保健委員会の日常 その3
さて、その日医務室に詰める当番であったのは一年は組の善法寺伊作と六年ろ組保健副委員長の鶴町伏木蔵の予定であった。
予定、と記述したのにはちゃんとした理由がある。午後の授業はとっくの昔に終わったというのに、当番のはずの伏木蔵がまだ姿を見せていないのだ。
不運な生徒が選ばれるという保健委員のこと、おそらく、いや十中八九何かしらの不運に巻き込まれているであろう副委員長に思いを馳せながら、伊作はこの状況をどうしようと医務室をくるり一巡り、見やった。
「なんだと!?てめえ、もういっぺん言ってみろ!」
「ああ、何度でも言ってやる!さっきの合同授業、早がけで勝ったのはおれだ!」
「ふざけんなよ文次郎!あれはどう考えてもおれの方が先にゴールしてた!」
「ふん、寝言は寝てから言え留三郎!」
「それはお前だろうが!」
医務室のど真ん中でぼろぼろの状態で威嚇しあう二人に、伊作はため息をついた。一年い組の潮江文次郎と一年は組の食満留三郎は、何かに付けライバル心をむき出しにしてああだこうだとやり合うのが常なのだが、午後に行われた合同授業でもやはりやってくださりやがったのである。
授業の最後に行われた早がけで、どういう因縁か競うことになった二人は、ライバル心云々の問題と実力が拮抗していることも手伝って、ゴールテープをほぼ同時に切った。そこできっちり判定がついていれば問題はなかったのだろうが、記録をしていた教師が曖昧な物言いをしたために、二人の心に火を付けてしまったのである。
授業はそこで終わったのだが、収まりがつかなくなった二人は終了の鐘の音と共に姿を消した。二人が授業時間を越えて鍛錬(と言う名の勝負)に出るのはいつものことなので、またか程度にしか伊作は思っていなかったのだが、どうやら話を聞いていると、文次郎と留三郎は途中で「あの先輩」に出くわしたらしい。
二人曰く。
「猪名寺先輩もおれの方が速いと言ってくださった!」
「嘘つけ!猪名寺先輩はあの時おれの方を見て言ったんだ!お前じゃねえよ!」
察するに、猪名寺先輩は二人のどちらかに、ではなく、二人に対して「二人とも足が速いねえ」と言ったのだろう。ほわほわと日向のような笑顔で言う乱太郎の顔がたやすく想像できて、伊作は少し面白くないと感じた。
単純に乱太郎に誉められて羨ましいと思うし、誉められて有頂天になった二人が無理をしてあちこち怪我をこさえて帰ってきたことにも怒ってやりたかった。
殊に一年生や二年生と言った低学年の生徒が傷つくのを悲しがる優しい先輩の顔を悲しみで歪ませる原因を作る二人が気に食わなかったのだ。
二人を止めたら思いきりしみる消毒液を使ってやろうと救急箱の中をあさっていると、伊作の隣で文次郎と留三郎のやりとりを見物していた小平太がそれはもう明るい声を上げた。
「でもお前ら二人よりおれの方が速かったよな!」
その発言に伊作はぎょっとした。
それは、確かに事実であった。三組合同で行われた授業であったため、一年ろ組に属している小平太ももちろん同じ授業を受けたのだが、件の早がけで誰がどう見ても一番速かったのは小平太だった。
二人ずつ走ったので正確には分からないが、おそらく小平太は文次郎と走っても留三郎と走ってもどちらにも勝っていただろう。ちなみにこれはまったくの余談ではあるが、実際小平太と走った伊作は途中で転倒したのでそれ以前の問題であることも一応追記しておきたいと思う。
だから、小平太の発言はただ事実を述べただけのことであって、彼には何も悪いところなどはなかった。いや、正確に言えば発言の内容には何も問題はなかったのだが、発言したタイミングに問題があったのである。
平たく言おう。空気読め、というやつである。
