右手のシャーペンをくるりと回して息をつく。目の前のノートに書かれた数式と文章題に頭を悩ませつつ、もうこれ一生終わらないんじゃないの、と半分諦めぎみに窓の外を見やるともう夕焼けが広がっていた。

普段ならもうとっくに家で夕方の再放送ドラマを見ているはずのこの時間、私は教室で居残り勉強をしていた。これが自習ならまだよかったものの、残念ながら今日提出の宿題をすっかり忘れて「今日の放課後提出な」と教科担当に頭を叩かれてしまったのだ。

やったけど家に忘れました、って言えばよかった。

窓の外から聞こえるサッカー部の声を聞きながら、もう1度大きくため息をつく。口から吐き出された気体と一緒に、唇がピリと痛んだ。知らないうちにひび割れてしまっていたのだろう、筆箱からリップクリームを取り出して塗りつける。

ノートに目を落とす。残すはあと2問。シャーペンを握り直し文章に向き直った。3次関数のグラフ問題だ。解答に辿りつくためにとりあえず式を2回微分してみる。

さらさらと文字を書き連ねていると唐突に教室のドアが開いた。先生かな、と目を上げるとそこに立っていたのはジャージ姿の同級生で、にやにやしながら私を眺めている。・・・嫌な奴に、見つかってしまった。

「黒尾」

がたりと音を立てて私の席に寄ってくる黒尾はその笑みを崩そうともしなかった。まだ課題終わんねーの、と茶化すようなその口ぶりに自分の目が坐るのを感じた。

「部活は?」
「終わった。で、忘れ物取りに来た」
「わー、もうそんな時間・・・」

1問解けるごとにスマホを触っていたのだからそれもしょうがないか。今日何度目か分からないため息をもう1度ついて、自分の席から忘れ物、と言っていたノートを持った黒尾が私の机の前にしゃがみこんだ。

「さっさと終わらせろよ」
「うるさいなあ」
「お前頭いいんだからすぐ終わるだろ」
「別に頭よくないよ」

机のへりに肘をついた黒尾を見下ろす。このクラスメートは私より随分背が高いから、この角度から見る彼はなんだか新鮮だった。

サッカー部も練習が終わったのか、なんだかしんとしている。練習終わりの黒尾のシーブリーズのにおいがふんわり香った。黒尾は私の筆箱から勝手にペンを取り出して提出用のノートのすみっこに何やら落書きをしているようだ。

「ちょっとやめてよ」
「んー?」

少し乱暴に黒尾の手からペンを取り上げて筆箱に突っ込むと、ちょうど入口のあたりにあったリップクリームが床に落ちてしまった。拾い上げる前に黒尾がそれを手にとって、はい、と手渡される。

「・・・ありがと」
「いーえ」
「帰んないの?」
「帰ってほしい?」

にやりと私を見上げるその目はいたずらに濡れていて、それがなんだかむかついてでこぴんをお見舞いしてやった。いてーな、とまるで堪えていない黒尾から目を逸らしてノートに向き直る。

そうだ、私はこれを片付けてしまわないといけない。黒尾に構っている暇などないのだ。途中まで解いた続きから、ぐりんと平面上に3次関数を描いた。勉強を再開しても黒尾はまだそこで私を見上げているようで、その視線を黙殺しながら閾値だとかの条件を当てはめていく。

「なあ、」そう呼ぶ声に生返事で答えて、あともう少しで最小値が出そうだったとき。ふと何かが唇に触れた。ノートの文字を追っていた視界は太い腕で塞がれていて、伏せていた目に黒尾の親指が私の下唇をなぞるのが映る。

「切れてる」
「・・・なにしてるの」
「いたそー」
「黒尾、帰んないの?」

同じことをもう1度聞きながらその手を払おうとするけれど動いてくれず、ただ黒尾の目から逃げられなくて、顔が近づいてくるのにも気づいたけれど逸らせなくて。あ、と思った時にはシーブリーズとそれに混じった少しの汗のにおいが鼻をついた。割合すぐに離れた黒尾は満足そうに口を歪め、治療、とひとつ呟く。

「何が治療なの。さっきリップ塗ったのに剥がれたじゃん」
「えー?」

こっちの方が効くって、絶対。

そう言って黒尾はなんの名残もなく立ち上がった。右斜め前の机が黒く染まる。シーブリーズのにおいはもうしなくて、ただ残る感触が唇に、黒尾の声が耳に、はっきりと擦りついていた。

今日一緒に帰る?そう聞いてきた黒尾を見上げる勇気も度胸も私には備わっていなかったので、黒尾があらぬ方向を見ていたこととか、それでも隙間から見える耳が赤いだとかに気づけなかったこととかが、今日の放課後唯一の心残りである。


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