彼氏と喧嘩をした。

図書館の前にある木陰のベンチに腰掛けて、ぼんやり空を仰ぐ。夏の空は、低い。





欠け失せる痛覚




「あーあー、ひどい顔して」

落ちる影と一緒にひやりとした硬い感触が額に触れる。それは缶のつめたいスポーツドリンクで、うだるような暑い外に居た私に心地よく浸透した。「なんか用」、短く言ってその缶を受け取ろうとすると遠ざけられる。「俺が飲むの」と、二口はそう言ってふたを開けた。まったく、いつ見てもむかつくやつだ。

「また喧嘩ですか」
「・・・してない」

二口という男は私の1つ下の学年で、とくに部活が一緒でも委員会が一緒でもない。ではなぜこうして彼が私を構うのかと言えば、それは「なまえ先輩が好きだから」だそうだ。去年の、これまた暑い夏、そしてこの場所で、私は唐突に告白された。「一目ぼれしました、付き合って欲しいです」。

私は今の彼氏と既に付き合っていていて、それを丁重にお断りしたのだけれど。それでも二口は私を見つけるたびに傍に寄ってきてはこうしてからかって去っていく。そのことで、彼氏と喧嘩したこともあった。あの男はなんだと。・・・私が聞きたいくらいだった。

迷惑だからやめてと、はっきり言ったこともあった。彼氏が勘違いするからと。でも二口は唇の端を片方だけ釣り上げてこう言った。「勘違い上等、それで別れたら儲けもんでしょ」

この二口という男は、ああ言えばこう言うを体現したかのような男で。ほんとに振られたらどうしてくれるのと言い返せばじゃあ俺の彼女になればいいじゃん、とすんなり言ってしまうような、そんな奴だ。


「喧嘩はいいけど、ちゃんと授業出なきゃダメだよ」
「二口こそ、サボってたら部活に影響出るんじゃないの」
「俺はほら、要領いいから」
「よく言う」

先輩には負けるよ。そう言って二口は私の隣に腰を下ろした。ジリジリと太陽がうるさい午後1時42分。5限目真っ只中のこの時間、決して好いてはいない後輩と一緒に過ごすには少しぎこちない。

「なんで喧嘩したの?」
「二口には関係ない」
「やっぱ喧嘩じゃん」
「・・・」
「俺なら先輩のこと悲しませないよ?」
「見るからに軽薄そうな顔して」
「ひでー」

はは、と声をあげる彼を横目で見る。ごきゅりと喉が音をたてて、スポーツドリンクを摂取していく。私の視線に気づいたのか、二口は「飲む?」と缶を差し出してきた。いらない、と目を逸らす。

「どうせまた浮気されたんでしょ」
「違う」
「先輩の顔見たら分かりますよ」

この男に私の何がわかるんだろう、と思う。でも完全に見透かされていて、ぐ、と言葉に詰まった。1度や2度じゃないから、見当がついたんだろうけど。

「お前がいちばんだ、って」
「そんなの嘘っすよ」
「でも、そうやって言うんだもん、」
「先輩」

なまえ先輩、ほら、泣いていいから。ぽんと私の頭を撫でて、二口は優しい声でそう言う。こうやって、二口の隣で泣いてしまうのは何回目だろう。私は、何度あの人に裏切られて、そのたびに信じてしまうんだろう。二口のことを好きになれたら楽なのに、どうして。






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昼休み。たまたま図書館の方にひとつだけある自販機に来ていて、なまえ先輩を見たのはそのときが初めてだった。先輩はそこでひとりで涙をこらえていて、でもこらえきれてなくて、そこには誰にも居ないのに一体何に強がってるんだろうと思いながらぼんやりそれを見つめていた。1年の頃、こんな風に暑い夏のことだった。

まぁ何かあったんだろうと思ってスポーツドリンクを買う。学内でここにしか売っていないのは把握済みで、そのゴトリと鳴った音に先輩はびくりと肩を揺らして俺を見た。目があったとたん、俺は吸い寄せられるように自分用に買ったそれを差し出していた。「一目ぼれしました、付き合って欲しいです」。まぁあっけなく、ご丁寧に断りの言葉をいただいたけれど。

その時は名前も知らなくて、その日の部活で茂庭さんに聞き込んで名前を知った。みょうじなまえさん。あの泣き顔を思い出すとどうにももんにゃりとして、少し頬をゆるめる俺に「でもみょうじさん彼氏いるよな」と鎌先さんが余計な一言をくれた。

