IH予選2日目。日曜だったけれど私用で応援に行けず、敗退の知らせを聞いたのは鉄朗からかかってきた電話だった。『負けた』小さな声で呟かれたその報告に鉄朗の感情がぎゅっとこめられているようで、こっちまで胸がつかえるような気分になった。
「お疲れさま」
ぽつりと、捻り出すようにして同じように呟いた。
きっと鉄朗はみんなの前で弱音も吐かないし泣くこともできないだろうから。だから私が彼の泣き場所にならなくちゃ。そう、思ったのがそもそもの間違いだったんだろうか。私の口から出てきたのは薄っぺらい励ましと慰めの言葉で、鉄朗を怒らせるのに充分なほど冷たい響きを持っていたのだ。
でもその時の私は、気づけなかった。
一瞬の沈黙の後に聞こえたのは慟哭のように激しく、押し殺したように冷たい鉄朗の声だった。
「とっとと部活引退して受験勉強してるお前に、俺の気持ち、分かる?」
──あの日から、連絡を取っていない。切るわ、と短く放たれた声の直後に電子音が鳴って、それっきり。もう2週間は経っていた。
謝らなきゃ、いけない。それは分かっている。
でも、なんて言って謝るの?
"鉄朗の気持ちも考えずに適当なこと言って、ごめん"?
許してもらえるとは到底思えなかった。この、"ごめん"という言葉でさえ鉄朗を傷つけてしまうのではないかと思うと恐ろしくてたまらなかった。そしてまた拒絶されることが、怖かった。
購買の近くの自販機の前で短く嘆息しながらボタンを押し込む。すぐ傍のパン屋さんは今日もひどく混み合っていて、横目で確認するけれどあのやたらと背の高い寝癖頭は見つからなかった。会いたい、でも、会いたくない。矛盾を抱えながら悶々としていると、不意に後ろから声がかかった。
「みょうじさん」
「・・・夜久くん」
購買で偶然会ったのは、よく知る彼氏の友人だった。夜久くんにバレないよう辺りを見回したけれど一人で来ているようで、鉄朗の姿が見えないことにひっそりと安堵する。
「あのさ、最近黒尾となんかあった?」
パックのミルクティーを取り出しながら、自分の肩がびくりと跳ねたのが分かった。どうして、と精一杯震えないように絞り出した声は自分でもひどく動揺しているように聞こえて、情けなくて心の中だけで少し笑った。
「・・・なんか、言ってた?」
「言ってはないけど、なんか機嫌悪いっつーか元気無いっつーか」
言いながら夜久くんは自販機に小銭を投入していく。もしかしたら部活に支障が出ているのだろうか。だとしたらそれは間違いなく私のせいで、言葉を間違えて鉄朗を傷つけたばかりかチームメイトにさえ迷惑をかけているかもしれない事実に背筋が冷たくなった。
「ごめん、それ、私のせいだ」
「あー、やっぱ?でもみょうじさんが謝ることじゃないから」
夜久くんはへらりと笑った。"ケンカならいつもみたいに相談乗るよ"、そう言って。
正直、私と鉄朗は比較的ケンカの多い恋人同士だと思う。くだらないことで言い争って、お互い素直じゃないからそれこそ夜久くんや海くん、私の友人にもたくさん相談という名の愚痴を聞いてもらって。それでなんとなく、謝ったり謝らなかったりしながらケンカと仲直りを繰り返してきた。
「うん、ありがとう。・・・でも、今回はちゃんと考えなきゃいけないことかも」
苦笑に近い笑みを漏らすと、「早く仲直りできるといいね」と夜久くんも笑ってくれた。じゃあ、と手を振って別れて、自分の教室を目指しながら密やかにため息をつく。
お前に俺の気持ちが分かるのかと、叩きつけるようにして怒鳴った鉄朗の声がまだ頭で鳴っている。そんなの分かるわけないじゃないと、雷が落ちたみたいにビリビリする脳の片隅で考えた私はきっと冷淡な人間なんだろう。
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「みょうじさん居たぞ」
教室に戻ってきた夜久から紙パックを受け取って代わりに小銭を渡した。来なくてよかったな、と笑うチームメイトから少しだけ目を逸らしてストローを挿す。
もう2週間声を聞いていないし姿も見ていない。クラスが離れていて良かったと思うのが正解なんだろうか。今の俺はきっと、まともになまえの顔を見て話すこともできないから。
「あいつなんか言ってた?」
ぼそっと呟くと夜久は呆れたように笑った。向こうも同じこと言ってたぞ、と。
「相談乗るって言ったんだけど、自分で考えなきゃだからって」
「・・・ふうん」
何しちゃったの、お前。言いながら覗き込んでくる視線から逃げるように、あの日から鳴らない携帯を閉じたり開いたりした。
・・・夜久になら言っていいかもしれない。一度逸らした視線を前の席に座って同じように携帯をいじっている姿を目に入れた。自動的に俺の格好悪い話をしなければならないのが気になるが、でもこのままでいいとも思わない。
「あー、夜久」
「ん?」
今から喋ること秘密な。
そう前置きしてから告げた事の顛末に、夜久は神妙そうな顔でなるほどな、と呟いた。
「なんかどっちもどっちだな」
「俺もそう思う」
「だからみょうじさん俺とか海に相談してこないんだなー」
飲み終わったパックに空気を入れて膨らませながら言った横顔を見つめる。先程も思ったがあいつが夜久に相談していないことが意外だった。ケンカの度に大抵夜久か海に愚痴ったり泣きついたりしているらしいから、今回も何かしら報告があったはずだと思い込んでいたから。
