高校を卒業して、蛍くんが大学進学を機に上京して、わたしはひとり地元に残って、そろそろ3年が経つころの話だ。


わたしは今日も真っ暗にした部屋で唯一となった光の根源を眺めている。言葉だけは流暢に出てくるのだ。つらりつらりと並べたそれは無意味に長いだけで、わたしのただ消費するだけの毎日がそこにはあって、そうして、送信ボタンはいつも押せない。

ため息の味にはもう慣れた。だからいつものようにそっと布団に画面を伏せる。目をつむってしまえばすぐに眠れるようになった。閉じていた目をさらに押し込めるように、ぐっと目頭にちからをこめる。かれは今ごろ何をしているだろう。何を、どこで、だれと。わたし以外のだれと、いっしょに。


眼前の闇に浮かび上がるのは、わたしがまだ幼かった頃、無謀だった頃、まだかれのことも自分のことも信じてあげられていた頃のことだった。2年前、大学にあがって数ヶ月経った頃、毎日のメールでは我慢しきれなかったわたしが踏み込んでしまったこと。だれにも言わず、わたしは勝手に蛍くんの大学にしのびこんだことがある。

いま思い出してもわらってしまう。喉のひりついた感覚。わたし以外に笑いかける横顔。背の高い、講義棟らしい建物から出てきた見慣れたきんいろの、その隣には当たり前だけどわたしの知らない女の子がいた。

高校1年からの付き合いだ。ちゃんと正面から見なくてもわかる。かれがちゃんとこころを許したひとにしか向けない笑顔を見たのは数ヶ月ぶりで、それが自分を捉えていないことがひどく悲しくて、腹立たしかった。

声もかけられずに立ちすくんだわたしを置き去りにして、連れ添うようにふたりはどこかへ歩いていってしまった。背中にぶつかった誰かのカバンに押されるように、わたしの足は力なく駅へと向かっていた。

ただただ恥ずかしかった。勝手に期待して失望して、なにもできずに逃げてしまう自分が。帰りの電車で少しだけ泣いた。ありがちすぎて笑っちゃう、なんて自分を慰める言葉に酔いしれながら。

逃げ帰った数日後、蛍くんはわたしのメッセージから何かを勘づいたようで、一度だけ「何かあった」と聞かれたことがある。「何もないよ」と可愛らしいスタンプを添えて返事をした。そっけないけれど途切れなかったかれの言葉が1週間も見られなくなったのは、そのときが初めてだった。



そうこうして2年が経つ。あれからわたしには見つけられなくなってしまった。不安をひもとく方法も度胸も、かれに会いにいく理由も。



***



かれのいない毎日は、ひどく乾燥してヒビすら入っているようなのに、それは蛍くんがここを出ていってからずっと変わらないはずなのに、わたしはなんとか笑えていた。


ポケットのなかで震えたスマホをゆっくり取り出す。ああ4限の授業だるいな、あの教授あんまり好きじゃないんだよな。そんなことを考えながら、あえて届いたメッセージの内容は確認せず、この間てきとうに取ったアプリゲームを開く。蛍くんからなのはさっきホーム画面でちらりと見えたから分かっていた。

数時間前、わたしは3日ぶりにかれに向けてメッセージを送った。あのとき、1週間程連絡をとらずにいたことを機に、わたしたちのやりとりはたいてい3日おきかせいぜい1日おきになった。寂しくないといえばうそになるけれど、慣れというのはおそろしいもので、それがいつしかわたしの当たり前になってしまっていた。悲しいことに。

2回続けてゲームオーバーになったところで、やっとみどりのアイコンに指をのばす。赤い丸のなかには2が表示されている。いとしい彼氏からのはずなのに、どうして見るのがこんなに怖いのか。…それはわたしが、数時間前に送った言葉に由来する。

「……あー…」

やっぱりね、は口に出さずにしまっておいた。最初にごめん、とひとこと。用事があるとはふたことめだ。そしてその直前にはわたしが送った『今度の日曜、そっち行ってもいい?』。

「誕生日、なぁ…」

なんの用事、なんて聞けるはずがないのだ。臆病なわたしは、だいじょうぶ、を魔法のことばに置き換えて、自分を慰めて、蛍くんから距離をとって。

9月27日が差し迫っている。去年までは、たとえ平日でも、かれが地元でいちばん好きなお店のショートケーキを持って、蛍くんのアパートにお邪魔してご飯をつくって。どれだけ連絡をとっていなくても、それだけは欠かさなかったのに。

「…それもなくなっちゃった」

研究が忙しいらしい。2週間前の受話器越しの声はひどく疲れているようで、明日も早いと聞いたときに、わたしから電話を切ってしまった。夏休みも蛍くんが帰省したのはお盆の間だけだった。もちろんわたしも蛍くんも、お互いと会う以外の予定だってあるわけで、実際いっしょにいられたのはたったの1日、しかも夜ご飯をふたりで食べただけ。

少しだけでも、一言だけでも、会いたいしおめでとうって言いたい。こんな風に思っているのはわたしだけなんだろうか、…なんて。わたしはこんなに想っているのになんてひとりよがりすぎて、こうして自分を責めるたびにかれをけなしめているようで、それでも寂しくて、混ざり合った感情は、いかりのように底に沈んで、わたしはいつまでも身動きがとれずにいる。