「なんだと、小平太…」
「なんだともなにもないだろ?事実なんだから」
「実際に比べてもねえのにどうしてそんなことが言えるんだよ!」
「比べるまでもないだろ?だって事実だし。乱太郎先輩にも小平太はその内私よりも速くなるかもねって言われた!」
あくまで淡々と、余裕ありげに言う小平太に、文次郎と留三郎の目がつり上がる。これはまずい、このままだと僕には止められなくなる、怪我の手当てどころの話じゃなくなると顔を青くした伊作の前で、医務室の扉がからりと開け放たれた。
「お?小平太に一年ボーズたち、お前らこんなところで何やってるんだ?」
「さわがしいぞ!」
ひょこりと顔を覗かせたのは、四年ろ組の次屋三之助と神崎左門の二人だった。正直、助かったとは言えない二人の先輩の登場に、失礼だとは思いながら伊作はちょっと泣きそうになった。
どこをどう走り回ったらそうなるのか、土やら草やら葉やら枝やら色々なものをくっつけている二人は、案の定体中に無数の傷を負っていた。先輩たちも手当てが必要だと思っている伊作の前で、三之助と左門はそれぞれ自分の所属する委員会の後輩に声をかける。
「小平太、お前なにしてるんだ?」
「乱太郎先輩が来るのを待っていた!三之助先輩こそこんなところで何してるんだ?」
「俺は迷子になった数馬やら藤内やらを探しにきたんだ」
「へー」
「あのー、次屋先輩…数馬先輩はまだしも、浦風先輩がここにいる確率は高くないと思います…」
「伊作、それ言っても仕方ないだろ…というか、医務室にたどり着いたのも多分偶然…」
あいつらすぐどっかに行ってしまうんだ困ったもんだよなあとのんびり言う三之助に、思わず伊作は手を挙げて言ったのだが、悲しいかな、留三郎が言うとおりであろう。
三之助の直接の後輩である小平太はさして興味がないのか、欠伸をかみ殺していた。
一方、会計委員の神崎左門と文次郎はといえば。
「文次郎、お前こんなところで何をしていたんだ!まさかまた猪名寺先輩の手を煩わせるような真似をするつもりだったのか!」
「そんなつもりはこれっぽっちもありません!ただ、留三郎の奴が」
「なんだと、てめえ人のせいにすんのか!」
「お前が突っかかってくるから悪いんだ!」
「いつもお前の方が先に突っかかってくるだろうが!」
「あーあー、そこまでそーこーまーでー。数馬が来たらお前ら大目玉食うぞ。あいつほんと怖いから、すごく怖いから」
「次屋先輩、今日数馬先輩は当番じゃないのでいらっしゃらないと思います…不運に巻き込まれて怪我の治療にいらっしゃらない限りは…」
「何!?それは本当か善法寺!」
四年生二人の真剣な目を受け、伊作はしまったと口に手を当てた。しかし、時すでに遅し。
「確か今日、猪名寺先輩は夕食時の医務室当番だったよな!」
「なぜそれをあなたが知っているんですか神崎先輩…」
「ということは、もうしばらく待っていれば猪名寺先輩にお会いできるということだな」
「え、えええええ!?」
きらりと瞳を煌めかせた左門と、得心顔で頷いた三之助は、伊作が感じた嫌な予感通り、どかりと医務室の床に腰を下ろしてしまった。
冗談ではない。この二人に居座られたら他の三人も居座るに決まっているのだ。反面教師にしてほしいのに、どういうわけか成績優秀な文次郎も物わかりのよい小平太や留三郎も、「先輩がいるなら自分たちも居座っても良い」と勘違いする。
もっとも、それだけを理由にはせず、怪我の治療が済んでいないだのなんだのと理由をつけるのだが、それはすべて建前で、三人も乱太郎に会いたいと思っているのは明白だ。
こうなる前にさっさと文次郎と留三郎の治療を終わらせて、医務室から追い出しておくべきだったと後悔をしている伊作の前に、三人目の紫色の忍装束が降り立った。
