニターを覗き込む。どうやら中間発表の準備らしく、プレゼン用の小難しい数値がずらずらと並べられていた。

「どうぞ」
「どうも」

私を見もせずにマグを受け取ってひとくち飲む。それにうまい、とかありがとう、とか、そんなコメントもとくに残さない先輩は相変わらずディスプレイに夢中だった。

「先輩、それまだかかるんですか」
「あー、あと30分くらい」

先帰ってていいぞ、と手を振られる。何それ、別に待ってたわけじゃないんですけど。私も私の作業があっただけなんですけど。

「そうですか。じゃあお疲れさまです」

袋の中にはチョコレートが2つ残っていた。分けてあげようかと思ったけどやっぱりあげない。こんな小さいパッケージ、私なら15分で食べ終わる。できるだけ感情を出さないように気をつけなければいけないのにも、また腹が立った。

「なまえ」
「なんですか」
「やっぱ待ってて。一緒に帰ろ」

そう言って先輩はやっと私を見た。断れないことを知っている目の奥に余裕がちらついているのを捉えてまた腹が立ったけど、でもやっぱり私は断れない。そのかわりにチョコレートを1つ先輩の口に押し込んだ。

「それ半分貸してください。打ち込みだけ手伝うんで」

いちばんむかついているのは私自身へだということにはとっくに気づいていた。イライラしている小さな自分が本当に嫌だ。千代さんのお友達にも先輩にもなんの非もない。積み重なった、結果。

パソコンの前に散らばった資料を集めて自分のデスクに戻った。黒尾先輩が口元をゆるめているのは見なくても分かった。見たらまたむかついて、自分にむかついて、余計に疲れるだろうから意地でも見てやらなかった。





***





そんな予定では無いはずだったのに先輩は私の家に来た。帰りに寄ったコンビニで晩御飯を買って並んで食べている間の会話はどうでもいいことまみれだった。つけているテレビについてとか、最近寒くなってきたとか、うまい酒が飲みたいとか。

あたたかい部屋の中で、私の尖った嫉妬心は少しずつではあるけれど溶かされていくようだった。先輩の実験は彼が思っていたよりも忙しかったらしく、いっしょにご飯を食べるのなんていつぶりだろう。1ヶ月以上ぶりかもしれない。夜遅くまで学校に残って、研究して、家に帰るよりうちの方が近いからと転がり込んでくることはよくあるけど。

「なまえさーん」

学校が忙しいというのは分かる。実際目の当たりにしているし、無理せずひとりでゆっくりしていてほしいとも思う。ゴミを片付けながらひとりもんもんと考えこんでいると、部屋から先輩がひょっこりと顔を出した。

「なんですか」
「おこ?」
「はぁ?」

何をふざけているのかと睨みつけるとなんの悪びれもなく先輩は笑っていた。別に怒ってないですいきなりなんですか。ゴミ袋の口をきゅっとしばりながら言うといきなり背中に衝撃が走る。

「・・・いたい」
「やきもち?」

頭に顎を乗せられているのがすぐに分かった。上から降ってくる声色にはからかいが入り混じっていて、ちがいます、とわざと乱暴に頭を振ってやる。邪魔です、どいててください。そう突き放すように言ったのに、先輩はなにも気にせず否定しないじゃん、といちばん触れられたくない部分をつんつんつついてくる。

「もー、先輩うるさい」

あいつはただの友達だから、とか。そんなことは聞きたくない。絶対言わせたくない。だってそれは違う。そうじゃない。何度も言うけど私はあの人に嫉妬したのではない。

今度は右手首をぐっと掴まれた。無言で引く先輩の左手は力強くて、べつにそんなことしなくても抵抗しないのに、と頭のすみっこで考えながら黙ってついていく。

投げ出された先はベッドの上だった。シャワー浴びてないのにベッドに寝るの嫌なんですけど、と文句をぶら下げてみるけど先輩は聞いちゃいないようで、すぐ隣に座り込んでくる。

「なあ」
「なんですか」

だってこんな、くだらないこと。言えるわけない。いっそ千代さんやそのお友達にやきもちをやいていた方がはるかに健全だし可愛げもあったはずだ。髪をすべる先輩の手が優しいのにそっと目を細めた。──久しぶり、だ、と、思う。最近はうちに来てもこの人すぐ寝るし。ご飯もいっしょに食べてくれない。

