最終回はまだ先です



 大川学園にその噂が駆け巡ったのは、初夏の頃のことだった。

 初め、高等部のあるクラスを中心に囁かれ始めたその噂は瞬く間に他の高等部のクラスへ、少し遅れて中等部へと広がり、一週間後には学園の教師たちの間でも囁かれるようになった。噂に疎いとされる生徒ですら知る者がいたというから、その噂がどれだけ衝撃的なものであったかを窺い知ることができるのではないだろうか。
 実際、その噂を耳にしたものは涙する者、怒りを感じる者、表向きは笑顔なのに無視しきれぬ黒い何かを背負う者と様々であった。しかし、噂が噂であった時点ではまだそれほどの混乱は起こらなかった。
 それというのも、以前にも何度か似たような噂が広がったことがあるからである。その度に高等部のあるクラスの生徒たちが噂の否定に奔走し、噂の中心であった彼女もあっさりと否定していた。

「え?あの噂は本当かって?ないない、私とそういう関係になりたいと思ってくれる人なんていないよー」

 そう言って笑う彼女に、いやそう思う人間はここにいますいますけどとりあえず噂は噂だったんですね良かったと皆安心するのが常であった。
 そんなことが何度か続けば、今回もただの噂だろうと皆思うのは自然な流れである。しかしそれでも、そんな噂がどこからともなく発生するとは考えられず、その噂は真実ではないにしろ二人の間に何かが起こったことは確実なことであろうと皆は思っていた。だから、体育館裏に呼び出してちょっと話を聞くかだの今度は反省文何字以上にしようかだのという話が持ち上がっていたりしたのだが。
 ひょっとしたら、皆心のどこかで分かっていたのかもしれない。今度こそ、本物だと。だから、学園中で多種多様な事件が起こったのだろう。もとより事件の多い学園ではあったが、週に一度程度の頻度であったそれが週に二度以上になったのだから、よっぽどのことであったと分かっていただけるのではないだろうか。
 ある人はその様子をこう表現した。事件のバーゲンセールのようだと。

 これは、そんなある意味バーゲンセールのような騒ぎの記録とある少女の笑顔と笑顔と、それから笑顔の話である。





 最初の事件は、ほとんど無関係とも思えるクラスで起こった。
 その日は季節にしては肌寒い日が三日ほど続いていた頃で、衣替えをすでに終えた生徒たちの中にはカーディガンや上着を着込む者の姿もあるほどだった。蒸し暑い日が続く初夏に突如訪れた寒暖の差は、体の弱い生徒たちをあっという間にベッドへと縛りつけていったのである。
 さて、高等部のあるクラスでも、寒暖差に負けてしまった生徒がひとり存在していた。彼は四日前の昼休みに突然体調不良を訴え保健室へ運ばれたのだが、その次の日から三日間、学校を休むことになった。しかし四日目には元気に登校し、元気に委員会活動や部活にいそしんでいたようだ。
 それだけを聞けば、彼は季節の変わり目に体力が付いていかずに体調を崩しただけのようにも見える。どの辺りが事件なのかと首を傾げるかもしれないが、それは確かに事件であったのだ。

 体調不良から復活した彼が再び登校するようになった次の日、彼は高等部3年3組の教室前で彼女に出会った。当番に当たっているのか、彼女は大量のプリントを抱えていたが、彼の顔を見ると嬉しそうに目を輝かせた。
 一方、彼も笑顔で彼女を見つめた。いや、笑顔に見える表情で、が正しい表現かもしれない。彼のその笑顔は凍りついていたからだ。

「伝七、風邪はもう大丈夫?」
「……」
「え、あれ、ごめん…顔色悪いみたいだけど…」
「……」
「え!?ど、どうしたの伝七!どうして泣いてるの!?何があったの!?それとも泣くほど具合が悪いの!?」
「……なんでもない、なんでもないんだ」
「そうは見えないんだけど…ほんと、調子悪いなら保健室に…」
「…うわぁあああ!!なんでもないんだ畜生―!!」
「伝七!?伝七ー!?」

 伝七は走った。涙を散らしながら全力で走った。その姿を見た彼と同じクラスの青年は、涙を禁じえない、といった様子でこう呟いたという。まあとりあえず、全力疾走できるほどまで回復して良かったな、と。