一瞬、保健委員会の先輩である三反田数馬かと思った伊作は助けがきた!と表情を明るくしたのだが、残念なことにそれは数馬ではなかった。
「てめえら…」
背中しか見えないその人は、背中しか見えないというのにはっきり怒っているのが分かった。がっしりした肩や、腹、いや全身が怒りの熱が生んだ陽炎に揺らめいているように見えた。そして、口から放たれる地獄の底から絞り出してきたような低い声が、医務室に響きわたる。
「何度、なーんーどー言ったら分かるんでえ…」
「あっ、作兵衛。いたいた」
「やっと見つけたぞ作兵衛!また迷子になりやがって!」
三之助と左門の前に立つ作兵衛は、おどろおどろしい空気を纏っている。正直言って、怖い。暑いはずの医務室が一気に室温を下げ、心なしか暗くなっているようにも思われた。間近で作兵衛の怒りに触れている伊作だけではなく、文次郎と留三郎も、あの小平太でさえ顔がひきつらせている。
しかし、そんな恐ろしい作兵衛を前にしても三之助と左門はどこ吹く風で、少々ずれているが、「四年生の先輩ともなると少しのことでは動揺しないのだなあ」と一年たちに思わせる力はあった。
一年生四人がこれから起こるであろうことから目をそらし、現実逃避をしている中で、作兵衛に最も近い場所にいた伊作はその音を聞いた。確かに聞いた。
後に彼は語る。堪忍袋の緒が切れるというのは、ああいうことをいうのだとそのとき初めて知った、と。
「ふざけんなぁあああああ!!」
まるで、宝禄火矢が暴発したかのような怒号が医務室に響きわたった。一年生四人を飛び上がらせたその怒号に、もうここまでいくと呆れを通り越して感動すら覚えるほど普段通りの三之助と左門は、きょとんと首を傾げた。
「ふざけんなって」
「なにがだ?」
「お前らな!いつもいつも言ってるがいい加減に自分が、自分たちの方が迷ってんだって自覚しやがれ!いいかもう一度言うぞ、迷ってんのは俺でも数馬でも藤内でも孫兵でも、その他大勢の誰でもねえ!おーまーえーらーのーほーうーだぁあああああっ!しかも医務室なんぞに迷い込みやがって!見ろ!善法寺が仕事できねえで困ってんじゃねえか!しかも今日は猪名寺先輩がいらっしゃる日!猪名寺先輩に迷惑かけるようなことがあったらてめえらまとめて壁に塗り込んでやるからな!!いやもうむしろやってやる!今からやってやるから覚悟しやがれ!!」
伊作は思う。富松先輩のおっしゃることに言いたいことがものすごくたくさんある。
自分が仕事できない原因の一端を担っているのは誰でしょうねとか、どうして富松先輩も今日乱太郎先輩が当番でいらっしゃるのを知っているんですかとか、今先輩が振り上げている壷は大事な膏薬の壷なんですとか、それはもう色々と叫びたかったが、落ちてくる涙で視界が霞んで前がよく見えなかった。それに自分の委員会の先輩を応援する友人たちの叫びのせいでよく聞こえないであろう。
誰か助けて、と思った瞬間、がきん、という硬質の音が余韻を響かせながら伊作の耳を叩いた。
「三人とも、それまでだ」
四年生三人が争っていたそこに立っていたのは、五年は組の時友四郎兵衛であった。彼の足下には床と仲良くしている四年生三人の姿と、頭を押さえて痛みに耐えている一年生三人の姿があった。大方、四郎兵衛の拳骨というには重く痛みも大きいそれを食らったのだろう。床に伸びている三人は、もしかしたら手甲に忍ばされた棒手裏剣をお見舞いされたのかもしれない。
四郎兵衛は握りしめていた手を解くと、はああ、と深いため息をついた。そして、ぽかんと口を開けている伊作に向かって、苦笑してみせた。
「ごめんな、またこいつらが迷惑かけてしまって」
「い、いえ!」
「三之助と小平太はきっちり僕が回収するから、仕事に戻っていいよ」