「機嫌なおせよ」
「べつに機嫌悪くないです」

だから、言えるわけがなかった。やきもち。そうですよ妬いてますよ。卒業研究とかいう、あなたにとって大事な、私にとってくだらないことに、私は妬いてるんです。笑ってくださいほら。それでちゃんと私のことかまってください。他の人と話してるとこあんまり見たくないです。遊びにも行きたいです。おうちでのんびり映画も見たいです。掃除手伝ってください。こたつ、ふたりで出しましょうよ。そういえば玄関の電球切れそうなんです。私じゃ届かないんです。ねえ。

口に出すかわりに、先輩の胸板に頭のてっぺんを押しつけてやった。痛がればかやろう。ちゃんと気づいてよ、あんたほんと察しよさそうな顔してぜんぜん不器用じゃないですか。期待はずれもいいとこですよ。──こんなことを素直に言えるほど私は可愛くないし、そのくせわざとほのめかして先輩を困らせるくらいには面倒くさい。

「ごめんな、構ってやれなくて」
「・・・そういうのが聞きたいんじゃないです」

ああほらもう、また可愛くないことを私の口は勝手に言う。いいんです気にしてませんとか、笑顔のひとつでも作ればよかったのに。怒りの矛先は最初から自分に向いているし、さらにはぐさぐさ心臓に刺さっていく。ずいぶん身勝手な感情だ。勝手に怒って勝手にへこんで勝手に傷ついてるんだから世話ないよな、とも。

「・・・ごめんなさい」

そこまで認めてしまえたら、あとは簡単だった。自分に怒るのにも疲れた。先輩にも申し訳なくなってきた。もうここで謝って終わらせてしまおうと思った。

「なにが?」

ゆっくりとした声に合わせるように背中に腕がまわってくるのを黙って受け入れて、うつむいたままでこのやろう、と思った。分かってるくせに。でもこうなってしまったのは私のせいだってことは重々承知の上だから、たまには素直になってやろうとぽつぽつ言葉をつむいだ。

「やきもち、じゃないんですけど。先輩が忙しいっていうのは分かってるし、べつに、無理に時間作ってほしいわけじゃなくて」
「・・・」
「ただちょっと、たまに、こうやってふたりでご飯食べれたらいいなって、思うわけで」
「・・・」
「研究も、できるだけ手伝うから・・・だから、また、ねえ、何笑ってるんですか」

くつくつと笑う声といっしょに先輩の体から振動が伝わって思わず頭をあげた。眉をよせているのは笑いをこらえているからなんだろうが全然抑えきれていない。無防備な腹あたりを殴ってやろうかとも思ったけどぐっとこらえて、そのかわりに押しつけていた頭をさらにぐりぐり押しつけてやった。

「いやお前、うん、そーだな」

ひとり納得したように呟いたかと思ったら私を囲っていた腕にぎゅっと力が込もる。もういちど、ごめんな、と囁く声が降ってくる。別に謝ってほしいわけじゃないんですけど、と言い返す前に、先輩は私の頭をそっと撫でた。

「今日手伝ってくれた分でだいぶ片付いたから、日曜どっか行くか」
「・・・ほんとに?」
「ほんと」

どっか考えとけよ、と言いながら、頬から顔を持ち上げられる。嬉しい、けど、いいのかな、と思うのはやめられないわけで。私が相当戸惑った顔をしていたんだろうか、先輩は吹き出したように笑ってからからかうような視線をよこした。

「お前ほんと俺好きだよな」
「はあ?」
「かわいーかわいー」

さっきまで珍しくやさしく笑っていたくせに、次の瞬間もういつものニヤニヤ顔に戻っていた。寂しい思いさせてごめんなとか、そんな顔して言われても腹立たしいだけなんですけど。別に嬉しくないんですけど。謝られてる気しないんですけど。

「な、好きだもんなー」
「・・・」
「なにその顔、素直じゃねーの」

今度はぐしゃぐしゃと髪を掻き回される。その手をばっと振り払って、うっさい好きで悪いかと怒鳴りつけながら今度こそ胸に頭突きをかましてやった。



back

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -