Maybe,you can't see!



 ああ、お前はきっと知らないに違いない。
 お前が口にしたその一言は、最後の一線を、その頼りない一本の白い線を、跡形もなく吹き飛ばす恐ろしい一言だと。
 赤い顔して目を潤ませ俺を見上げてくるお前は、きっと知らないに違いない。




 二人のきっかけになったドライブデートから、時は経って二年と半分。文次郎が社会人となり、乱太郎が大学に進学しても二人の関係は変わらなかった。
 もちろんそれは良い意味で、である。あの日、走る車の中で文次郎の言葉に頬を桜色に染めて頷いた乱太郎は、二年半が経った今も文次郎の隣にそっと寄り添っていた。
 有り体に言ってしまうなら、男女交際真っ最中、といったところだろうか。乱太郎をそれはもう心の底から好いていたある青年の、愛想尽かされてフラれればいいのに、という呪いに近いぼやきが現実になることもなく、二人は良いお付き合いをしていたのであった。
 具体的にどのように良いお付き合いをしているかをここで述べると、確実に十人中八人が「かーっ!幸せそうで何よりだ!このこのっ!」とニヤつきながらも机を叩くことが目に見えているので敢えて言わない。ちなみに残りの二人は「リア充爆発しろ」と白い目で言うだろう。
 どんなお付き合いをしているかは、推して知るべし。

 さて、そんな文次郎と乱太郎、実は一線を越えたことがない。
 付き合い始めた頃、乱太郎はまだ高校生であったし、文次郎も事を急ぐつもりがなかった。大切で大切で仕方ない女の子だ。それに、そういう行為をすることが目的ではない。
 別に「結婚するまでは清い関係でいる」なんて、聖人のような考えを持ってはいないが、高校生の乱太郎としかできないことを、その時は楽しもうと思っていた。
 そして乱太郎が高校を卒業し、大学に通うため一人暮らしを始めた時。不意に、そんな雰囲気になった。

 忘れもしない、乱太郎の引っ越しの日のことだ。荷物の整理をすべて終え、新生活の始まりにはしゃぐ乱太郎をいつものように抱きしめた時に、ドキリとした。
 いつもならば、くすぐったいですようと笑う乱太郎が、目を伏せ頬を染めた。それはいつもの、乱太郎がキスをせがむ直前の表情で、文次郎はうろうろとさまよう乱太郎の目を捕らえた。そしてそっと目を閉じた乱太郎へと近づき――と、そこまではいつも通りの流れだった。
「せん、ぱい……?」
「ん……?」
「あの……も、いっかい……しましょう?」
 その時の文次郎の気持ちを端的に表すなら、動揺という二文字が相応しい。お前いつもは一回で恥ずかしがっていただろう!どういうことだ!文次郎にも男としての矜持があるのでそんな動揺は見せなかったが、内心ものすごく焦っていたわけで。
 再び唇を重ねた後も予想していなかった状況に心臓は大きく響いたままだった。離れていった乱太郎から目を離せずにいると、小さな唇がこう呟いた。
「……わたし、もう、大学生です」
「乱太郎……」
「だから、」
 それ以上はとても口にできなかったのだろう。頬を薔薇色に染めて文次郎の胸に縋り付いてきた。その体を受け止めて、ああ、そういうことだったのかと文次郎は思った。すとん、と降りてきた考えが彼の動揺を鎮め、目の前の現実に向かわせる。
 華奢だと思っていた体の女性的に成長した稜線や、不安と恐れの混じった瞳の色めく様子、立ち上る甘い甘い香り。そして。
「ずっと、文次郎先輩と、こんな風になりたいって思っていたんです」
 彼女が小さく呟いた、その言葉。そのすべてに酔ったように、文次郎は抱きしめる手に力を込めた。

 さて、雰囲気も盛り上がっていたところではあるが、ひとつ、思い出してほしい。付き合い始めてから二年半が経つが、文次郎と乱太郎はまだ一線を越えたことがないと前述した。
 つまりは、そう。非常に良い雰囲気であるこの場面、次に起こったのは、艶っぽい男女のあれそれではなく……。

 ピンポーン!

