※付き合って数年後、社会人になってからのお話です



例えば駅までの道で金木犀が咲いていただとか、近所の野良猫が烏とケンカしていただとか、3階の奥さんがどうやら家出したらしいだとか。

そんな他愛もない日常の片隅を報告することになんの疑問も覚えなくなって、そろそろ3年が経つだろうか。

大学卒業後、私は予定通り就職し、黒尾先輩も2年の大学院生活を終え無事に就職、仕事を始めて2年。同棲の話も出たけれど決定的なそれは無く、週に2、3回先輩が泊まりにきたり、気ままにふらりと出かけたりしながら、大学生の頃とそんなに変わらない関係が続いていた。

お互いそんなに感情の起伏が激しい方ではないから、別れる別れないの大きな喧嘩も無く。だらりと時間が流れていくのを2人で感じるのが幸せだったりしている。

「サンマ食いたい」と短いメッセージが私のスマホに届いたのは、すっかり秋も深まった10月の今日、昼休憩のことだった。








「お疲れさまです」
「ただいま」
「おかえりなさい」

ちょうどご飯が炊き上がった頃にインターホンが鳴った。学生時代から住んでいるアパートは狭い1Kで、お味噌汁の鍋を温めなおしながらドアを開ける。

「なんですか、それ」

今日の先輩は珍しく手土産らしきものを持ってきていた。「プリン」ぼそりと応えてから冷蔵庫にごそごそ仕舞いこんでいる。先輩がプリン買うって笑えますね、の軽口は口の中でとどめておいて、「さんま焼きますから座っててください」とだけ伝えた。


できあがった食事を並べて、いただきますと2人で手を合わせる。栗ご飯、さんまの塩焼きと大根おろし、ほうれん草のおひたし、お味噌汁。それから作り置きのれんこんのきんぴらを添えた。

黒尾先輩と会うのは確か3日ぶりだ。その間にあったこととか上司の愚痴だとかを交互に喋りながら箸を進めていると、ふと先輩が神妙そうに口を開いた。

「あのさあ」
「はい?」

お味噌汁を一口含む。いい具合の塩加減と玉ねぎの甘味が広がって、今日はなかなか上手に出来たのではなかろうかと満足。でかい図体のくせにやたらと上手に身をほぐしながら、先輩が口を開いた。

「春からさ」
「はい」

ほうれん草の和えものも、この間作ったときより美味しい気がする。先輩にとってあまり珍しいことではない途切れた言葉の端から、いつもと少し違う、何かを言いあぐねている雰囲気が伝わってきた。

「異動の話出てて。まだ決まりじゃないんだけど」
「はぁ」

どこにですか、と聞きながらお茶碗を手にとった。栗ご飯、初めて作ったけどなかなか上手くいったなあ。でもちょっと味薄いかも。

「大阪」
「・・・おおさか」
「大阪」

さんまに箸を伸ばしながら黒尾先輩に目を移すと、ほうれん草をちまちま口に運んでいてなんだか笑えた。ああ、今日の違和感の正体はこれか。

「研究所ですか」
「そう」
「よかったじゃないですか」

よっ、期待の星。笑って茶化すように言うと、先輩は不機嫌そうに私を睨んできた。本当に、喜ばしいことだと思ってますよ。目を伏せてお味噌汁にもう1度口をつけながら言う。

「忙しくなりますね」

残り少ないさんまの身を取りながら、大根おろしと合わせて食べるとほんわりと頬に幸せが広がっていった。旬のさんまは脂が乗っていて、先輩と付き合うようになってからは特に食べることが多くなったから毎年秋は楽しみな季節である。

「・・・あ、もしかしてこれから別れ話とかします?」
「は?しねーよ馬鹿」
「ならよかった」

大好きなサンマだっていうのに箸が進むのが遅い先輩を笑いながら、最後の一口になったご飯を栗と一緒に放り込んだ。

「さすがに距離ごときで別れるの寂しすぎますから」

明日も平日なんだから、早く片付けてゆっくりしましょう。
そう先輩を促して、一足先に箸をテーブルに置いた。短い返事と満腹感に満足しつつ、大阪って新幹線で2時間くらいかな、1ヶ月に1回くらいは会えるかな。ぼんやりと、現実味の無いもんやりした想像を頭の中で繰り広げる。

多分、黒尾先輩はこの事をしばらく黙っていたのだと思う。もしかしたら千代さんあたりに相談していたかもしれない。

ああそういえば、千代さんにもしばらく会っていない。元気にやってるかな、と懐かしい顔を思い浮かべていると先輩が箸を置く音が聞こえた。同時に立ち上がり、食器を手早くまとめる。