 それまで一度も学校を遅刻したことも欠席したこともなかった黒門伝七が体調を崩し、三日間寝込んだ、そんな些細に見える出来事の裏に、彼女とそしてある生徒の影があるのだが、ここではとりあえず次の事件に話を移したいと思う。





 最近の大川学園はどこかがおかしい。確かに普段から事件や騒ぎが多く、普通の学校に比べたら特異な学校ではあるのだが、それに輪をかけて、というか学園の一部の生徒が纏う雰囲気がおよそ十代の青少年が纏うには暗すぎるものになっていたのである。
 もとより縦線を背負っている高等部の某クラスの生徒が学園中にいるかのような、そんな印象である。その某クラスの生徒と、新しく縦線を背負うようになった生徒たちの違いを挙げるとすれば、前者は暗い空気を纏ってはいるものの妙な明るさも持ち合わせているのに対し、後者は魂が抜けたような状態でもあるということだろうか。
 これは大きな違いになる。前者の生徒は「その噂」が本物であると知ったとき、最初は少し寂しそうだったけれど、すぐに彼女へ祝福の言葉を送り、彼女の幸せを喜んだ。一方で、後者の生徒たちが「その事実」を受け入れるまでには、もう少し時間がかかるだろう。それだけ、「その事実」は多くの者を打ちのめした大事件だった。

 それが、二つ目。





 三つ目の事件は、一見すると「その事実」とは無関係のようにも思えるものだった。
 あらましはこうである。ある日の放課後、特別教室棟と2・3年生棟を繋ぐ渡り廊下の傍で3年生のある生徒が倒れているのが発見された。
 地面に仲良く顔をめり込ませ、大の字で倒れ伏していた彼を発見した彼の後輩は、最初はまたいつものアレかと思ったと言う。

 個性的な生徒が揃っている大川学園において、彼はなかなかに有名な生徒であった。学園の財布を握るとまで言われている会計委員会の委員長である彼は、リーダー性とその類まれなる空気の読めなさで中等部にまでその名を轟かせていた。委員会や行事のときにはとても頼りになる奴なのに、普段はどうしてああも阿呆のように見えるのだろうか、いや、阿呆そのものなのかと嘆いたのは会計委員会の副委員長であったが、そんな彼には天敵とも言えるライバルがいたのである。
 3年3組風紀委員長、笹山兵太夫。その人だ。彼と兵太夫が喧嘩をしているところを見かけたことのある者は多かったし、兵太夫に沈められた彼が地面と仲良くしているのを見かけた者もやはり多かった。
 彼の委員会の後輩であり、その日たまたま高等部に用事があったため偶然にも彼を発見したところの生徒である田村三木ヱ門は、またこの先輩は笹山先輩に喧嘩を売るか何かしてこんな状態になったのだろうとため息をついた。
 己の先輩である人だし、こういうことは言ってはいけないとは思うのだが、どうして勝てないと分かっている相手に喧嘩を売り続けるのだろうと呆れつつ、三木ヱ門は倒れたまま微動だにしない彼に近付いた。

「あのー…大丈夫ですかー?生きてます、よね?」

 先輩、と声をかけるが、返事はない。完全に落ちてしまっているようだ。徹底的にやられたんだなと、この先輩をこの状態にまで追い込むとはさすが笹山先輩恐るべしなどと身を震わせた三木ヱ門は、突っ伏したままでは呼吸ができないだろうと、なんとかして仰向けの状態に戻そうと試みた。体躯の良い先輩なので担ぐのは無理だが、それくらいならできる。仰向けにできれば、この先輩はやわな造りはしていないので少々放っておいても保健室に助けを求めに行く程度の時間は持つだろう。
 幅のある肩に手を置き、ぐっ、と力を入れひっくり返す。土に汚れた顔を確認しながら、さて保健室に、と思った三木ヱ門は「それ」に気が付いた。
 ひっくり返す前の彼の右手があった場所に、ミミズのような線が何本か引かれている。すぐ三木ヱ門は、字だ、と気付くことができた。普通の人間はまず字だとは思わなかったであろう。しかし委員会でいつも彼の字を解読する作業に多くの時間を費やしている三木ヱ門はすぐに合点がいった。