「ひゃ!」
「!?」
 乱太郎の幼なじみの襲撃であった。

 結局この時はそれ以上のことはできず、それからも何かと邪魔が入ったり文次郎が仕事で忙しかったり乱太郎が学業に追われたりとタイミングが合わなかった。こうして二年半、二人は清い関係のままで今日を迎えることとなったのである。




 その日は綺麗に晴れた絶好の行楽日和の日だった。少し離れた町にできたばかりのショッピングモールへ出掛け、買い物と映画と食事を楽しんだのが夕方までの話で、今、文次郎と乱太郎は帰り道の途中にある。日暮れの赤が夜の藍へ主役を譲り、山の稜線が黄緑に光る薄闇の中、シルバーの車は乱太郎のアパートへと向かっていた。
 車内で乱太郎は始終楽しそうに笑い、あれこれと飽きることなく話題を提供し、文次郎の言葉に言葉を重ねた。不意に落ちる沈黙も、決して不快なものではない。ただ、気になったのは、窓の外を追うその横顔だった。
 道を照らす街灯が、乱太郎の瞳を浮かび上がらせる。微笑むその顔が、瞳が照らされるその一瞬、どこかほの暗く見えた。勘違いかもしれない、だが胸騒ぎがして口を開けば、寸前で乱太郎がぱっと表情も明るく運転席の文次郎に顔を向ける。その顔に先程感じた曇りはない。気のせいかと文次郎は再び運転に集中した。



 それから三十分ほど車を走らせ、見慣れた景色が窓の外を流れはじめてからまた五分程経った頃。シルバーの車は乱太郎のアパートの前へと到着した。辺りは完全に穏やかな夜に包まれていた。
「……よし、着いたぞ」
「……」
 アパートの駐車スペースに車を停め、エンジンを切るのと同時に静けさが降りた。文次郎の言葉に乱太郎は顔を伏せたまま、反応を返さない。まだ車を走らせていた五分程前から同じ様子だったので、もしかしたらはしゃぎ疲れて眠ってしまったのかもしれない。そう思い、文次郎は乱太郎の肩に手をやり、軽く揺らした。
「乱太郎?」
「あっ……す、すみません!」
「寝ていたんじゃないのか?」
「えっと、考え事……してました」
 寝ていた人間が取るであろう行動とは異なるそれに問えば、乱太郎は目線をちょっとさ迷わせて、力なく笑った。ごめんなさい。気にしないでください。そんな言葉も重ねる。嘘だな、と直感した。
「何か、悩んでることでもあるのか」
「へっ」
 暗い車内でも乱太郎が動揺する様子は手に取るように分かった。再び目を伏せてしまった彼女に、運転中感じたあの陰りは気のせいではなかったのだと確信する。
「無理にとは言わんが……話してみないか?その方がすっきりするだろう」
「あっ……と、それは……その」
「俺を頼りないと思うなら、話は別だが……」
「い、いえ!そんな!そんなこと思ってません!」
「じゃあ、話してくれ」
 そう言えば乱太郎は話さざるを得ないと分かっていて口にするのは少し卑怯だったかもしれないと頭の隅で考えながら、文次郎は待った。愛しい乱太郎を悩ませるものがあるなら、その原因をどうにかしてやりたい。そんな思いで。
「あの……悩みっていうか……その、恥ずかしいというか……」
「恥ずかしい?」
「えっと……そのぉ……笑わないでくださいね?」
「ああ、笑ったりするものか」
「……………………」
 この時、文次郎はようやく気づいた。乱太郎が頬を赤く染め、瞳を潤ませていたことに。
「……か、」
「か?」
「か、か……かえ、らないで……ほしい、です」
「え」
「行っちゃ、いや……です」
 それはつまり、そういうことなのか。理解が脳に到達し、文次郎の顔を熱くしたと同時に乱太郎が縋り付いてきた。そして、上目遣いに見上げられる。
「は、はしたないことを言ってるって、分かってるんです!でも……でもでも!私……っ」
 一分にも満たないやり取りで点された熱は文次郎をつき動かした。何かを伝えようとした乱太郎の唇を、唇で遮る。触れた瞬間、熱は強く育ち、その白い線を焼いた。
「ん……っ、う……」
「乱太郎……」
「あ……」
「いいんだな?本当に、帰らないぞ?」
 もうきっと、乱太郎が嫌がったとしても止めることはできない。それでも、最後の最後に残った理性の欠片をなんとか集めて絞り出した問いに、乱太郎はこくりと頷いた。そして、花が咲くように、笑った。




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 文乱初夜直前のお話でした。乱ちゃんが少々暗く不安そうでもあったのは、あまりに邪魔が入るので自分と文次郎は縁がないんじゃないかと思っていたためではないかと思います。



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