「…もういい、4限さぼろ」

恥ずかしげもなくひとりごちて、氷が溶けてもう半分水になっていたカフェラテをいっきに飲み干した。トレーを持って席を立ちかけたところで、そういえば返信をしていないということに気づく。

「あーもうなんて返してやろう…むかつく…なにそれ用事って…どうせあの女といちゃいちゃしてんだ…」
「あの女ってどの女?」
「…………」
「間抜け面。ていうかひとりごと多すぎ恥ずかしくないの。あとなまえ馬鹿なんだから講義受けるくらいちゃんとしなよ。そんなことにも気づけないなんて」

もしかしなくてもあたまがわるいの?と口の端をつりあげる、そのひとを馬鹿にしきった仕草がこれでもかというほど似合う、なんて口が滑ろうものならたとえ彼女相手でもとんでもない罵倒がとんでくる──蛍くんは、そういう人だ。そういう人だし、そういう人がいま目の前で優雅にホットのカフェラテを飲んでいるのは、…いったいどういうことだろうか。

「なんでいるの!?」
「うるさいなぁ…たまたま用事あったんだよ」
「なにそれ!あっもしかしてお兄さん結婚するとか!?」
「なんでそうなるの」



***



かれの言う『用事』であるところの、わたしと同じ大学に進学していた元同級生たちとの会話を、蛍くんは4限の時間内にすっかり終わらせてしまっていたらしい。講義が終わる頃にはメッセージが入っていて、さっきのラウンジにいるからさっさと来いとのことだった。…急に押しかけてきて、とんだ王様である。元チームメイトのこと馬鹿にできないぞ。

電車に揺られて30分ほどにあるわたしたちの最寄り駅は、いつものように田んぼの真ん中にぽかんと建っている。大学近くのカフェでお夕飯を済ませたから、日はすっかり落ちていた。


「こっちに戻ってくるつもりだから、就職」

駅からの帰り道を、暗い空が覆っている。蛍くんはまぶしそうに目を細め星を仰いで、それからゆっくり口を開いた。なんのことか分からずに、となりを行く蛍くんを見上げる。本日二度目の「間抜け面」を言い放ってから、かれは口の端を吊り上げてみせた。そうしてみるみるうちに目じりが少しだけ、ほんとうに、ほんの少しだけ、ゆるむように下がるのだ。

「…決まんなかったらどうするの」

とっさについて出たかわいくないわたしを発言を、あなたはいつも鼻で笑う。嬉しくないといえば嘘になるどころか、本当は今すぐにでもかれに飛びついてしまいたいくらいなのに。

東京の方が就職あるんでしょうとか、大学4年間都会で過ごしてこんな田舎に戻ってこれるのとか、なんで毎日連絡してきてくれないの、とか。瞬間的に一見現実めいた言い訳が、頭の中を渦巻き始める。うれしいって、わらえば、いいのに。われながら素直じゃない。

また自己嫌悪のループに陥りそうなわたしを、見透かしたように蛍くんが笑う。午後からずっと信じられないことの連続で、キャパオーバーしそうな頭の中に、いつもより少しだけ低めの声がそっと落ちてきた。


「なまえがこっち来ればいいんじゃない」

待っていなくていいんだということに、わたしはやっと気づくことができる。それくらい、不確定な夢のはなしを、かれがするのは特別だった。



「こっちはよく見えていいね」

秋の夜はそれなりに肌寒い。寒くなると星がきれいに見えると教えてくれたのは、たぶん蛍くんだった。街灯のない黒くのびた道を進んでいると、空に溶け込んでいくようで、ひどく心地よかった。

「…週末までこっちにいるから」
「えっ本当!?」
「夜。声でかい」
「ケーキ予約してないのに…!あとどうしよう、ご飯作るのも練習してない!」
「練習したってたいして変わんないでしょ、あとうるさい」

じゃあくち塞いでみてよとおどけてみせるのも、いくらか久しぶりに思えた。そうすると蛍くんはいつも目をすがめて、馬鹿じゃないのと吐き捨てる。わたしはその声にひどく安心してしまうのだ。となりにいることを、許されている気がして。


こうしてふたりでゆっくり歩いていると、高校生のころを思い出した。今よりずっともっと幼くて、後戻りなんてできないと思いこんで、それでも諦めきれなかった、あのころのわたしたち。

蛍くんが第一志望に大学に受かった日のこと。東京の学校に行きたいらしいと、人づてに聞いた日のこと。はじめてのキスの温度は、夕焼けに照らされてもうよく覚えていないけれど。

あの、雪の振る卒業式の白が、蛍くんの制服を彩っていたこと。坂道のうえ、いつもわたしと歩くときより少しだけ遅いペースで背中を遠ざけるかれの首に巻きついているのは、わたしのはじめての、蛍くんへの誕生日プレゼントだった。そしてそれだけはひどく、鮮明に、ずっとずっと、胸をしめつけて離さない。

「蛍くん」

そっと、見上げて呼びかける。大好きだと伝えてもあまい言葉を返してくれるあなたじゃないから、涙をぬぐってくれる指にわたしは勝手にいろんな意味をのせて。気まぐれにふれるキスの味を飲み込んで。そうしてふたりで生きていく。


たまに同じように振り返って、ずいぶん遠いところで立ちすくむ制服姿のわたしを、あなたが笑ってくれたらそれでいい。



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