「あー、いるけど」
「・・・え、なんスか」もしかして別れて、それであの涙とか。
「その彼氏、すげえ遊んでるって噂」
「まあ噂だけどなあ」

・・・なるほど、それであの涙。




それから、図書館のあのベンチで涙を流す彼女を何度か見かけた。多いときは月に1回、落ち着いていても3月に1度は、なまえ先輩はそこでひとり泣いていた。こんなふうに暑い夏も、雪が降って肩に積もっても、浮気が発覚して喧嘩した次の日の昼休みから5限目の終わりまで。6限目はちゃんと出席して、そうしてまたあの彼氏と帰って行く。バカバカしいと思った。どうしてどんなに固執するのかと。あの男のどこがそんなにいいのかと。

「俺のほうがいい男じゃん」そう呟いて、何度あの2人の背中を見送ったことか。もう数え切れないくらいそうしていた俺の方が、まあ傍から見たらバカバカしいんだろう。でも彼女が泣くたびに話しかけると「二口」と無理して笑う先輩がいとしくてたまらなくて、本当に、俺を見てくれたらいいのに。その背中に願わずにはいられなかった。





「先輩」試しに腕を広げるけれど、なまえ先輩は何してるの、と笑って取り合ってくれない。無理やりおさめてしまったらほだされてくれるだろうか。嫌われるのが怖くてそんなこともできないと知ったら、彼女は笑ってくれるだろうか。

5限目終了のチャイムが鳴った。俺と先輩だけだった時間の終わりを告げるその音に顔をしかめる。こうやって、何度も何度もそれに引き裂かれてきた。先輩は何もなかったみたいに立ち上がって、「次の授業はちゃんと出るんだよ」と俺の頭を撫でて3年の教室に帰って行く。今日も、いつもみたいにそうなるはずだった。けど。



「・・・っ先輩、」

思わず先輩の目を覆った。図書館のベンチは校舎裏に面していて、チャイムと同時にカップルが校舎の影から現れて、そこでキスしだしたからだ。それでその男の方は先輩の彼氏で、馬鹿みたいなににやにや顔を貼り付けて女子に迫っていたからだ。

「二口」
「先輩、黙ってて」
「離して、大丈夫だから」

ぐいと手を押しのけられる。泣いていないか不安だったけど、その目にさっきみたいな優柔不断な揺らぎはなかった。代わりに何かを決めたみたいにして、き、っとそのカップルに向かって歩き出す。・・・ちょっとそれは予想してなかった。

「なまえ先輩、ちょっと」
「二口はそこにいて」

ずんずんと歩く先輩の肩をつかめばその手は振り払われて、そこにいろと言われても不安すぎてついていくことにした。「ちょっとお取り込み中申し訳ないんですが」冷ややかな声で告げる先輩にぎょっとしたのは俺だけじゃなく、カレシとそれにちゅっちゅされていた女も勢いよく振り向いた。その様子を、俺は一歩引いて見守る。

「それ、新しい彼女?」
「・・・・」
「そうなんだ」
「違うんだ、昨日も俺はお前が一番だって」

言っただろ、と言う前にその頬に先輩の張り手が飛んだ。・・・うわあ、すっげー音した。今まで「なによ」とばかりになまえ先輩を睨んでいた女もすっかりびびったようで後ろで縮こまっている。ちらりと先輩に目を向けると、口を真一文字に結んで眉間に力を入れていた。彼氏は信じられないといった様子で叩かれた頬を手でおさえている。

「もういいから」
「ちょ、ちょっと待てって」
「今までありがとう、ばいばい」

冷たく、でも震えた声で言い放って。先輩は踵を返して行ってしまう。それを追いかけようとすると後ろから「ひどいあの女」とキンキン声が飛んできた。振り返れば心配そうにそいつの頬をさする馬鹿女と、悔しそうな表情を浮かべるカレ・・・元、彼氏。

「お前あいつの浮気相手だろ!ふざけんなてめえ、人の女に手出しやがって、」
「はあ?」

俺につかみかかるそいつに、上から思いっきり睨みつけた。俺よりタッパもない、器も小さい、みみっちい男なんて年上とか一切関係なかった。こいつは俺の大事な人を散々傷つけてきた、ただのゲス野郎だ。

大会前じゃなかったら一発ぶん殴ってやったのに。苦々しく思いながら俺の胸元を掴んだ手をできるだけ力をこめて振り払って、「あの人は俺がもらうから」と一言だけ言ってすぐに先輩を追いかけた。泣き虫なあの人のことだ、きっとどこかでまた泣いてる。こんなやつにかまってる暇なんかなかった。