「えーっと、『犯人は』?……ダイイングメッセージじゃないんだから…」

 気絶したままの先輩に目をやりつつ、三木ヱ門はその続きに目をやった。

「『犯人は兵太夫だがそも』…えっと、これも『そ』か?こっちは『も』だよな…『そもそもの原因』?で良いのか?…原因?続きは書かれていない…」

 どうやら、原因、までを書いて彼は力尽きてしまったらしい。兵太夫に対してまた何か空気の読めない発言をしたか逆鱗に触れるかしたのが原因でこうなっているであろう先輩が、実は違う理由で(まあ実行犯は兵太夫に違いないのだが)倒れているということまでは理解できたが、その原因を知るには至らなかった。
 それより今は助けを求めに行く方が先だと三木ヱ門は大した問題ではなかろうとその場を去った。このとき、三木ヱ門が「その事実」について知っていれば、彼が書き残したメッセージの続きを予想することができたかもしれない。
 兵太夫の逆鱗に触れた一言が、なんでちゃんと後輩に釘差しておかなかったんだとかそんなものであったということを。





 さて、そろそろ「その噂」もしくは「その事実」が具体的にはどういうものなのかを説明しておきたいと思う。
 この学園には花に喩えられるひとりの女子生徒がいることはご存知の通りだ。そして、「その噂」が彼女に関するものであるということも、お分かりいただけたと思う。更に、「その噂」が噂の域を超える事実であったことも、数々の事件を生んだ原因であった。


 学園の花、高等部3年3組保健委員長猪名寺乱太郎に、彼氏ができた。


 それが、大川学園の多くの男子生徒の顔に縦線を刻み込み、風紀委員会副委員長を寝込ませ、風紀委員会委員長の機嫌を地の底まで叩き落し、会計委員会委員長を地面にめり込ませた事実、である。
 一介の女子生徒に過ぎない乱太郎に彼氏ができたくらいで大げさではないかと思われるかもしれないが、彼女がそれはもう広範囲の人間から好意を向けられていたのはまごうことなき真実だ。花が綻ぶように笑う、彼らにとって世界で一番可愛い彼女に彼氏ができたと聞いて、反応せずにただ黙っていることができる者がいるだろうか、いや、いない。

 さて、もう一点。これは乱太郎の相手についてなのだが。
 会計委員長が兵太夫に対して「ちゃんと後輩見張っとけよ!」と言ったこと、寝込んだのが伝七であったことを合わせて考えてみれば答えはおのずと導き出されるだろう。
 そう、乱太郎のハートを射止めた…射止めていたのは、高等部1年3組の風紀委員、浦風藤内であった。


「あ、浦風先輩」
「げ、綾部…」

 噂が事実であることが発覚してから一週間ほどが経ったある日の放課後、部活へ行く途中だった藤内はスコップを担いだ喜八郎と出くわした。穴掘りという個性的な趣味を持ち、そのためか部活に所属していない喜八郎なので、放課後にスコップを担いで校内を徘徊していること自体は不思議でもなんでもないのだが、藤内は喜八郎の姿を確認した瞬間に一歩足を引いた。
 驚いたわけではない。嫌な予感がしたからだ。
 後輩の出現に身構えた藤内に、喜八郎はあくまでのんびりと口を開いた。

「知ってますか?最近中等部で噂の的ですよ、先輩」
「……乱太郎先輩とのことか?」

 やっぱりそうかと、藤内は身構えた。自意識過剰と言われても仕方ないかもしれないが、彼女と男女のお付き合いをするということは学園のほぼ全ての男子生徒を敵に回すと同意であるのだと、彼はここ数日起こった数々の事件を思い出しながら実感していた。正直、思い出したくない出来事ばかりだったので細かく首を横に振ってそれを頭から追い出す。
 そして、今までは高等部の先輩や同輩が中心だった鋭い視線が、これからは中等部からも寄越されるのだろうと、喜八郎の発言から想像されて、藤内は思わず胃の辺りを押さえた。