「片しちゃうんでテレビでも見ててください」

先輩の背中をソファへ向かわせてから流しに立った。洗剤を泡立てて、丁寧にお皿を擦って、汚れを落としていく。

──転勤。大阪。

「(遠い、よなぁ・・・)」

グラスにスポンジを差し込んでぐるりと回す。外側も軽く綺麗にして、水に流して。お茶碗に手をつけながら、なかなか飲み込めない現実をゆっくりと咀嚼するように奥歯を噛み締めた。

「なまえー?」
「はい?」

テレビの音に混じって先輩の声が聞こえる。最後の1枚になった皿に視線を固定したまま返事をする。

「お前さあ、一緒に行く?」
「え?」
「おーさか」

・・・いっしょに?どこに?おおさか?いく?なにしに?
思わずお皿を手から滑らせそうになって、慌てて掴み直した。部屋にいる先輩を見るといつもと変わらない後ろ姿が座椅子にもたれていて、芸人がはやし立てる声に吹き出している。

「一緒に?」
「一緒に」
「大阪?」
「大阪」
「・・・内見、1人だと寂しいんですか」
「ちげーよ馬鹿」

蛇口をひねって泡を流し、ラックに乗せていく。違うということは、どういうことだろうか。先ほどまでの歯切れの悪さは転勤の件が原因かと思っていたけれど、違うのかもしれない。

「なあ」
「・・・ちょっと先輩、重い」

テレビの音が消える。黒尾先輩が立ち上がる気配を背中で捉えながら、手は止めずに次々と食器をラックに収めていると不意に頭に重みが加わった。邪魔ですよ、と頭上の先輩の顎を押し返すともう1度「なまえ」呼びかけられる。

「邪魔ですって」
「結婚しよって、言ってるんだけど」

・・・今度こそ、手に持っていたお皿を落としてしまった。
音にハッとなって拾い上げるとヒビも入ってはいないようで。そのことに安堵しつつも、頭の中は『結婚』の単語でいっぱいだった。

けっこん?・・・けっこん。結婚?

「・・・私と、先輩が?」
「そー」

手ェ大丈夫?なんでもないように言いながら、先輩が私の右手を取る。ごつりと骨ばった感触が伝わって、振り向こうとするけれどぐりぐりと押さえ込まれた脳天が痛くてそれさえもできない。

「先輩、痛い」
「んー?」
「・・・いいですよ」

ぽつん、と呟きながら。落としたお皿を水で流して、最後の一枚に手を伸ばす。

「・・・・ほんとに?」
「ほんとです」

がちゃりとラックが音を立てる。頭に乗っていた顎は取り払われていたけれど、振り向けはしなかった。・・・この人の前で頬が熱くなるなんて、いつぶりだろうか。付き合う前が一番照れていた気もする。そうなるとつまり、4年ぶりくらい?

「なまえ、顔見して」
「嫌です見たらさっきの取り消します」
「まじかよ」

ふわりと後ろから腕が回ってくる。お腹のあたりをぎゅうぎゅうとしめられて、苦しいと声を上げると楽しげな笑い声が返ってきた。

「黒尾先輩、汗すごいですけど」
「うるせーな緊張してんだよ」
「これから忙しくなりますね」
「ほんとにいいの、お前」
「こんなときまでへたれってどういうことですか」

ほっとしたような背中に当たるいつもの先輩の体温だとか、そのくせそれにそぐわない湿度だとか、調子が戻ったような口のきき方だとかに。私も緊張がほぐれたのか、声を出して笑った頃には随分顔の熱さも引いていた。

こんなときまでってなんだよ、と。特別気を害したようでもない黒尾先輩の言葉をかわしながら、少しゆるんだ腕の中で振り返った。

「先輩、好き」

これ以上幸せにしてくださいなんていうわがままを言うつもりはない。ただ、先輩と一緒にいられることを。ただ2人で、同じ部屋で同じものを食べることを。これからも続けていけたらいいっていう、そういう、簡単な話だった。

先輩は何も言わずにもう1度私を抱きしめた。ああ、本当に。本当にこれだけで充分だな。言葉にしないところが本当に先輩らしくて。私はこんな人だから、この人とだから幸せになりたいんだと。声に出すのが勿体無いくらいの気持ちを、そっと喉の奥で飲み込んだ。

「プリン食べます?」
「んー、いらない」

明日の朝にでも食って。そう言って、部屋の方に戻っていく。後を追いかけて、先輩の腰掛けた座椅子の隣にすとんと座った。バラエティ番組を見ながら数十分。他愛もない話をしていると、思い出したように触れるだけのキスが落ちてきた。



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