お前明日講義は。2限です。必修か。違います。よし休め、んで明日10時にお前んちな。
一方的に切られた電話を呆然と眺める。有無を言わさない先輩にもだいぶ慣れてきたけど、こんなに堂々とサボれなんて言われたのは初めてだった。その後10時は無理っすとラインしても送ってやったの誰だっけとしか返ってこない。いやあなた自分で勝手にやってるだけとか言ってたじゃないですかと、言いたいけど言えない後輩の性で私は朝10時に間に合うようアラームをかけた。
研究室のネコ 07
朝10時ちょうど、黒尾先輩からの着信を知らせる音が鳴った。意外と遅刻とかはしないのかと感心しながらそれに出ると、準備できたら下降りてきて、とだけ。もうすでに着替えて化粧も済ませていた私はすぐに玄関へ向かった。・・・いや別に、楽しみとかではなく先輩を待たせるのもいかがなものかと思っただけで。
アパートの外に出てまず目に入ったのは黒い車だった。特に自動車には興味がないので車種がなんだとかはわからないけれど、こんなところに停まっているのは珍しいなとふと思う。さて先輩はどこだときょろきょろしていると、その車の運転席の窓が開いた。
「斎藤」
「・・・・せんぱ、」
「朝から頭悪そうな顔してんなよ」
「その車、先輩のですか?」
ていうか今日車なんですか?どこいくんですか?免許持ってますか?
矢継ぎ早に質問を繰り出す私に、とりあえず乗ったら教えてやるから早くしろ、と助手席を顎で示した。
「好きな曲かけていいから」と、先輩は自分のiPhoneを投げてよこした。今日はどうやら本当に車でどこかへ出かけるらしい。親の車だと教えてくれたこの車内は綺麗に片付けられていて、きょろりと見回すとあんま見んなと先輩の手が私の頭を無理やり進行方向に向けた。
「先輩ロック解除してください」
「お前の誕生日入れてみ」
にやにやしながら私を一瞥する先輩を見て、言われた通りに打ち込むとロックが開いた。開いてしまった。何このテクニックめっちゃチャラいっすねオリジナルですか、とどん引いているとこれでときめかなかったのはお前が初めてだと声をあげて笑われた。噂通りの遊び人っぷりである。
入っているアーティストを眺めていると好きなバンドがあったのでその中でも一番好きな曲を押す。ドライブにぴったりとは言わないけれどアップテンポなエモロックで、先輩がいいねえと呟き口ずさんだ。
「先輩、行き先教えてもらってないんですけど」
私は東京に住んでいて東京の大学に通っているが、それは大学生になってからだ。田舎から出てきた私は先輩がどこへ向かおうとしているのかまったく見当がつかない。
「江ノ島〜」
「えのしま?・・・神奈川の?」
「そう」
水族館いこうぜ、と先輩は鼻歌交じりに言う。
「ほんとにデートみたいですね」
「デートだろ」
「・・・」
やめてください、恥ずかしいです。
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「おい、あのアザラシお前そっくりだぞ」
「じゃあ先輩は向こうのマンボウですかね」
マンボウって寄生虫振り払う衝撃で死ぬらしいですよ。ぷ、と笑いをこめて言うと頭をガッツリと掴まれた。俺はそんな間抜けじゃねーよと言う先輩を見上げると楽しげで、つられて私も笑ってしまった。
途中で休憩を入れながら私たちは江ノ島に無事到着した。先輩は運転も上手で、女の子連れて乗り回してるんですねと言うとお前はもうちょっと素直に俺を褒められないのかと肩をどつかれた。
「水族館なんて久しぶりです」
「俺も」
ちょうどやっていたクラゲのショーに目を奪われながら呟く。きれい、と呟くとものすごいニヤニヤ顔でお前の方がキレイだよと笑いをこらえる先輩と目があって、思わずお腹のあたりをぶん殴ってしまった。笑顔のまま先輩が固まるけれど、今のは確実に先輩が悪い。
「雰囲気考えてください」
「真面目に言ったらお前が顔真っ赤っかにしちゃうからわざとふざけてやったんだろうが」
「言い訳カッコワルイ」
思ってないから真剣に言えないんですよ。ショーも終わって、次のコーナーへ歩き出しながら言った。朱莉はキレイってより可愛いからなと髪を撫でられる。こういうときばっかりニヤニヤしないから、黒尾先輩はだいぶずるい。
「ほっぺ赤い」
「・・・赤くない」
「照れた?」
やっぱ可愛いじゃんと私の顔を覗き込む先輩の顔面を手で押さえ、からかうのやめてくださいと言うとお前その暴力癖なんとかしろよ、そう言って手を払いのけられた。
「・・・あ、もう1周しましたね」
「おー、結構広かったな。 足疲れてない?」
「大丈夫です」
でもちょっとお腹すきましたと笑うと俺も、と笑い返してくれた。
4時頃だったので、水族館の近くにあった適当なカフェに入った。海の近くだからか、インテリアがガラス細工でいっぱいで、テーブルには貝殻があしらってあって、その可愛い空間と黒尾先輩が妙にマッチしていてまた笑ってしまった。
「なんか今日よく笑うな」
「?」
コーヒーを飲みながら先輩が言う。砂糖を入れない、ミルク少なめのいつもの配合。
「最近なんか悩んでたみたいだし?」
「・・・(誰のせいだと)」
「あ、俺のせいって思ってるだろ」
見透かすみたいにニヤリと笑う。いや、見事言い当てられたからみたい、じゃないんだけど。
「ほんとにあれから、あいつからは連絡ないんだな?」
「はい、先輩のおかげで」
「ならいいけど」
「・・・先輩」
んー?間延びした返事を聞きながら私は姿勢を正した。「先輩、」