(乱太郎先輩、俺は貴女と恋人同士になれたことを後悔も反省もしていません。むしろ幸せでしょうがない。でもこれだけは言わせてください。貴女は一体どれだけの男を落としたんですか…)

 夕風に揺れる花のように可憐に笑う自分の恋人の顔を思い出しながら遠い目をしていると、喜八郎がスコップを背負い直しながら口を開いた。

「まあそれもなんですけど。先輩は鬼畜ドエスの人でなしだって専らの噂です」
「どうしてそうなった!というか誰だそんな噂撒いた奴は!」
「僕です」
「お前かよ!!」
「嘘です」
「どっちだ!」
「先輩、そんな怖い顔ばっかりしてると、顔が元に戻らなくなりますよ」
「その原因を作ってるのはお前だからな!」
「僕のせいにするんですか?ううっ、ヒドイ!乱太郎先輩に言いつけてやるー」
「なっ…待てコラァ!」

 傍から見ると漫才のようなやり取りをしつつも、なんとも可愛くない後輩を真剣に追い出した藤内は気付かなかった。校庭や部室棟のあちらこちらから注がれる、それはもう恨みの篭った視線の数々に。


 ところで、もうひとりの当事者である乱太郎はといえば、それほど変わりのない日々を送っていた。勿論、彼氏ができたことで毎日の登下校や休日の過ごし方やら変わった部分もあるのだが、概ね彼女の日常は平和で幸せそのものであった。
 乱太郎が周りから色々な攻撃をされている藤内と対称的とも言える日々を送ることが出来ているのにはわけがある。
 「あの噂」は事実なのかと問われる度、彼女は薄紅色に頬を染めながら、淡く目許を綻ばせて頷いていた。その笑みは、彼女の笑顔を知っているものならば、彼女が心の底から幸せであるということを理解できる、そういう類の笑みだった。
 ああ、乱太郎は幸せなんだ、悔しいけれど乱太郎がこんな良い顔をするのは藤内と心を通わせたからなのだと、納得した彼らが乱太郎に別れた方が良いだの俺の方がお前に相応しいだの俺だって乱太郎(先輩)押し倒したいだの言えるわけもなく、身を引いたために彼女の周りは平和だったというわけである。
 …まあ、そんなに簡単にかつすぐには割り切れなかった輩が、藤内を射殺さんばかりの視線を投げて寄越しているということも、同時に分かっていただけるのではないかと思う。





「良かったじゃねえか」

 乱太郎から一番に報告を受けた青年は、あっさりとそう言ったという。この言葉、噂が広がり、他の生徒たちが彼にどういうことかと詰め寄ったときも、彼はのんびりと同じ言葉を返した。

「きり丸…お前、ずいぶん冷静だな」
「そうか?普通だろ」

 乱太郎の親友を自称し、乱太郎本人も自分の親友だと表現するその青年は、頭の後ろで手を組み、あくびを噛み殺した。乱太郎に彼氏ができたことで、彼が荒れるのではないかと懸念していた伊助は、いつもと変わらぬ様子のきり丸に拍子抜けしつつ胸を撫で下ろした。昔から、乱太郎に何かがあると周りを壊滅…まあ、それなりに暴れるということを何度となく繰り返していたので、今回はどんなことになるかと心配していたのだが。

「だってあいつさ、初等部のときから浦風のこと好きだったんだぜ?」
「知ってたのか?」
「当たり前だろ、俺を誰だと思ってんだよ。……あいつは七年越しの思いが叶ったんだ。あの笑顔見たろ?乱太郎が幸せなら、俺はそれで良い」

 さらりと言葉を接いでいったきり丸に、杞憂だったなと伊助は思う。
 乱太郎を後輩に取られてしまったのは悔しいけれど、きり丸が言うように、彼女が幸せなら温かく見守ろう。きり丸のように。
 そんなことを考えていた伊助の横で、きり丸はひとつ大きく伸びをすると、同じ調子で口を開いた。

「でもまあ、乱太郎を泣かせたら…………浦風には覚悟してもらわねえとなあ」

 のんびりしたその調子が、かえって怖ろしく聞こえた。
 あとできちんと釘を差しておこう、それがあの二人のためだと伊助は、思ったという。


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