夏雨誘う
これはもう、自分たちが不運とか不運じゃないとかそういう問題じゃなくて、単なる神様の嫌がらせに違いないと数馬は思った。
蛇口を思いきりひねった時のシャワーのように降り注ぐ雨の下、彼と乱太郎は走っていた。
耳をつんざく雷が轟き、彼の少し後ろを走る彼女は小さく悲鳴を上げる。ばしゃり、と水溜まりと呼ぶには深いそれに踏み込み、高く水を跳ね上げながらもう少しだと彼女へ声をかけた。この轟音の中、どれだけ聞き取れたかは分からないが、乱太郎は困惑気味な顔をしつつもひとつ頷いた。
ブロック塀が連なる路地、次の角を曲がれば数馬の住むアパートが見えてくる。
「酷い目にあったな…」
「ですね…もう、ずぶ濡れです…」
最寄り駅から全力で雨の町を走り抜けた二人は、少々よろめきながらアパートの階段を上がっていく。
ぱたぱたと引っ切りなしに毛先や服の袖、裾から零れる雨の雫がリノリウムの階段に小さな水溜まりを作っていった。きゅ、と靴が鳴き声をあげた。
肌に纏わり付く水分は、夏の雨らしくどこか熱を帯びていて気持ちが悪い。出先からここに辿り着くまで自分たちを追いかけてきたとしか思えぬ雨雲を心の中で罵りながら、数馬は部屋の鍵を取り出した。傍らには張り付いた髪の毛同様ぐったりとした乱太郎がいる。
階段から見遣る窓の向こうはまだ雨の町だ。
「お邪魔しまあす」
「ちょっとそこで待ってろ、今タオル持ってくるから」
「はい」
絞れば滝になりそうな程に濡れた靴下を脱ぎ捨て、数馬は部屋の中へ進んだ。
洗面所にある洗濯機に靴下を放り投げ、上の棚に積んであるバスタオルを二枚取り出した。一枚は自分の、もう一枚は乱太郎のためのもの。乱太郎は髪が長いから、髪を拭くためのタオルもあった方が良いだろうと横の棚からもう一枚を引っ張り出した。
そこで、はた、と気付く。ここで服を脱いでしまった方が良いだろう。一刻も早く張り付くシャツを脱ぎ捨てたかったし、上半身裸の状態でいても特に問題はない。
数馬と乱太郎は経験がないとかそんな仲ではないし、彼女も気にしないだろう。数馬は身につけていたシャツを脱ぎ捨て、肩にタオルをかけると急いで乱太郎の元へと走った。
「お待たせ」
「あ、すみません。ありがとうございます……って、脱いできたんですか?」
「ああ、あのままだと風邪ひきそうだったからな。…ほら、タオル」
ほんのり頬を染める乱太郎にタオルを渡す。自分の裸を、それこそ全身くまなく見たことがあるくせに恥らって目を伏せる彼女に、そこまで気にすることかと思いつつも、意識せざるを得なくなってしまった。
伏しがちのつぶらな瞳を彩る長い睫毛、そこに引っかかった雨の名残、頬を滑る雫の行方、開いた襟元へ消えていく緩やかな流れ、そういうものを、一度目にしてしまったら。
「…乱太郎、髪拭いてやろうか」
「え?あ、えっと…」
「ほら、いいから」
躊躇う乱太郎を引き寄せて後ろを向かせると、数馬はぺたりと元気のない髪にタオルを乗せた。
頭の高い位置で髪をまとめていたシュシュを取ると、ぴしゃり、と茜色の髪が落ちてくる。軽い動揺が乱太郎の背中に走った。それを見ない振りをして、数馬はわざと力を入れて水分を拭っていく。
「……」
「……」
遠くで、雨の音がする。扉一枚隔てただけだというのに、あれだけ自分と乱太郎を追い立てた雨が今は遠い。
会話はなかった。くゆるような静けさが二人を包んでいた。乾いた布が滑っていく音と、雨の名残が布を濡らしていく感触だけが満ちる世界で、数馬は無心に手を働かせた。
不意に。
ちらり、と彼女の細く白い首筋が目に入った。まずい、と思った瞬間にはもう遅い。つ、と項を滑り、鎖骨の方へと逃げていく雨粒を目で追ってしまった数馬は、ぴたりと手を止めた。
「まいった、駄目だ、もう」
「え、え?…きゃっ」
降参だと呟いた数馬の方を乱太郎は振り返ろうとしたようだが、数馬はその細い背中を抱きすくめて止めてしまった。乱太郎の体に緊張が走るのを感じながら、数馬はほんのり色づいた桜貝のような耳にそっと囁く。その言葉に、乱太郎は小さく、頷いた。
雨はまだ、止みそうにない。
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