「あの、ありがとうございました」
「私あのとき流されてたら、また浮気されて泣いたと思うから」
「先輩が来てくれて、嬉しかったです」
本当にありがとうございましたと頭を下げる。先輩はいーえ、と短く言って私の頭をぽんと撫でた。その優しい手つきに、私は安心してしまった。
「タバコいい?」
「あ、はい」
先輩タバコ吸うんだなあ、初めて知った。ポケットから箱とジッポを取り出してボ、と火をつける。長い指がタバコをはさんで、煙が立ち上る。なんか先輩とタバコの組み合わせってやらしいなあ、なんて考え込んでいると「なに?」と少し先輩が困ったような声を出した。
「え?」
「そんな見られると黒尾先輩恥ずかしいんですけど」
「あ、すみません」
指が綺麗だなあって、思わず見ちゃいました。素直に言うと先輩は一瞬面食らったような顔をして、それはどうも、と目をそらした。・・・これは。まさか。
「先輩、照れてる?」
「・・・うるせーな」
て、照れている。まさかとは思ったけれど、黒尾先輩が。あの黒尾先輩が、恥ずかしがっている。
これは!と思いスマホのカメラを構えるとレンズごと掴まれて撮影は叶わなかった。残念だ。
「あれですね、直球に弱いんですか」
「だからうるせーって」
だまんないとちゅーするよ、と口元だけで笑う先輩が面白くてまた笑ってしまう。なんだ、意外と可愛いとこあるじゃんとまだ眺めていると、黒尾先輩は急にタバコを灰皿に押し付けて「もう飲んだな、出るぞ」と私に立つよう促した。
ちょっと怒らせちゃったかな。お店を出て前を歩く先輩の背中を追う。からかいすぎた・・・、少し後悔し始めたところで先輩が立ち止まって振り向き、ちょっと散歩してこうぜと私の隣に並んだ。
「す、すみません・・・」
「いいって、謝んな」
しばらく話しながら海辺を散歩している最中、私は自分の足の異変に気づいていた。・・・靴擦れだこれ。痛い。今日はあまり履きなれていない、今年に入ってから買ったヒールが高めのサンダルを履いてきた。それで慣れない場所を歩いたものだから、皮膚が耐え切れなかったんだろう。なんとか気づかれないように、普通に、置いてかれないように。そうやって気をつけて歩いていたものの、先輩にはやっぱりバレてしまった。心配そうな顔で近くにあったベンチに座らされ、今黒尾先輩はなんと私の足元に跪いて絆創膏を貼ってくれている。
「(臭かったらどうしよう・・・!)」
「ん、できた」
痛くない?と聞く先輩に座ってたら大丈夫ですとひきつった笑顔で返す。それよりも。
「ごめんなさい、こんなサンダル履いてきちゃって」
「なんで謝んの。それ可愛いじゃん」
可愛い。さらりと言えてしまう先輩が少し眩しくて、やっぱり生きてる世界が違う人なんだな、と思ってしまう。こんな風に靴擦れした女の子の面倒を見るのも慣れているんだろうなんてつまらないことを考える。
「ていうか今日、可愛いねお前」
「・・・先輩はいつもかっこいいデスネ」
「なんだそれ」
「別に」
あんま気にすんなよ。またぽんと頭を撫でられる。失敗したなあ、なんでこんなサンダル履いてきちゃったんだろ・・・。
「俺のためにおしゃれしてきてくれたんだろ?」
「・・・そういうわけでは」
「素直じゃねーなー」
そろそろ帰るか。ベンチから立ち上がって、黒尾先輩は私に手を伸ばす。ほら、と促されて私はその手に掴まった。ひとりで歩けますと言うけれど先輩は無言で指を絡める。少し迷った後それに答えると、驚いたように私を見る。きゅ、と手に力がこもるのを感じた。
「先輩、ありがとうございました」
帰りの車中では、手を繋いだことなんてなかったみたいに2人ではしゃいだ。好きな曲を流して、途中のコンビニに無駄に寄ってアイスなんか買ってみたりして。そんな風にして帰ってきたら行きよりも倍近くの時間がかかってしまったようで、私の家のまえに着く頃には随分真っ暗だった。
先輩と暗い中、このアパートのまえにいるといやでもあの夜を思い出してしまう。先輩が私にキスをしたあの日。
「足ちゃんと消毒しろよ」
「はい」
じゃあ、と助手席のドアを開けようとすると後ろから先輩が私の肩を引いた。黒尾先輩。振り向いて呟くと、先輩は私の目をじっと見る。
「覚えてる?」
「・・・何がですか」
「お前に好きって言ったの」
ふい、と視線を逸らそうとするけれど先輩の手はそれを許してくれない。覚えてますけど、先輩忘れてなかったんですねと可愛くないことを言うと先輩はちょっとだけ笑った。
「当たり前だろーが」
「ぜんぜん触れないから忘れちゃったかと思いました」
「あのね、」
どんだけ俺を薄情ものだと思ってんの。呆れたように言って、またちょっと笑う。その先輩の口元に思わず見入ってしまう。
「今日楽しかった?」
「はい」
「俺も楽しかった」
「・・・よかったです」
「今日会ったときテンション上がった」
「・・・?」
「デートコーデ、って感じで」
「だから別にそんなんじゃ」
「そんなんじゃないの? ・・・俺のためにそういうの選んできてくれたって思って、嬉しかったんだけど」
今度は笑わないで、私を見る。ずるい、と思った。そんな目をされたら逸らせない。
「嘘じゃねーよ」
「朱莉、好きだ」
こうして私は黒尾先輩と2度目のキスをした。この前と同じアパートの前で、この前とは違う車の中で、・・・この前とは違う、全然不意打ちじゃないそれに、私は黙って目を閉じた。
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