「先輩、見つけた」

案の定、先輩は反対側の校舎裏の花壇のあたりで座り込んで泣いていた。下のコンクリートは黒く涙で染まっていて、先輩の目は真っ赤で、見ていて痛々しかった。そっとなまえ先輩の右手を取る。さっき、あいつに一発お見舞いしてやったその手も少し赤くなっていた。

「何してるの」
「浄化。 あんなやつに触って、汚れちゃいましたからね」
「・・・なに、それ」

ふざけて先輩の手のひらにキスを落とした俺に、笑う声が聞こえた。なまえ先輩の前にあぐらをかいて、きゅ、とその手を握る。

「すっきりした顔してますね」
「うん、やっと勇気出せた」
「遅いっすよ」
「・・・二口のおかげだね」

握った手がいったん離されて、俺の手が握られた。しっとりして、ちょっと熱い手のひらにきゅんとした。そうやって少しだけ笑う先輩はやっぱり無理している気がして、別に泣いてもいいのにと思う。もしかして邪魔してるかも、とも。

「あ」

6限開始のチャイムが遠くで聞こえる。またさぼっちゃうね、と呟く先輩に今日は授業でろって言わないんですねとは言えなかった。言ったらあっさりこの手を離されてしまいそうで。行っといでと、簡単に言われてしまいそうで。

「先輩」泣いてもいいんですよ。続けようとした言葉は「ふたくち、ごめん」小さなその声に遮られた。握られた手が先輩のまぶたにあたる。ぽろりと、まぶたと、頬と、先輩の手を伝って、涙が俺の手にこぼれる。心臓をぎゅうと掴まれた感じがして、その手を少し乱暴に払って、体育座りしていた先輩を引き寄せて抱きとめた。なまえ先輩は少し驚いたようで、でも一拍置いてわんわん泣き始めた。

「あんなでも、わたし、だいすきで」
「うん」
「ぜんぶわかってたのに、なのに、」
「うん」

そこからは言葉になっていなかった。俺はひたすら、先輩の背中をとんとんと叩く。
・・・10分くらい経っただろうか。ぐずぐずと鼻をすする先輩が顔をあげて、ごめんと一言呟いた。

「なんで謝るんすか」
「なんか、こんなことしてたらあいつと同じな気がして」

離れていこうとする先輩の体をもう1度抱きしめる。1年間、ずっとこうしたかったけれどできなかった分。噛み締めるように丁寧に、先輩を腕におさめた。どうせ俺のことを利用してる、とかそんなことをバカ正直に考えてるんだろう。この人は本当に馬鹿だ。別に、利用してくれたっていいのに。そのために今俺はここにいるのに。

「俺はさあ、先輩、待ってるよ」
「ずっと待ってたから、これからもいくらでも待てる」
「でもちょっとはご褒美くれてもいいと思うんだよね」

自分の肩口に先輩の頭を押し込めて、ぽつぽつと呟く。もし許されるなら、と、思った。もし許されるなら、今よりずっとそばで先輩を見ていたい、守っていたい。黙ったままの先輩に言葉を続けた。

「最初の理由なんて"寂しい"で充分。
 俺で先輩の気持ちを埋められたらそれでいいから」

ぱ、と手を離して先輩と目をあわせる。驚いたような、戸惑ったような、でもその瞳にちょっとの隙と迷いを見つけて俺は思わず苦笑した。それにね先輩。

「俺、なまえ先輩に好きになってもらう自信あるよ」
「・・・え、」
「ま、可愛い後輩にチャンスをやると思って」

ね、お願い。目を見つめてそう言うと、先輩は少しだけ視線を下に向けた。やっぱりこの人は押しに弱い。

「とりあえず今日送ってくね」
「・・・部活行きなよ」
「行くよ、待っててくれるでしょ?」

ぐいぐい押すとどんどんほだされてくれる様で、首をかしげて"ね"、と念を押すとでもでもだってと言い訳を始めた。まったく。

「あでも、あいつに余計なことされたらかなわないから部活見に来てくださいね」
「えっ」

・・・こうしてあの男にも言いくるめられまくってたんだろうなあ、と思うと少し複雑だけれども。先輩の優柔不断っぷりに感謝しつつ、落ちるのなんて時間の問題な気がしてならないこの人をどう素直にしようか。俺のことを好きだって、言ってくれる先輩はきっと顔を真っ赤にして随分可愛いんだろうなあ。いつかそうなるであろう結末に思いを馳せて、俺はもう1度先輩を抱きしめる。

「なまえ先輩、好きです」

耳元で囁けば慌てたように胸を押されて、そんな先輩が可愛くて仕方がなくて、やっと俺のものになる喜びを噛み締めた。

6限終了まで、あと30分。


タイトルはDOGOD69様より。



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