なおすひと



「…あれ?」

 ぱきん、と乾いた音を立てて金具が外れた。
 その日、医務室で調薬を行っていた乱太郎は、本来薬箱にくっついているはずのその金具を指に引っ掛けたまま、瞬きを数度繰り返した。そして、金具がぽとりと床に落ちたのを確認すると、わあっ、と焦りを含んだ叫びを上げる。

「ど、どうしよう…」

 それほど大きくはない二段構えの薬箱、その下段。木でできている本体に取り付けられた赤銅色の金具は、いっそ綺麗に外れ床に転がっている。
 ねじや釘で留まっていたものではなく、金具を上手く本体に組み込む形式なのだが、観察すると金具の方がぱっきりと折れてしまっているようだった。
 本体に残された金具の破片を発見しながら、乱太郎はどうしようと眉を下げた。

 その薬箱は、乱太郎が町の市で一目惚れしたもので、少々古いが職人の仕事を感じさせる良い造りのものだった。
 落ち着いた赤茶の木からなる本体と、赤銅色をした金具という一見地味な色合わせであったが、本体の角と金具にあしらわれた繊細な模様がとても美しく、乱太郎もそこに魅せられて購入したものであった。

 床に転がったままの金具を手にし、元あった場所に添えてみるが、勿論手を離せばすぐに落下してしまう。本体に挟まっている金具の破片を取り出して金具にくっつければ元通りになるだろうかと考えながら、意味もなく何度も金具を添えてみる。その度落下する金具を見ていると余計に焦りが膨らんでいった。
 ちゃんと、直るのだろうか。そんな不安もちくちくと乱太郎を襲った。
 大切に使っていた道具の危機に完全に手が止まってしまった乱太郎に、入り口からどこかのんびりした声が掛けられた。

「乱太郎、留三郎が怪我しちゃったから見てやってー…って、どうしたの?」
「喜三太!」

 障子に手を掛け、首を傾げている喜三太と、左手を庇うように押さえている留三郎を見て、乱太郎が喜色を抑え切れなかったのは仕方のないことであった。





 留三郎の手当ての準備をしながら、乱太郎は喜三太に事のあらましを話した。
 薬箱の金具が取れて、いやこの場合で言えば折れてしまったこと。できれば折れた金具を付け直して使いたいけれど、どう直せば良いか途方に暮れていたこと。
 胡座をかいて乱太郎の話を頷きながら聞いていた喜三太は、じゃあ僕が直してあげるよと彼らしく軽い調子で申し出た。

「繊細系なら僕の出番だからね」
「繊細系って…」
「あ、もしかして疑ってる?ちまちましたものとか、細かい装飾とか、そういうのを直すのは平太より僕の方が上手いんだよ?」

 疑っているわけじゃないと言いかけた乱太郎は、すでに薬箱に夢中になっている喜三太を見て言葉を引っ込めた。集中し始めると周りの声が聞こえなくなってしまう彼だから、何を言っても仕方ないだろう。
 喜三太は気分を害したようには見えなかったし、任せて良いだろうと判断して、乱太郎は所在無さそうに立ち尽くす留三郎を手招いた。その後ろで道具を取りに一旦退出するべく喜三太が立ち上がる。その顔は、どこか楽しそうであった。





 留三郎の治療を終えた乱太郎は、道具や薬を片付けると、喜三太の邪魔にならぬようにその作業を見つめた。留三郎も興味津々で喜三太の手の動きを追っているようだった。
 もしかしたら、こうやって用具委員は修繕の仕方を覚えていくのかもな、と、微笑ましく思う。そういえば、前に伊作に膏薬の作り方を見せたときも、伊作はこんな顔をしていた。
 保健委員会の後輩の真剣な、でもどこかきらきらとした顔を思い出しながら喜三太の手元に目をやる。不釣合いなほど大きな手が小さく繊細な金具に添えられたり、保健委員の乱太郎にはあまり馴染みのない道具が閃たりする様は、まるで不思議な術のようにも感じられた。目を離さず、一部始終を見ているはずなのに、何が起こっているのか上手く説明ができない。
 ただただ、その作業の淀みなさと的確さに、感嘆するばかりだった。