「口悪いけどいい子だよな、お前の彼女にしとくのもったいない」
「おい」
「俺たちに気遣ってくれてるんだろうなぁ」
それからお前のこと信じてたんだろうな。
続いた夜久の言葉にどういうことだと促せば、そんなことも分からないのかと言うように眉間に皺が寄った。
「負けるわけないって思ったんだろ、多分」
「・・・負けるわけないって、思ってたしな実際」
「それは俺もだけど」
お前も分かってるんだろうと、今度はパックをへこませて言う。
「どっちが悪いとかじゃなくて、お前がどうしたいかの問題だろ、これ」
なまえと連絡を取らなくなって3週間が経っていた。部活終わりに交わすメールも途切れて、でももしかしたらの期待を込めて携帯を開くけれど新着の印は無い。ため息すら出なくなって、大雑把に荷物をまとめて夜久と一緒に部室を出る。
「黒尾」
他愛もない話をしながら歩いていると、急にぴたりと夜久が足を止めた。つられて立ち止まると、あれ、と顎で差される。
校門まで行く途中にあるベンチに目線を向けると、見慣れた、でも久しく見ていなかった背中を見つけた。もしかしなくても、あれは、
「・・・なまえ?」
名前を呼ぶと肩がびくりと震えた。振り向いたなまえは今にも泣きそうで、もしかしたら付き合った期間で一番しおらしい表情をしているかもしれなかった。
「じゃーな」夜久の手のひらの衝撃を背中で受け止め、「悪ぃ」と一言謝ってベンチに近づく。正面に回って見下ろすと、逸らしたそうな視線が俺を捉えているのが分かった。
「よ、」
「ごめん、急に」
いいよ、と答えながら隣に腰掛ける。もう周りは真っ暗で、夜だというのに生暖かい風が頬を撫ぜた。こいつはいつからこうして俺を待っていたんだろう。俯いたなまえの横顔を見ると、下唇をぐっと噛んでいるのが分かった。何かを言いあぐねているときの、いつもの彼女の癖だった。
「・・・口噛むなよ、血出る」
「あ、うん」
「急にどうした」
聞きながら、我ながらずるいことを言っていると腹の中で笑った。本当はこっちから切り出さなければいけない話題を、彼女の口で言わせようとしているのだ。俺はいつからこんなに情けないのだろうと嫌気が差した。
「あのね、いろいろ考えたんだけど」
「ん」
「まずは謝らなきゃいけないなって」
ごめんなさい、と小さな声が聞こえた。謝らせるつもりなんて無かったのに、謝らなければならないのは俺の方なのに。隣に顔を向けると、目尻に微かな湿り気を見つけて胸がきゅっと鳴った。
──俺もごめん。言おうと思って開きかけた口からは何も出てこなかった。なまえの声が遮ったからだ。
「あのね、私、考えたの。私がいることが鉄朗の邪魔になるのが一番嫌だって思ってた。それなら一緒に居ないのが一番いいって」
スッと、脳が冷えた気がした。
・・・え?別れ話?
「なまえ、」
「でも違ったの」
「え」
「わがままでごめんなさい。私、そんなにいい子じゃなかったみたい」
「・・・なまえ」
「離れるなんて嫌」
それは俺も、と言う前に、小さな声に阻まれる。
「・・・別れるなんて、言わないで」
──え?
なまえの頭のてっぺんを呆然と眺めた。別れる?なんで?なんで俺が別れるなんて言う必要があるんだ。愛想を尽かされるなら俺の方だろう。
頭の中が疑問符でいっぱいになる。その時ふと、夜久の言葉を思い出した。
"あの子はそういう、気遣いのできる子だろう"
「・・・なまえ」
名前を読んでも顔を上げてくれず、彼女はいやいやと駄々っ子のように首を振る。
「ごめんな」
「やだ、聞きたくない」
「うん。でも、聞いて」
そうして俺は少し強めに小さな体をかき抱いた。宙ぶらりんのなまえの腕を背に回させて、うなじに鼻を寄せる。驚いたように息を呑むのが伝わって、さらに腕に力を込めた。
「誰にも相談できなくて辛かったな」
「・・・」
「ごめんな。俺、お前に甘えてた」
──3年、最後のインターハイ、敗北の直後、崩れる部員たち、主将という立場。
悔しさで頭がどうにかなりそうで、でも自分を奮い立たせて、部員たちから離れ、電話に出たなまえの声を聞いた途端に泣き崩れそうで。そんな、自分が情けなかった。
励ましで言ってくれたであろう彼女の言葉が残酷に響いた。気づいたら俺のための言葉に怒鳴り散らして、思ってもいないことを言ってなまえを傷つけて。
今だってそうだ。こいつが会いにくる前に、ちゃんと自分からケリをつけなければいけなかったのに。でも本当に情けないことに、離れたくないと消え入りそうに鼓膜を揺らした声に、俺もだよとしか言えなくなった。
強引に回させた腕に力が篭るのが伝わってくる。この小さい身体を、抱きしめられているんじゃなく抱きしめているんだと錯覚したのはいつの頃だったからだろう。それは途方もないほど俺のエゴで、慢心で、勘違いだった。
「ひどいこと言って、ごめん」
「んー・・・」
俺の胸に押し付けるようにしてぶんぶんと頭を横に振る。顔上げて、と促すと真っ赤になった目と目があって、囁くようにもう1度ごめんと口を動かした。
「・・・別れない?」
「別れるわけねーだろ」
手を繋いで歩く帰り道で、あの時の俺は本当は泣きたかったのだと気づいた。3週間で溜まっていたことを交互に話しながら、いつもより狭い歩幅でゆっくり歩いた。
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