後ろ手にドアをしめて、お気に入りのクッションの上にぼすんと腰を下ろした。マグカップに淹れた紅茶からは湯気が立ち上っていて、飲んで落ち着こうと思っていたのに熱すぎる液体はうまく喉を通っていかない。

課題があるのは本当だった。背を向けるように家から出るとき、それでも視界をかすめた孝支の顔は傷ついたように歪んでいて、思い出すたびに胸がちくんとうずく。両手でカップを包んでみても、皮膚の表面だけに熱が伝わって逆におなかの底から冷気が漂うのを際立たせるだけだ。


「すき・・・」


背中をベッドにあずけて目をつむった。好きの意味は考えなくても分かった。まっすぐに私を捉えた視線、迷う素振りも見せずに動いた口元、少し困ったように歪んだまゆげの形。

ゆっくりと今までのことを思い返してみる。小さい頃、公園からの帰り道を手をつないでふたりで歩いた。私が転ぶと孝支はすぐ立ち止まって起こしてくれて、痛いと泣く私に自分も泣きそうな顔をしてだいじょうぶだって言い聞かせてくれた。当たり前に隣に立っていたこと。原因さえ忘れてしまった喧嘩のこと。何年か前の旅行先で、お互いの親が酔いつぶれたのを放って温泉街をふらふらとさまよったこともあった。

返事はいらない、と孝支は言った。でもこのままでいいとは思わないし、たぶん孝支もそう思ってる。答えを出さない限り、今まで通り幼馴染でいられることなんてこの先きっとない。


──嫌だ、と、思う。
孝支と気まずいままなのは嫌。これまでどおり、一緒にいられなくなるのが嫌。


ひとくち、紅茶を飲みくだす。この"嫌"は、じゃあ、孝支が好きだからかって聞かれたら、どうなんだろうか。孝支のことは好きだ。そんなの当たり前だ。このまま私が肯けばどうなるだろう。幼馴染から恋人同士に、私たちを指す名前が変わるとして。


私はそれを、名乗ってもいいんだろうか。


すき、すきだけど、でも。同じだけの気持ちが、覚悟が、私にあるんだろうか。

覚悟だなんて大げさだと笑われるかもしれないけど、でも、10年以上も続けた私たちの関係性を終わらせることが、今の私にできるんだろうか。それとも首を横に振ったらいいんだろうか。そしたら今のままでいられるんだろうか。

そんなわけが無いことくらい私にだって分かっていた。じゃあそれを避けるために孝支を受け入れたとして、そんなのは、ただの、

「ただの、わがまま・・・」

頭がこんがらがってきた。誰かに脳みそを絞り上げられているみたいに視界がくらくら揺れていく。

いちど、整理をつけたかった。どうしよう、紙に書き出そうか。大きく息を吐いて立ち上がったそのとき、ブレザーのポケットに入れていたスマホがかたんと音を立てて床に転がった。

「・・・電話?」

ぼそっと呟く。誰かに聞いてもらって、それで意見をとまではいかないけど。それでも喋ったら少しは整理がつくだろうか。そっとロックを解除して、メッセージアプリを立ち上げた。誰なら聞いてくれるかな、と考えながら画面をスクロールしていくうちに、ふと数時間前のことが脳裏をかすめていった。



***



「そういうわけなんだけども」
「なるほどね。・・・てかなんで俺?」
「・・・松川なら聞いてくれるかなって」

私が事の顛末を話す間、松川は黙って、ときどき相槌を入れながら、とくになにを思う風でもなく聞いてくれていたようだった。ごろんとベッドに寝転がって一気に話したはいいものの、整理どころか思考は相変わらず堂々巡りを繰り返していた。

そもそも孝支はなんで私のことが好きなんだろう。いつからなんだろう。どう思う、と聞いてみても俺が知るかと一蹴された。そりゃそうだ。

「・・・ずっと一緒にいたから、好きとかよくわかんなくって」
「あー」
「松川さあ、好きな子いるって言ったじゃん?だからどんなもんなのかなーって」
「どんなもんって言われてもな」

呆れたような声音が響く。自分でもかなりアホっぽいことを聞いているとは思うけど、

「・・・ふつーに、会えたら嬉しかったり」
「うん」
「笑ってんのとか見たら、やっぱ可愛いなーとか」
「うん」
「あとは、こう、誰にも取られたくないって、思ったり」
「・・・松川ってさ」

好きな子、誰なの。そう聞こうとして、名前を呼んだ。なに、とやる気なさげに返ってくる声に答えようとした。でもその前に、ドアの向こうで確かに何かが音を立てた。

──一瞬、お母さんたちが帰ってきたのだと思った。でも違う。明らかに小さく鳴る足音は、ひっそりとこの場を立ち去りたそうに聞こえた。

まさか、と思った。慌ててドアを開けて階段の方を確認すると、孝支の背中がもう見えなくなっている頃だった。





世の中にはタイミングというものがある。恋愛の成就にはそれが重要なんだと、何人目かの彼氏と別れた友達が言っていた。

たとえば今はどうだろうか。たぶん私が松川と電話しているのを孝支は知ったはずだった。今この状況で、私の部屋の前に孝支が立っていることは、タイミングが悪いというんだろうか。そしたらこの、私と私の幼馴染は、どう、なってしまうんだろうか。

でもこのとき私は、確かにまずいと思った。聞かれた、どうしよう。違うの、と言い訳が口をついて出そうだった。何が違うのか、どうしてまずいのか、よく分かっていないくせに、それでも。


ぎゅっと耳に当てたままのスマホを握り締めた。なんで、なんで帰っちゃうの。


どうしたと電話の向こうで訝しげに問う松川に、なんでもないをひとつのため息といっしょに吐き出した。スマホを持っていない右手を握りしめる。てのひらに爪がくいこむのも痛くなんてなかった。

「・・・小鳥遊」
「ん?」

声がくぐもってよく聞こえないのは回線のせいだろうか。それとも孝支のことばかりを考える私の頭がそうさせているんだろうか。とにかくこの時の私は、孝支のことで頭がいっぱいだった。動揺したように乱れた足音、気づかれないようひそりと辿った階段。それでも玄関が閉まる音は空間を抜けるように響いてしまった。

今すぐ孝支の部屋に行って、それで、ああでも、そんなことをする度胸が今の私にはあるだろうか。もやもやと煙がかる視界の悪い胸の中をどうやって説明したらいいのか分からないまま、孝支の顔を真正面から見ることなんてとてもできない。

ごめん、もう寝る。明日話すね、急にごめん。そう言って電話を終わらせてしまおうとした。とても眠れるとは思えなかったけど、このまま松川と電話を続けていたら妙なことを口走ってしまいそうで、少し怖かった。ごめん、と口を開きかけた、そのときだった。電話越しの声が、このときだけはやたらと鮮明に浮き上がった気がした。


「好きなんだけど」

──俺も、小鳥遊のこと。


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