君がここにいた証明


“着いたで”

オフィスの窓から差込む光も無くなり、ふとパソコンのモニターを見ると、画面に映った時間は午後7時を迎えようとしていた。そわそわとする気持ちを落ち着かせようと椅子に座り直したタイミングで、メッセージの受信を知らせるバイブレーションが鳴った。充電器に繋いだまま粗雑に置いていた携帯を、ケーブルごと手繰り寄せる。画面には、絵文字も何も無い簡素なメッセージを表示されていた。頬がだらしなく緩むのがわかる。

向かいに座る同僚の物言いたげな視線と、山のような書類を見なかったことにし、デスク近くのコート掛けからピーコートを乱雑に引ったくった。がちゃんとハンガーの揺れる音に、近くにいた先輩が何事かと顔を上げたが、今は構っている時間はない。自分のデスクに戻り、携帯電話と財布をポケットに詰め込む。化粧を直す時間すら惜しい。

「なに?デート?」
「そんな感じ。30分もしないで戻ってくるよ」
「どうりで今日化粧濃いと思った」
「嘘!?」
「うそうそ、可愛いよ」

目の前の画面に視線を戻した同僚は、「いってらっしゃい」とモニターから顔を上げずぱたぱたと手を振った。首から下げたセキュリティキーをカードリーダーにかざし事務所を出る。携帯電話を取り出し、真島さんとのメッセージのやり取りを見返す。昨日来た“明日少し会えへんか?”の一文は今日を乗り切るモチベーションだった。えへへ、と思わず声が漏れてしまい、エレベーターホールで顔を合わせた同僚がにやにやと笑っていた。



目指すは神室町の入口、天下一通りのゲートだ。呑み屋を探すサラリーマンや出勤するキャバ嬢やホストたちとすれ違いながら、私は真島さんの顔を思い浮かべる。高まる気持ちが抑えられず、私は自然と小走りになるのだった。

神室町の入口は今日も変わらず鮮やかに輝いていた。ネオン看板の下に到着するも真島さんの姿はなかった。乱れた呼吸を整えながら辺りを見渡す。すると靖国通りに止まった一台の高級車が視界に入った。後席ドアの窓ガラスがゆっくりと下がり、窓からのびた黒い手が私を呼ぶ。手招きされた方へ行くと、スーツ姿の真島さんが、その長い足を組み座っていた。

「前髪ぼさぼさやないか」

真島さんはそう言うと手袋を外し、窓から上半身を乗り出して私の前髪をそっと撫でた。その優しい手付きに顔が熱くなるのが分かる。そんな様子を見た真島さんはからかうように「そないに俺に早く会いたかったんやな」と言い、二ヒヒと笑った。
 
「忙しいのにありがとうございます」

見慣れないスーツ姿に、これから打ち合わせか何かなのだろうかと思考を巡らせる。真島さんはヤクザの組長で、私はどこにでもいるようなただの一般人。極道の知識など任侠映画で得たものしかなく、想像の域を出ない。自分の仕事を話したがらないのだ。彼なりの配慮なのだろう。とはいえ、分からない割にも多忙さを知っていたし、その中で空いた貴重な時間を私に費やしてくれることがとても嬉しかった。

「あんまり時間作ってやれなくすまんのお」
「少しでもこうして会えるだけで私は嬉しいですから」
「イッヒッヒ!そんな健気で可愛い名前ちゃんに俺からのプレゼントや!」

真島さんはそう言うと、乗り出した体を車内に戻し、後部座席に置いてあった小さな紙袋を手にして、ずいと私の目の前に差し出した。持ち手の紐にリボンが結ばれた紙袋には、有名ブランドのロゴが印刷されてある。私でも知っているハイブランドだ。

「今日ホワイトデーやろ」
「ありがとうございます!」

多忙な中こうして会ってくれるだけでも嬉しいというのに、イベント事を覚えていてくれることが嬉しくて、思わず頬が綻ぶ。両手で受け取った紙袋は見た目に反してずっしりと重たい。中が気になり真島さんに視線をやると、顎で見るように促された。リボンを解いて中身取り出す。紙袋と同じブランドの小箱。箱を丁寧に開けると、中には可愛らしいデザインの香水ボトルが入っていた。透き通った薄ピンク色の液体がたぷんと揺れる。

「付けてみてもいいですか?」

真島さんが頷く。蓋を外して手首にワンプッシュ。ベルガモットとローズの香りがふわりと漂った。上品な女性らしい香りから真島さんのセンスが感じられる。

「良い匂い…嬉しいです。ありがとうございます」

感謝を伝えると真島さんは少し考え、「香水はこう付けんねんで」と言い、窓から伸びた両手が私の両手首を掴み、車内に引き込んだ。掴んだ手を離さず、私の手首を擦り合わせ、そのまま自分の首に私の手首を当てた。私の手首の薄い皮膚が真島さんの首筋と擦り合う。どきりと心臓が跳ね上がった。

突然のことに慌てふためく私を余所に、真島さんは顔を近づけ、私の唇に自身の唇を重ねた。ちゅっと車内に響くリップノイズ。随分と可愛らしいキスした真島さんは、そのまま私の耳元に顔を寄せ「続きはまた今度」と少し掠れた低い声で、そっと囁いた。そのギャップに、背筋がぞわぞわと粟立つ。顔を離した真島さんは、固まる私を見て悪戯っ子のようにニッっと歯を出して笑った。

「そろそろ時間やから行かなアカン」

会社戻るんやろ?お仕事頑張りや、と真島さんは言うと、運転席の若衆に声を掛け、颯爽と車を走らせて行ってしまった。呆然とその場に残る私。一瞬の出来事に、先程まで一緒にいたことが嘘のように感じられた。毎度のことだが嵐のような人だと思う。

無意識に唇なぞると、キスの感覚を思い出すと同時に、ふわりと香水が香った。花の香りに混ざるシダーウッドの香り。貰った香水とは違う匂いに、真島さんがここにいたことを思い出し、私は一人笑った。





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