「はい、完成〜」
「うわあ…!すごい、ちゃんとくっついてる!」

 しばらくして、喜三太の明るい声とともに修理を終えた乱太郎の薬箱は、乱太郎が金具を折ってしまう前と寸分違わぬ姿を見せた。乱太郎が道具を片付けている喜三太に礼を述べれば、どういたしまして、このくらい易い仕事だよといつもの調子で言う。疑っていたわけではないけれど、言葉通りあっさりと直してしまった喜三太に、乱太郎は興奮しながらすごいすごいと繰り返した。留三郎もまじまじと己の先輩の仕事を確認し、すげえ、と思わずといった調子で呟いた。

「あ、乱太郎も留三郎も、まだ触らない方が良いよ。多分熱いから」
「あ、うん!でもすごいね、こんな簡単に直しちゃうなんて」
「そうかなあ?このくらい、なんでもないけどねえ」

 喜三太の表情から見て、彼は本気で容易いことだと思っているのだろう。それでも、やはりすごいことだと乱太郎は思う。薬箱を掲げながらはしゃぐ乱太郎に、喜三太はことんと首を傾げて、ううん、と唸った。

「僕には乱太郎の方がすごいと思うけどねえ」
「…えっ?」
「だって乱太郎は、僕にはなおせないものをなおせるじゃない」

 そう言ってひとつ微笑んだ喜三太は、傍らにいる留三郎に目を落とした。いきなり視線を向けられた留三郎はきょとんとしながら喜三太と乱太郎を交互に見つめる。その手には、先ほど乱太郎が施した治療の跡がある。
 喜三太の目が注がれるのも、その真新しい白い布であった。

「なおす、って…治療ってこと?」
「そうそう」
「うーん…でも私は完全に治すことはできないよ。傷が治るための、手伝いをちょっとしてるだけだし…」
「それを言ったら僕だって同じだよ?道具が元の形を取り戻す、その手伝いをしてるだけ。それに乱太郎は…」

 ふにゃりと目を蕩けさせた喜三太が、何事かを接ごうとした瞬間、ばたばたと派手な足音が響いてきた。その音に三人は入り口に目をやった。この慌てっぷりは恐らく、医務室に用事のあるものの足音だろう。
 予想通り、こちらへと近付いて来る足音は医務室の前でぴたりと止まると、すぱーんと小気味良い音を立てて障子を開け放った。

「山村先輩大変です!」
「あれ、作兵衛。どうしたの」
「猪名寺先輩こんにちは。今日もご機嫌麗しゅう…ってそんなこと言ってる場合じゃねえ!山村先輩、作法の奴らと会計の奴らがまた喧嘩おっぱじめやがって用具倉庫が未曾有の大ピンチです!」
「ありゃー…また団蔵が何かやらかしたのかなー」
「それか兵太夫が積もった恨みを爆発させちゃったんじゃない?この前の予算会議でだいぶ削られておかんむりだったし」
「のほほんと茶ぁしばいてる場合ですかっ!とにかく早く行ってください!!俺、下坂部先輩呼んでくるんで!」

 来たときと同じく、騒々しい足音を立てて去っていく作兵衛を見送ると、喜三太はやれやれと呟きながら大儀そうに腰を上げた。乱太郎は、慌てて喜三太に付いて行こうと腰を上げた留三郎を、きみは怪我人だからここに残りなさいと苦笑しながら言うと、私はここで治療の準備をしておくべきかな、などと付け加えた。

「怪我人がでないに越したことはないんだけどね」
「じゃあ頑張って怪我人は団蔵一人で済むようにするよ」
「こらこら」
「冗談だよー。じゃあ、行ってくるね」
「うん、行ってらっしゃい」

 そうして、するりと医務室を抜け出した喜三太の背中を見送ると、乱太郎は留三郎に向き直った。

「さて、一応は準備をしておかないとね」
「はい。お手伝いします」
「ありがとう」

 にこりと微笑んだ乱太郎に、留三郎は思ったという。
 山村先輩が言いかけたのは多分、猪名寺先輩が「なおす」ものが怪我や病気だけではなくて、人間の体の、最も深い部分にも及ぶと、そういうことではないだろうか、と。


_ _ _ _ _

 喜三太が使ってた道具は、はんだ的な道具だと思います。平太は桶とか棚とか屋根とかそういうものを直すのが得意で、喜三太は細々したものを直すのが得意だといいなあと思いながら書きました。
 そして用具委員会で怒らせたら一番怖いのは喜三太だと思うんだ…

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