ウィークエンドシトロン
真島さんが持ってきた檸檬の苗木。
神室町の花屋で買ってきたというこの苗木は、気紛れで与えていた水と一回の植え替えだけで立派に実を結んだ。その生命力は一体誰に似たのだろうか、とふと思う。真島さんかはたまた私か。いずれにせよ大きく育ったからには美味しく頂きたい。心の中で檸檬への感謝を伝え、キッチンバサミでへたの辺りをぱちりと切った。太陽をたっぷりと浴びた黄色い果実はずしりと重たい。
「なんや酒呑むんか」
ベランダの手摺りにもたれたまま煙草を吹かす真島さんは言った。今し方収穫した檸檬と彼が発した言葉が繋がらずに困惑していると、レモンサワーにするんやろ、とさも当たり前かのように言った。
「え、それ用に買ってきたんですか?」
「せやで」
レモンサワー用だと思わなかった私は真島さんの言葉に驚きを隠せなかった。成る程、そういう使い道もあったのか。手の中でコロンと転がった檸檬は想像しただけでも酸っぱく、口の中にじゅわりと唾液が広がった。頭に浮かぶ、グラスに注がれた焼酎と強めの炭酸とそれを彩る檸檬の黄色。真島さんの魅力的な提案に思わずごくりと喉が鳴った。
「凄く、凄く良いアイデアですけど、今回は別のことに使わせて下さい」
「ヒヒッ!別にかまへんけど、名前ちゃんめっちゃ悔しそうやな」
考えを振り払うようにゆっくりと頭を振った。そんな私の様子を見た真島さんは煙を吐き出してけらけらと笑った。
「そんで何に使うん?」
「ケーキ作ろうかなって」
「ケーキ!ほんまか!」
私の言葉に真島さんは子供のように頬を綻ばせた。ケーキか!と何度も繰り返すあたりよっぽど嬉しいのだろう。はしゃぐ真島さんはまだ長い煙草を灰皿に押し付けて、私よりも先に部屋へ戻っていった。脱ぎ散らかした真島さんのサンダルを揃えてから私も続く。
「ケーキって家で作れるんやな」
「手順さえ間違えなければ意外と簡単なんですよ」
キッチンに予め用意しておいた材料をカウンター越しに興味津々で見る真島さんはどこか楽しそうだ。常温に戻した卵と無塩バター。薄力粉やベーキングパウダー、砂糖は既に計量済みだ。そして一番重要な檸檬に包丁を落とす。その瞬間、キッチンに柑橘類の爽やかな酸味のある香りが広がった。
「良い香り。そういえばレモンって意外と手間掛かるみたいですよ」
「せやな、水もやったし剪定もしとったよ」
「え、知らなかった!」
「イッヒッヒ!釣った魚にはきちんと餌やんねん」
含みのある言葉だったが、それよりも真島さんがしっかりと世話をしていたことに驚いた。聞けばベランダで煙草を吸う際にきちんと面倒をみていたらしい。ベランダで携帯片手に長居をすることがあったが、てっきり仕事の電話でもしているのかと思っていた。どうやらインターネットで育成方法を調べていたようだった。この男に植物を愛でるだけの優しさがあったのか。そんな真島さんに感心するも、自分の物ぐささが明るみになった気がして恥ずかしくなった。
嶋野の狂犬が育てた檸檬か。
それに加えて産地直送、地産地消ときた。とんでもない檸檬だと気が付いた時には部屋中にバターの甘い匂いが漂い始め、オーブンの中のパウンドケーキにはこんがりと焼き目が付いていた。このケーキにどれだけの価値があるかは計り知れない。美味しく出来あがったことを祈るばかりだった。
そうして綺麗な山型に焼き上がったパウンドケーキ。粉砂糖と檸檬の果汁と水を混ぜたアイシングを刷毛で塗っていると、私の横に移動していた真島さんはパウンドケーキを指差しながら言った。
「そういや何て名前のケーキなん?」
「ウィークエンドシトロンって言うんです」
「なんや洒落た名前やのう」
――週末に大切な人と食べたいって意味が込められてるんです。
随分と乙女なことをしてしまったかな、と自分で言っておきながら少しばかり恥ずかしくなる。隣りに立つ真島さんを見ると決まりが悪そうに苦笑を浮かべ頭を掻いていた。
「なんやレモンサワーにしようとした自分が恥ずかしいわ」
「いやいや、レモンの世話放って置いた自分のが恥ずかしいですよ」
そんな押し問答がキッチンで繰り広げられて。夕食後のテーブルにレモンサワーとウィークエンドシトロンが並んだことでようやく決着がついたのだった。
「美味いやん。名前ちゃんまた作ってや」
にこにこと子供のようにケーキを頬張る真島さん。好きな人と美味しいものを食べるだけでこんなにも幸せなのかと思う。私はきつめの炭酸で割ったレモンサワーを一口飲んだ。迎えた週末はきっと楽しいものになるだろうと予感しながら。
「酒とケーキ、意外と合うやん」
「えぇ、そうですか……?」