前から2番目の車両のいちばん後ろのドア。
朝早いからまだ空いているのにそこに立ってもたれている。
「(・・・・あ、今日もいる)」
いつもそこに同じ高校生がいることに、私が意識し始めたのはいつの頃からだろう。
大学4年の5月。
大学院に進学すると決めていた私は就活もせず、既に卒業研究に精を出していた。
「(今日も早朝実験・・・)」
実験は同じ時間にやらなければ意味がない。意味がない上に、私が使う試料は濃度調整が非常に難しく、今日もやり直し実験だ。もう何度目だろう。
「(テーマ変えたい・・)」
もともと興味のある研究テーマではなかった。しかし、企業との合同研究でしかも教授じきじきのご指名。「変えたい」とも言えずやり直しの日々を送っている。昨日も遅くまでデータ整理といくつか取っている授業のレポートに追われていたため眠気が取れない。
あくびをしながら電車に乗り込むと、正面にいつもの男子高校生。
「(おはようございマス)」
心の中で挨拶し、私も定位置に座る。彼の正面左、長椅子の一番端のポジション。いつもならここでイヤホンを耳につっこみ研究ノートを開くのだが、今日はノートは開かず周りを眺めた。
すっかりおなじみの顔ぶれである。あの男子高校生と、読書中の大人しそうな女子高生、クマを作ったサラリーマン数名と(お疲れ様です)大学生と思われる男女何人か。
あれ、梟谷のジャージかなぁ。部活の朝練なのか、その高校生はいつもジャージ姿でそこに立っている。あの高校は確か運動部が強いはず。頑張るなぁ、青春だなあ・・・。高校時代帰宅部で、放課後は友達とカラオケしたりメントスコーラしたり、馬鹿なことしかやっていなかったので彼の部活の青春に想いを馳せる。やる気のなさそうな顔をしているが、毎日電車にいるので頑張っているんだろう。
「(お、降りていく)」
いつも私の降りる数駅手前で降りていく彼を見送る。背が高いからバスケ部か、バレー部か。朝練がんばれー、なんて心の中でつぶやく。
さてノート開きますか、と視線を落としたところで、彼が立っていた位置に小さな手帳が落ちているのを発見した。
「(・・・・・・あれは、もしかしなくとも)」
生徒手帳っぽい。
─────────
「あかあし、くん」
朝練に向かうべく、始発に近い早朝の電車に乗る。いつもの時間、いつもの車両、いつものドアの前に立つ。俺が乗って2駅先で、いつも乗ってくる女の人がいる。
その人はいつも正面の端の席に座る・・・・のだが。
「赤葦くん、だよね?」
なんでか話しかけられている。名前まで呼ばれている。
「あ、ごめん、私みょうじなまえ。・・・じゃなくて、これ」
相当怪しげな顔をしていたのだろうか。彼女は慌てたように名乗って、手帳を差し出してきた。
「・・・・あ」
「君のだよね?」
「あ、」
昨日落としてたの見たの、どうぞ。そう言って笑う彼女・・・みょうじさん、から生徒手帳を受け取る。ぱらりとめくると、それは間違いなく自分の物だった。
「間違いないです。わざわざありがとうございます」
「いやいや、私も駅に預けようかと思ったんだけど」
乗るのも降りるのも違う駅だし、どうせ会うわけだから直接渡しちゃおうと思って。ふわりと笑うみょうじさんに頭を下げて、彼女を窺ってみる。
茶髪で化粧もしていて私服。いつも端の席に座ってイヤホンをつけ、なにやら難しい顔でノートを凝視する彼女は今年に入ってから見かけるようになった。いつも俺のほうが早く降りるのでどこかは分からないが大学生だろう。
「赤葦くんはバスケ部?」
「・・・・いえ、バレー部です」
手帳を渡し終えたらすぐ席に戻ると思っていたので、話しかけられたことに少々驚きながら返事をする。背高いよねえ、とニコニコする彼女に「・・・みょうじさん、も、背高めですよね」と返す。
「私はほら、ヒールだから」少し脚を上げてみせる彼女の足元を見ると、なるほど10cmほど厚底があるサンダルを履いている。そのとき電車が小さく揺れ、片足をあげていたみょうじさんがすこしぐらついた。
「座ります?」
「・・・うん」
どんくさくて申し訳ない、と少し恥ずかしそうに笑う。よく笑う人だな、と思う。「赤葦くんいっつも立ってるよね、こだわり?」席に2人並んで座りながら「いえ、立ってたら寝ないので」「なるほど」と言葉を交わす。
「赤葦くん朝練?」
「はい」
「そっかー、毎日大変だね」
「みょうじさんは授業ですか」
「うん、そんな感じ。卒業研究が忙しくて」
卒業研究。せいぜい2個か3個上だと思っていたので、少なからず驚いた。4年生、ってことだろうか。
「今年卒業ですか?」
「うん、でも来年からは大学院」
理系だからね、と言う彼女に大学名を聞くと、難関大学の理学部だった。「赤葦くんは何年生?」「2年です」「2年生かー!」いいねいいね青春だねー、学校楽しい?
「まあまあですかね」
「ふふ、現代っ子っぽいね」
私高校の頃、メントスコーラの記録競ってた。そう言う彼女にどうやって勝負するのか聞きかけたところで次は梟谷だとアナウンスが流れる。
「あ、」
「もう着くね」
朝練頑張って、の言葉に「はい」と返す・・・
「あの、また話し相手になってくれますか」
つもりだった。気づいたらこんなことを言っていた。自分でも意外すぎて、あの、座っても寝ないで済むし、とかまるで彼女を利用しているみたいな言い訳をしてしまう。
「あ、いや今のはそういう意味じゃ」
「ふふ、そういう意味ってなあに、」
ほら降りなきゃ。そう笑う彼女に小さく会釈をする。
「赤葦くん、また明日」
手を振る彼女にドキリとしたのが恋だと、俺はまだ気づいていなかった。
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