「し…四郎兵衛先輩…棒手裏剣、新しいものに変えました…?」
「い…いつもより…いた、痛い…」
「ああ、それは」
「それは、用具委員会が特別協賛した手甲に入れておくと殴ったときに気絶しないけどものすごく痛い棒手裏剣だよ」
「山村先輩!」
「やっほー、作兵衛回収しにきたー」
声のした方を見れば、入り口ではなく、床下から顔を覗かせた六年は組の山村喜三太が、ひらひらと手を振っていた。
彼は軽やかな動きで医務室の床に降り立つと、伸びたままの作兵衛に近付いた。そして無造作に忍装束の首周りをひっつかむと、じゃあお邪魔しましたーと笑顔で去っていった。彼らが入り口の向こう側に消える一瞬前、作兵衛、熱くなるのもいいけどほどほどにしないと×××するからねと恐ろしい言葉が聞こえた気がしたが、残されたメンバーは気にしないことにした。
「さ、さて…三之助、小平太、僕たちも帰るぞ」
「あ!待ってください、帰るならちゃんと治療してからにしてください!」
「治療?なんだ小平太、お前怪我したのか?」
「いえ次屋先輩…治療が必要なのはあなたです」
「ははは阿呆だな三之助!自らの怪我に気づかぬとは!」
「そういう神崎先輩もですからね…」
「俺か!?俺に治療は必要ないぞ!」
「あ、俺もいいから」
「良くないです、小さな怪我でも放っておくと…」
「だってもうすぐ猪名寺先輩がいらっしゃるだろう?」
「猪名寺先輩に治療してもらうから、いい」
え、この後に及んでまだ居座る気?後ろで時友先輩が顔をひきつらせているというのに、まだ?ああもう今の僕には荷が重い、重すぎるよ!
伊作が魂の限界を越え、四郎兵の堪忍袋も限界を迎え、文次郎と留三郎の「先輩を尊敬する心」ががらがらと音を立てて崩壊し、小平太が欠伸をかみ殺したとき。
「じゃあ、僕が治療してあげるよー。反対意見はことごとく却下だからねー」
入り口の障子が、喋った。いや、それはもちろん幻想で、実際はどこぞの恐怖演出のごとくゆっくりと開いていく障子の向こう側にいるその人が話しているのだけれど。
「ふ、伏木蔵先輩…」
「伊作遅くなってごめん、大変だったでしょ?ここからは僕が引き受けるから安心していいよー。あれれー?みんなそんな顔してどうしたのかな?ああ、大丈夫大丈夫、痛みなんて感じないから、すぐ終わるからねえ」
分かってる、治療のことだと分かってはいる。それなのに「痛みなんて感じない」だの「すぐ終わる」だのという表現が、どうしても、どうしても違った意味に聞こえてしまうのは伊作だけではないだろう。飄々としていた四年生二人も、四郎兵衛も、文次郎も留三郎もあの小平太ですら顔を真っ青にして震えている。
「みんな六年ろ組みたいになってるねえ。何があったのかなあ?すごいスリルー」
そうしてにやりと微笑んだ伏木蔵に、この先輩が保健委員で本当によかったと心の底から思う善法寺伊作、一年の(体感温度的な意味で)冬であった。
その日から数ヶ月間、医務室は毎日がとても平和になるのだが、その理由を知るのは一部の人間ばかりで、医務室の妖精であるところの保健委員長猪名寺乱太郎は、今日ものほほんと包帯巻き機で包帯を巻いているという。
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前回・前々回と登場させられなかった委員会のメンバーを出したらカオスになりました。でもやっぱり最凶…もとい最強は伏木蔵さんです、というオチ。
うーん、委員会は一応コンプリートしたのですが、出せなかった子が結構たくさんいるので、また書くやもしれませぬ。
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